2023年 7月5日

ワム!をバカにするな!売れ過ぎて正当に評価されなかった “時代のポップアイコン”

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ジョージ・マイケルのロックの殿堂入りも決定! 再びアツいワム!


2023年7月5日、ワム! のデビュー40周年を記念したドキュメンタリー『WHAM!』がネットフリックスで世界同時公開された。同時に新たなシングルコレクション『WHAM!The Singles: Echoes From The Edge Of Heaven』もリリース。さらにはこのタイミングで、今年はジョージ・マイケルのロックの殿堂入りもすでに決定しているとあって、再びアツいワム! リバイバルが起きそうな予感でいっぱいな昨今。



こうして今、新たなファンまでも獲得しそうな勢いのレジェンド・オブ・ポップデュオについて、平成生まれの80’s ニューウェイヴ伝道師ならではの目線で思いを馳せてみたい。やはり当時売れに売れまくった時代のアイコン。それだけでなく特にこの人たちに関してはイメージという色眼鏡もあり、哀しいかな、正当な評価がなされるまでかなり時間を要したアーティストであることも否めないのだ。ワム! と聞いて鼻で笑う人は、今どれだけいるだろう(苦笑)。

その前にまず、この場をお借りして、これだけは声を大にして言っておきたい。たまにワム! をニューウェイヴだとする声を耳にするが、ワム! はニューウェイヴではない。それは違う。パンクが終焉し、その進化形としてニューウェイヴが台頭、MTVが流行ったことでニューウェイヴっぽいけど最早ニューウェイヴと呼んでいいのか分からないけどとりあえず呼んどけ、みたいな微妙なエレポップがたくさんデビューした1980年代半ば、そのあたりのドサクサに紛れてワム! もその一派にされてしまったのだと思うが、それは断じて違う。彼らがベースにしていたものはそっちではなく1970年代のディスコやモータウン・サウンドであることは、皆さんご存知の通り。

ニューウェイヴのヴィジュアルの美学とは?


ニューウェイヴで外せないのはヴィジュアル表現である。音楽的にはパンクやポストパンクが背景にあるわけだが、それだけで定義するには困難なほど、ニューウェイヴには多種多様な音楽性を持ったアーティストが溢れているのも事実だし、現にエレクトロニクスを駆使してディスコサウンドを新解釈したというのも、当時のニューウェイヴシーンにおける流行であった。しかし、それはあくまで “白人の音楽として” である。

もうひとつ外せないものとして「ロキシー・ミュージックorデヴィッド・ボウイ的」なヴィジュアルや美学を持っているかどうか、というのが、80年代のニューウェイヴ、特にニューロマンティック(ニューロマ)と呼ばれたバンドたちにとって重要なファクターだったことは違いない。

私も以前、当時の『ミュージック・ライフ』を読んで、“このヴォーカルの歌い方は(ブライアン・)フェリー派、こっちはボウイ派” とか、女性編集者目線で分析しているのを見て、ニューロマムーヴメントの源泉にこのグラムロック二大巨頭の絶大な影響力があったのだという歴史の流れを、なんとなく肌で感じたものだった。

恐るべき完成度でリアルな黒人さながらのポップスに仕立てた「ワム・ラップ」


では話をワム! の音楽に戻そう。実は私は初めてワム! を聴いたとき、その声とサウンドから最初は黒人だと勘違いしていた。まだ12歳で、洋楽はビートルズしかちゃんと聴いたことがなかった頃。学校は憂鬱だし、放課後に遊ぶ友達もいなかったので、憂さ晴らしに毎日TSUTAYAに行くのが日課だった。当時、月9ドラマで『ラスト・クリスマス』というドラマが放送されていて、その主題歌はもちろんワム!。その影響で、その時もワム! リバイバルが起こっていたタイミングだったのである。

そこでTSUTAYAのピックアップコーナーに面出しされていたベスト盤『ザ・ファイナル』を、ヘンなグループ名に釣られてレンタルしてみた、というのが、私のワム! との出会いであった。

よって、一番最初のワム! 体験は、『ザ・ファイナル』の1曲目「ワム・ラップ」。音楽体験の未熟な子供にとっては、80年代のリアルタイムならまだしも、そもそも人生で2番目に聴く洋楽として微妙だと思う(笑)。ただ、なんとなくあのハイトーンボイスとクラップ、ファンクのリズムが、ロードショーで観た『天使にラブソングを…』をフラッシュバックさせて、勝手に脳内で黒人に変換されていたという思い出。



つまりデビュー作(「ワム・ラップ」はデビュー作『ファンタスティック』(1983)収録)の時点ですでに、ブラックミュージックの影響を自らの中で消化し、忠実なリスペクトをもって、恐るべき完成度でリアルな黒人さながらのポップスに仕立てているのだ。

「ワム・ラップ」にしたって、白人ラップという点では先にブロンディが「ラプチャー」(1980)でおぼつかないながらも先駆けて導入していたし、元祖といわれると異論がある。だが、あの早いBPMのファンクなビートで、RUN‐DMCやビースティ・ボーイズよりもずっと前に完成させていることは、もっと評価されるべき功績だ。あの曲を書いた当時、ジョージは18歳。何の影響を受けてあんな先鋭的な曲が書けたのか謎である。それ以前の黒人ラップ界で神だったのはグランドマスター・フラッシュやカーティス・ブロウといった面々だが、「ワム・ラップ」のような楽器の使い方は決してしなかった。

そこはやはり、シックなどのディスコバンドのブラス隊の使い方を参考にしたとも取れるだろう。シュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」の要領をポップス文脈でやってみた、といったところか。妄想は止まらない。

アレサ・フランクリンとの共演も果たしたジョージ・マイケの才能


当時のイギリスの音楽シーンではアメリカの黒人音楽に憧れ、自身の音楽に取り入れるアーティストが多くいた中で、これほど早熟で突出した才能は他になかったはずだ。それ以前から似たような方向性だったカルチャー・クラブでさえ、ソウルやゴスペルの要素を消化しきらずにアヴァンギャルドに留めていた(結果的にそこがニューウェイヴっぽさに繋がる)。

ワム! がバンド・エイドに参加した時など、周りの先輩アーティストから「ダサくてチャラチャラした格好でモータウン・ビートなんかやってんじゃねえ」的にバカにされたというエピソードもあるが、本家アメリカであれだけ認められ、ジョージに至ってはイギリスで誰しもが憧れたアレサ・フランクリンとの共演も果たし、完全に見返してやったという感じだろう。

中でも、とりわけワム! をバカにしていたのがポール・ウェラー師匠。オシャレとアティチュードという規律を守り抜くパンク / ニューウェイヴ精神は英国人の鑑である。

そんな彼からすれば、神聖なモータウン・サウンドをチャラチャラしい能天気な歌詞や、裸に革ジャン、上履きにピチピチ・ホットパンツなどというふざけた衣装で冒涜しやがって、とお怒りになる気持ちも大変よく分かる。実際にワム! のおふざけのセンスはひたすらダサいに徹したところがあって、真摯な英国人からはなかなか理解されなかったのが、音楽性の評価を先延ばしにしてしまった痛いところ。

スタイル・カウンシル以前にモータウン・ビートを導入


しかし、である。ことイギリスのロックシーンにおけるモータウン・ビートの導入、のちにブルー・アイド・ソウルとかソフィスティ・ポップとか呼ばれるようになるアレだが、その大流行を起こしたのもやっぱりポール・ウェラー師匠がスタイル・カウンシルで大々的にオシャレにやってのけたからであり、その後エヴリシング・バット・ザ・ガールとかブロウ・モンキーズ、スウィング・アウト・シスターなど続いていき(おかげでこの辺までニューウェイヴ扱いされるというカオスぶり)、イギリスでアシッド・ジャズが生まれ、逆輸入的にアメリカに飛び火する… という流れがあった。

その発端こそスタイル・カウンシルがセカンドアルバム『アワ・フェイバリット・ショップ』でモータウン・サウンドを全面に取り入れたからなのだが、全く同じような形で、それ以前にワム! がしれっとそれをやってのけている曲がある。それが『ファンタスティック』(1983)収録の「初めての恋(Nothing Looks the Same In the Light)」。



これはもう、そのまんまスタカン(スタイル・カウンシルの略)のメンバーが作ったんでは、と思えるくらいの曲。ジョージが作曲・アレンジ・ドラムス以外の全ての楽器を演奏、両バンドをつなぐ元ワム! の女性バックコーラスで、後にスタカンのメンバーを経てポール・ウェラーの奥方となるD.C.リーは、この曲には参加していない。

この曲のテイストはその後「ライク・ア・ベイビー」(2nd『メイク・イット・ビッグ』)、「ブルー」(3rd『エッジ・オブ・ヘブン』)とつながる。この、スタカン以前に、すでに “思いっきりスタカン” な音楽をやっちゃっていたジョージ。ワム! を抜けスタカンに移籍したD.C.リーの影響があったのかは分からないが、もしかしたらポール・ウェラー的にも、自分のやりたい音楽をしれっと完成させていたジョージに対するやっかみも、あったんじゃないの? と考えるのは意地悪だろうか(笑)。



ワム! の音楽をヒントにしたポール・ウェラー?


当然、イギリスのようなお国柄でブームを起こすにはファッション性が欠かせないので、ポール・ウェラーがジャズ色を強め、オシャレなムーヴメントとしてソフィスティ・ポップを完成させる際にワム! の音楽をヒントにした、と考えることは可能だろう。

ワム! がそのムーヴメントの一員になることがなかったのは、あくまでイギリス的新解釈として定着させたポール・ウェラーたちと違い、ワム! の音が(あの有り得ないほど上手い歌唱力に加え)リアルにアメリカに寄せていたから、というのもあるだろうし、そういった、業界の “コミュニティ” とは外れたところにいたのも一因だろう。

しかし、そうして少なからず業界内で影響を与えたであろうに、そのダサさからバカにされていたというのもかなり皮肉な話である。

ジョージ自身、ワム! の表現は自分の本心としてやったことは一度もない、とハッキリ言っているし。むしろ80年代をリアルで体感していない世代からすると、「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ(Wake Me Up Before You Go-Go)」のMVなどは真面目にノスタルジーに浸ってしまうダサさでもあるのだが、あれが当時の感覚からしてもダサいと思われていたと知ったときは、少し安心したものだ。

しかし、わざとバカをやっているのに誰にも理解されない反動が、永遠の名曲「恋のかけひき(Everything She Wants)」誕生につながったと思うと、悪いことばかりではない。

ジョージにとって精神的な柱だったアンドリューの存在


ところがこうした一連のフラストレーションが解散の引き金になったのも事実。ジョージは本名をイェルイオス・キリアコス・パナイオトゥといい、子供の頃から内気で友達がなく、自分の中に架空のヒーロー “ジョージ・マイケル” という別人格を作って空想していたのは有名な話だ。その別人格をリアルで演じるようになり、たくさんの名声を得ながら罵倒もされ、結局ソロとなってもアメリカで不当な評価をされた時代もあった。彼の変遷のさまは、自分の中の架空のヒーロー “ジョージ・マイケル” に辿り着くための孤独な旅だったように思う。

だからこそ、ジョージにとってのアンドリューの存在は精神的な柱だったと思うのだ。今回はなかなかアンドリューについて語れなかったのが心残りだが(語る気はあります)、曲もほとんど作ってないし、ギターも初期以外全然弾いてないけど、ある意味ワム! はやっぱりアンドリューありきの世界。ふたりの友情物語がドキュメンタリーでどんなふうに描かれるのか、ここはやっぱり見どころだろう。

アンドリュー。ジョージ・マイケルをバンドに誘ってくれて、至高の天才をこの世に生み出してくれて、そしてジョージのいちばんの友達になってくれて、本当にありがとう!

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2023.07.06
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カタリベ
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