2023年 6月30日

ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース!忘れちゃいけない80年代最強のロックンロールバンド

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ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース「ジャパニーズ・シングル・コレクション -グレイテスト・ヒッツ-」発売日
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80年代の洋楽シーンを語るに欠かせないヒューイ・ルイス&ザ・ニュース


先日6月30日、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース『ジャパニーズ・シングル・コレクション -グレイテスト・ヒッツ-』が発売された。ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースといえば、僕らのような洋楽ファンが80年代の音楽を語る上では欠かせない存在と言える。当時の僕らの関心はほぼ全米ヒットチャートの動向に向いていたからなおさらである。当時は第2次ブリティッシュインベイジョンなどといわれ、英米のミュージシャンが入り混じってチャートを席巻していたから、英語圏全般の動向を知るにも都合はよかったが、それでも自ずとアメリカンロックの新たな担い手たちには、大きな関心を寄せることになる。

70年代から活躍したキッスやエアロスミスらが一線を退き、イーグルスやドゥービー・ブラザーズといったビッグネームも去って、僕らは次なるベンチマークを何に定めるかいつも聴く耳を立てていた。ポピュラーミュージックのジャンルの細分化とクロスオーバーが進み、レコードショップの様相も変わっていった。渋谷にはシスコやタワーレコードのように輸入盤を中心に洋楽を広く扱うショップができ、新しい音楽との出会いも増えていった。

それまではざっくり「ロック・ポップス」のコーナーから50音順で目当てのアーティストを探していた僕らは、より細分化されたジャンルとアルファベット順に並べられた棚割りの前で、しばし立ちすくむようになった… 果たしてマイケル・ジャクソンなら “ディスコ / ソウル” “R&B” “ブラックコンテンポラリー” のどこを探せばよいのか… 売り場の裁量によるところも大きく、最適解もない中、リスナーとしての見識が問われることになる。時代の変わり目とは何時だってそんなものだ。

ボーダレス化が進むと、やがてエッジの利いたハードなものや尖った楽曲はなりを潜め、角の取れた、耳あたりの良い楽曲が好まれるようになる。先鋭的なプログレやハードロックの演奏家たちが、ソフトロックやポップロックに路線変更すると、そこから数々のビッグヒットが生まれた。

ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースが「これぞロックンロール」という、R&B色の強いオールドスタイルのロックを引っ提げて登場した頃のミュージックシーンには、そんな背景があったように思う。どこかアマチュアっぽい、擦れていない感じに聴こえたその音楽に、僕らはロックの原点を見せつけられたような気がしていた。

ビルボードアルバムチャート1位を獲得した「SPORTS」


1983年9月にリリースされたアルバム『SPORTS』は、翌年6月30日付のビルボードアルバムチャートにおいて、チャートインから39週をかけて1位の座まで上り詰める。アルバムからは4曲のトップ10ヒットが生まれ、年間でもマイケル・ジャクソン「スリラー」に次ぐセールスを記録することになる。彼らのメジャーデビューは1980年で本作が3枚目。わずか3年で成し遂げた快挙であった。

“ロックの原点” と書いたが、彼らの音楽はいわゆる “パブ・ロック”。酒場で客のために奏でられる楽曲をベースにして洗練させたものだ。大層な機材や設備もない代わりに、メンバーが思うがままに楽器を持ち寄り、歌や演奏を聴かせる。芸術性や正義や平和のマインドもないが、巷の話題や愛だ恋だの、身近な出来事を絡めながら「ああロックンロールは最高だ!」とまとめてみせる。肩も凝らず客を楽しませる一方で、何よりコーラスワークまで駆使して演奏している彼らが楽しげに映る。そのいで立ちはまるでサラリーマンの余暇活動のようだ。

改めてアルバム『SPORTS』のジャケットを見れば、日本でも今ではすっかりお馴染みとなったスポーツバーのような風景が広がる。テレビに映っているのは彼らの地元のフットボールチーム49ersのゲーム結果を伝える “スポーツニュース” なのだろう。アルバムタイトルの “SPORTS” はバンド名 “ニュース” にちなんで命名されたものだ。いかにも仕事帰りの一杯を楽しんでいる風情があり、このアルバムにはそんな肩の凝らない時間が詰まっているような気がするのだ。

ロック音楽誕生から当時にして30年あまり、その作風も様々な流派に分かれていったが、崇高な思想や超絶テクなどなくたって「楽しかったら、それでいいんじゃないの」というスタンスは、ボーダレス化して輪郭が朧げになってしまった僕らのストライクゾーンのど真ん中に見事にはまったのである。



満を持してリリースされた「FORE!」


次作のアルバム『FORE!』は、前作「SPORTS」の成功から3年が経った1986年9月、満を持してリリースされる。「FORE!」とはゴルフでコースからボールが大きくそれた時に、危険を避けるためにプレーヤーが発する掛け声と同じもので、他のスポーツでも注意喚起を促す際に用いられる言葉だ。前作に続いてスポーツにちなんだタイトルがつけられているが、内容も同じくキープコンセプトで楽曲の完成度を上げてきたこのアルバムは、リリースからわずか1か月ほどでヒットチャート1位に駆け上がるという大ヒットとなった。

成功から間もない時に新作を手堅くまとめられたことにこのバンドの成熟度合いがうかがえる。1950年生まれのヒューイはこの時すでに36歳。結成から7年足らずとはいえ、既にメンバーのキャリアはベテランの域に達しており、年輪を感じさせる雰囲気を漂わせていた。

アルバムのジャケットの背景に描かれたのは彼らが学んだ母校の校舎。メンバーの親密さが伝わってくるようで成功を分かち合うかのようなビジュアルは、差し詰め「努力」「勝利」「友情」を表現する少年ならぬ “中年ジャンプ” といったところだろうか。またこのアルバムのヒットの要因はリリース前年に取り組んだ大きな仕事の成果でもあった。映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の挿入歌の提供である。



「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で結実するビジュアルを駆使したイメージ戦略


ブレイク前の頃に話を戻すと、彼は当初からバンドのブランディングというのを強く意識していたようである。ファーストアルバムのタイトルがバンド名というのは決して珍しくはないが、彼はこのパフォーマンスのスタイルやバンドのアイコンとしてのビジュアルを重要視していた。演奏スタイルも過度にラフになりすぎないよう、都会人として自然な例えばホワイトカラーのシャツにタイ、時折R&Bへのリスペクトからドゥーワップグループのようなタキシードジャケット姿でステージに上がることもあった。

同じ頃に活躍していたロッカーたちの中では同年代のブルース・スプリングスティーン(1949年生)、ジョン・クーガー・メレンキャンプ(1951年生)のようなデニムにTシャツといったラフなスタイルではなく、かといってトム・ペティ(1950年生)のようなスタイリッシュさでもない、あくまで都市のオフィスワーカー達の味方とあろうとするスタンスが伝わってきたように思う。

音楽業界はすでにMTVを核としたビジュアル戦略が不可欠な要素となっていった。PVはもっぱら当時よく制作されていた青春グラフィティやラブコメ映画のシーンを模したものが制作され、彼らの音楽を支持する… 僕らのような若年層(当時)、もちろんそれらを懐かしむ大人たちに対しても訴求力を高めていた。

またオールドスタイルロックの継承者として、先達に対するリスペクトも忘れてはいなかった。アルバム『SPORTS』から3枚目のシングルとなった「ハート・オブ・ロックンロール」では、NYやLAといったメガシティだけでなく、ボストンやシアトルなどの中核都市はもちろん、ロックの殿堂があるクリーブランドとモータウンの本拠地デトロイトは特に強く意識しながら、どんな都市にもロックは息づいていると歌い、その中でロック黎明期の1950年代に活躍したプレスリーやリトル・リチャード、チャック・ベリーの映像をインサートしてオマージュを捧げている。

そしてこれらのパフォーマンスがその後、50年代にタイムスリップするストーリーが展開する、かの『バック・トゥ・ザ・フューチャー』に提供した主題歌「パワー・オブ・ラブ」につながっていくのかと思うと、もはや彼の参加は必然的のようで、その引きの強さには驚くほかない。



おっさんたちがロックしてもいいんだという密かな憧れ


この頃のミュージックシーンを見ていて感じていたのは、時代は一握りの天才と強烈な個性の持ち主が切り拓くものだということ。もちろん実力派の大物プロデューサーに突如に引き上げられ、眠っていた才能を一気に開花させる者もあったかも知れないが、誰の力も借りず自らの力で成り上がっていく、マイケルやプリンス、マドンナといった主役たちがもっとも輝いていた時期でもあるだろう。

そこに突如として現れたヒューイ・ルイス&ザ・ニュースに初めて抱いた感想は「あぁ、おっさんたちがロックしてもいいんだ…」というものだった。だが肩の力が抜けた感じでギター片手に酒場でワイワイやっていそうな雰囲気に、「こんな大人っていいよな」と密かに憧れないわけにもいかなかった。

気負いもイタさもなく、そんなことができるのはグループの成り立ち、ひいてはヒューイの生まれ育った環境によるところも大きいのだろうと思う。

60年代はサンフランシスコのヒッピームーブメントの中で育ち、教育熱心な父親の方針でいきなり東海岸、ニュージャージー州の名門進学校へ送り込まれると、全米屈指の名門コーネル大学工学部へ進学する… 将来はエンジニアとして有望な未来が約束されていたかのように思えるが、やがて大学を中退。大学進学を前に放浪したヨーロッパでの生活に大きな刺激を受け、音楽で身を立てることを決意する。以来、世に出るまでの約10年ほどの間は酒場を回って演奏を聴かせるローカルバンドとして活動。それでも光るものを持っていた彼は度々ヨーロッパに招かれるなどしてデビューのきっかけをつかんでいく…

―― と、まるでドラマのようなストーリーだが、やはりこういった高い教養と育ちの良さ、そしてインディーズでも人気があって雇い主が居れば、ある程度のレベルで暮らしていけるアメリカのアングラショービズ界の懐の深さのようなものが、彼のパーソナリティの根本にある明るさの源なのかも知れない。

80年代のロックの伝道師、ヒューイ・ルイス


ヒューイ・ルイスが創り出す楽曲は、いわゆるポップロックのジャンルとして扱われ、決して先鋭的だったり硬派な音楽ではない。売れ線狙いで大衆に阿るような音楽はリスペクトを得られない傾向もないとは言えない。

だが彼らの音楽の立脚点は、はじめから観衆を楽しませることにあった。そこにリスナーに迎合するといった気負いもなく、不自然さを微塵も感じさせない。曲のタイトルやパンチラインに「パワー・オブ・ラブ」とか「ハート・オブ・ロックンロール」のように中学生でも分かる、やたらとキャッチ―な言葉を選ぶのも彼のサービス精神の表れだろう。僕らに今だにこれらのフレーズに背中を押されるような感覚があるのは、これらがしっかりと刻み込まれていた証なのだ。



彼は2018年に難聴を発症してからは音楽活動の一線は退いたものの現在でも時折80年代のロックの伝道師として、様々なメディアで軽妙なトークを披露してくれている。iTunesラジオ「Huey's '80s Radio」はファンにお馴染みのコンテンツとなっている。人々を楽しませるという点において彼のマインドは永遠に変わることはないのだろう。

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2023.07.05
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