『FM STATION 8090【小林克也 インタビュー】① シティポップが輝いたFMラジオ黄金時代』からのつづき
第2回:山下達郎「COME ALONG」とベストヒットUSA
大阪のディスコで盛り上がった山下達郎の曲
―― 2022年〜23年にリリースされたオムニバスCD、『FM STATION 8090』シリーズは、小林克也がナレーションを入れた山下達郎のアルバム『COME ALONG』(1980年)がモチーフとなっている。『COME ALONG』とは、A面が当時のディスコをイメージした “Dancing Side”、B面がハワイのラジオステーションを再現した “KIKI Station Side” というコンセプトで制作された、山下達郎のコンピレーションアルバムだ。
小林克也(以下:克也):デビューしたての山下達郎は、先を見据えた感覚を持っている人たちにしか知られていませんでした。当時(1970年代後半)はディスコブームで、彼の所属していたRCAレコード含め、多くのレコード会社がディスコ向けのプロモーション盤を作っていた時代。この頃のディスコDJはしゃべりがひとつの特徴だったので、サンプル盤にしゃべりを入れてアメリカのポップスの放送局みたいに仕立てて、それでディスコ向けにプロモーションしようと。
そんな時、当時の達郎の担当ディレクターが “克也さん、大阪に行ったら面白いですよ” と。つまり、大阪のディスコでは、洋楽メインの選曲の中で、DJが達郎のレコードもかけていたんです。しかも達郎が一番ウケている。かけるタイプの曲はディスコによって違うけれど、達郎の曲はどのディスコでも共通して盛り上がったようです。当時の東京のディスコでは邦楽をかけることはありませんでしたが、大阪はかけていたんです。
竹内まりやが山下達郎の曲をリクエスト
そこに、“山下達郎の音源でディスコ向けのプロモーション盤のようなものを作ってください” という依頼が来ました。それが『COME ALONG』です。ある日、RCAで打ち合わせをしていたらレコード棚にサーフィンのレコードがあって、そのアルバムにはハワイのラジオ局、KIKIのジングルが使われていました。これにインスピレーションを感じて “これ使っていい?” と。それで竹内まりやにも連絡して “KIKIにリクエストの電話をかける設定で、達郎が今人気だから曲をかけてっていう英語のセリフを入れてくれないか” と頼んだんです。だからあのアルバムには竹内まりやも出演しています。
そうすると朝妻さん(註:朝妻一郎 音楽プロデューサー)が、“このプロモーション盤に2〜3万円のプレミアがついている。権利関係を全部クリアしてカセットにして出すから” と言ってくれました。その頃、達郎が出演していたマクセルのカセットテープのCMが流れていたこともあり、このアルバムは何万十枚と売れましたね。

小林克也とカマサミ・コングの共通点は?
―― この『COME ALONG』でのナレーション・スタイルは日本でもスタンダードとなり、人気DJが続々と登場する。そのひとりがカマサミ・コングだった。
克也:僕が1973年にニッポン放送の『オールナイトニッポン』をやっていた時、韓国から “俺は放送の仕事をしているのだけど、この番組をよく聞いています。リクエストはジョージ・ハリスンの新曲を” みたいなメッセージが来たんです。それがカマサミ・コングでした。
彼は、小林克也のイニシャルがK・Kだから、俺も迫力が出るようにカマサミ・コング(K・K)にしたと言ってましたね。それから少し経ってハワイに行った時、彼に連絡したこともあった。独特のスタイルを持っていて、すごく良いDJだからね。カマサミ・コングは、台湾で店をやっていたこともあるけれどDJの道へ。彼の人生もそうやって変わっていきました。
エアチェック文化にも功罪あり?
―― 日本のラジオDJの第一人者だった小林克也の影響を受けたカマサミ・コングが海外でも活躍。そんな時期に雑誌『POPEYE』(1976年〜)が提唱していた “西海岸カルチャー” が大流行。このムーブメントも音楽と大きな関わりを持つようになる。
克也:西海岸カルチャーが流行した当時、音楽がすごい広がりを見せていました。1980年代になると洋楽を聴く人が一気に増えていきます。『POPEYE』は音楽を僕らと違う角度から見ていました。そういうカルチャーの発信源があったからこそ、FM局も流行に敏感な番組を制作するようになり、盛り上がりを見せるわけです。
そんな中エアチェックの文化が生まれますが、僕はエアチェックが大嫌いでね(笑)。ラジオはナマというか、何が起きるかわからないハプニングが醍醐味。一から十まであらかじめ曲を発表するなんてサプライズが何もない。それはある意味、エンタテインメントを殺しているんです。エアチェックのために、何をかけるのか放送の何日も前に雑誌に登録しなければならないんですよ。
アメリカのヒットチャートは常に変化しているので、当然こちらで予想するわけにもいかない。でも今だから話せるけど、僕が担当していた番組で “エアチェック用に曲をピックアップして欲しい” と言われても僕は無視していた。あらかじめ曲を発表するわけにはいかないから。それでは、番組が録音のためだけになってしまう。聴いて楽しむという本質が二の次になっているように思えてしまって……。
「ベストヒットUSA」今や放送開始から40年超え!
―― そして、同時期には『ベストヒットUSA』(1981年〜 テレビ朝日系)もスタートする。

克也:『ベストヒットUSA』がスタートする前、僕のテレビ出演といえば、かまやつひろしやアン・ルイスがテレビに出るとき、“演歌が始まるようなナレーションにはしたくないから、英語で紹介するような司会をやってくれないか” みたいな依頼でした。それで収録スタジオに行くとリハーサルにかなりの時間がかかる。当時はラジオやテレビCMのナレーションをかなりやっていましたけど、それに比べると非効率的だったので、『ベストヒットUSA』の話が来た時にマネージャーをやっていたカミさんに “絶対に断ってくれよ” と念を押していたんです。
だけど、黒服みたいな人が4〜5人現れて、“克也さん、打ち合わせに来ました” と。うちのカミさんは断ってなかった。これはチャンスだと思ったみたいで(笑)。それで結局やることになりましたが、テレビで顔を見せてやるとなったら、大変ですよね。僕は長くても2〜3ヶ月しか続かないと思っていたら後日、テレビ朝日の社長から “小林君、あの番組、面白いんだよ。数字が動くんだよ” と。
それは、どういうことかというと、番組の時間帯が土曜日の深夜11時25分からのスタートで、その日にプロモーションビデオ(ミュージックビデオ)を流したアーティストのアルバムが翌日の日曜日には2〜3倍の売上げがあると。なので、あの番組は1年ぐらい続くと(笑)。その時は驚いたけど、結局は40年を超えてしまった。視聴率でいえば、一時期『ねるとん紅鯨団』(1987年〜)に敗れただけ。あの時間帯を開拓できたとテレビ局は大喜びでしたね。
当時の映像の扱われ方は、“ニューヨークから面白いグループが出てきました。名前はトーキング・ヘッズです” といった紹介から彼らの映像を30秒ぐらい観せるわけです。そして解説をする。しかし、若者たちは最初から最後まで全部観たいはず。そういう計算のもとに番組のプランを立てていきました。また、1980年代の音楽は1960〜70年代の音楽の蓄積や悩みを振り切ったように、物質的でリッチなものになっていきます。ウォークマンで音楽を持ち歩くことが出来るようになり、音楽に映像がついて録画もできるようになる。
アメリカではすでに子どもたちが個室でテレビを観ていた時代。日本でもそう遠くない将来にそうなるはずだと踏んでいました。視聴率もお茶の間の数字ではなく、個人の視聴率というものが出てくるはず。それを見込んでプロモーションビデオ(ミュージックビデオ)主体の番組をやろうと。そんな状況でスタートした『ベストヒットUSA』ですが、放送開始時(1981年4月)は、MTVの開局よりも前。アメリカでもこういうスタイルの番組はなかったですね。
InformationFM STATION 8090 ~GENIUS CLUB~ NIGHTTIME CITYPOP by Katsuya Kobayashi
01:出航 SASURAI / 寺尾 聰
02:ピンク・シャドウ / ブレッド&バター
03:Boogie-Woogie Lonesome High-Heel / 今井美樹
04:ドラマティック・レイン / 稲垣潤一
05:セカンド・ラブ / 来生たかお
06:シルエット・ロマンス / 大橋純子
07:君のハートはマリンブルー / 杉山清貴&オメガトライブ
08:さよならのオーシャン / 杉山清貴
09:真夜中のドア~Stay With Me / 松原みき
10:都会 / 大貫妙子
11:ルージュの伝言 / 絢香
12:CHINESE SOUP / 土岐麻子
13:渚のモニュメント / EPO
14:HAPPY ENDでふられたい / 杏里
15:オリビアを聴きながら / 杏里
16:midnight cruisin' / 濱田金吾
17:アクアマリンのままでいて / カルロス・トシキ&オメガトライブ
*本作は、架空のラジオFM局から流れる番組という設定のため、DJのMCと音楽が混ざるMIXの音源となります。Previous article:2023/5/5
特集 FMステーションとシティポップ

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2026.05.10