80年代突入時点では生活の一部? 土曜の夜は「全米トップ40」
今からちょうど40年前、1981年春高校を卒業した筆者は、晴れて浪人生活へと突入した。勉強しなければいけないという建前はともかく、中高時代にどっぷりと浸かった音楽、特に洋楽に関わることを将来の仕事にしようという明確な目標を打ち立てた中、音楽そのものに触れる潤沢な時間は確保されたわけだ。要は変わらず音楽三昧の日々が続いていたということなのだが。
今みたいにインターネットなんぞない時代、80年代初頭当時の音楽に触れる方法はというと、ひたすらラジオを聴き(FMのエアチェックは命だった!)、音楽誌やFM誌をむさぼるように読んで、なじみの貸レコード屋で新譜を借りまくっていた。しがない学生(ましてや浪人生)風情にとってはレコードの購入数なんてたかが知れてるし、地上波テレビで洋楽を扱うなんてまずないし、直接的に音に触れられるラジオは、それはそれは貴重な情報源だ。
アメリカのヒットチャート、ビルボードをそのままカウントダウンしたラジオ番組『全米トップ40』(ラジオ関東 / 現ラジオ日本、1972年から放送)は、洋楽情報欲求者にとってはマストというか、80年代突入時点では生活の一部のような、聴くのが当たり前のような番組… 土曜の夜は『全米トップ40』、それは太陽は東から昇るのと同じくらいに当たり前のことだった。
映像の時代に突入、1981年4月4日「ベストヒットUSA」放送開始
1981年春、洋楽愛好家にとっては悩ましい事態が勃発、そう『ベストヒットUSA』の放送が開始されたのだ。今ヒットしている旬の洋楽が映像で紹介される、これは “画期的” のひと言。耳なじみのアーティストが、いま世界で大ヒットしている楽曲が、映像で観られる(聴かれる)衝撃たるや!
米MTV開局(1981年)とともに映像の時代に突入した80年代を象徴・予感させた『ベストヒットUSA』が、あれよあれよという間に話題の人気番組になっていったのは、これまた当然のことだったのかもしれない。
しかし『ベストヒットUSA』の放送は、毎週土曜の夜… そう『全米トップ40』とほぼもろ被りの時間帯だった。これはもう筆者にとっては悩ましい事態、いったいどっちを聴けば(観れば)いいのか、いやいやどちらかを選ぶなんてできない… 湯川れい子氏と小林克也氏、どちらも聴きたい(観たい)よ~。ということで、最初のころは両方いっぺんに聴きながら観たりしたもの。
洋楽全盛期「全米トップ40」と「ベストヒットUSA」と小林克也の功績
日本の70~80年代は、洋楽全盛期(ヒット感や数字的実績)と言われるが、今振り返ってみれば『全米トップ40』と『ベストヒットUSA』が果たした功績は絶大だったのではないだろうか。
なかでも洋楽全般に造詣が深く、アーティストに真摯な、そしてなによりも流暢な英語を操る小林克也氏の存在は、功績の大きな要素を占めていたのかもしれない。
『ベストヒットUSA』開始とほぼ同時期に始動したザ・ナンバーワン・バンド(小林克也氏率いる日本史上最高の音楽バンド~様々な洋楽の意匠を高次元にJ-POP化)のファーストアルバム『もも』(1982年)がリリースされたのが『ベストヒットUSA』オンエアと同時期だったのはなんとも皮肉なこと。
洋高邦低の厳然たる事実を踏まえながら、凡百のJ-POPアーティストを駆逐するような作品だったのだから。そんな小林克也氏が、番組を通して洋楽の伝道師になっていたのだから、心の中で快哉を叫ぶしかなかった。以来筆者は湯川れい子チルドレン、さらには小林克也チルドレンを、勝手に名乗っている。
2021.04.18