ウォークマンⅡの発売と「ベストヒットUSA」のスタート、そしてFM情報誌戦国時代へ
音楽好きにとって、1981年は奇跡の年だった。
その年、2月に初代を上回る大ヒットとなる「ウォークマンⅡ」が発売され、3月にはシティポップの名盤、大滝詠一の『A LONG VACATION』がリリース。4月にはNHK-FMの『サウンドストリート』に佐野元春が登場し、同月、テレビ朝日は小林克也を司会に『ベストヒットUSA』をスタートさせた。
6月には寺尾聡の「ルビーの指環」が『ザ・ベストテン』で12週連続1位となり、7月には業界4誌目となるFM情報誌『FM STATION』(ダイヤモンド社)が創刊され、同業界は戦国時代に突入。8月にはアメリカで24時間、ポピュラー音楽のビデオクリップを流し続ける音楽専門チャンネル『MTV』が開局し、9月には『ザ・ベストテン』が番組史上最高視聴率41.9%を記録した――。
そう、そんな音楽絡みの大イベントが頻発した奇跡の年、1981年。これらの中で、特に注目したいトピックスが、「ウォークマンⅡ」の発売と「ベストヒットUSA」のスタート、そしてFM情報誌戦国時代である。
80年代の音楽ライフスタイル、エアチェック
これに、1979年発売のサンヨーのおしゃれなテレコ「U4」を合わせると、ある行動が見えてくる。
――“エアチェック”だ。若い世代にはピンとこないワードかもしれない。ラジオのFM放送のオンエアから楽曲だけをピックアップし、録音するスタイルを、かつて僕らはそう呼んだ。お目当ての流行りの音楽を、FM情報誌で放送日時を予習し、ラジカセでカセットに録音して、ウォークマンⅡに入れて持ち歩く―― それが僕らの80年代の音楽ライフスタイルだった。
FM情報誌はご丁寧に1曲あたりの尺も記し、番組は曲にDJの声がかぶらないように配慮した。すべてはリスナーのエアチェックのためだった。
いや、厳密には、それは“80年代前半” の音楽ライフスタイルだったとも――。一口に80年代と言っても、前半と後半では、音楽を取り巻く環境も大きく異なる。思えば、80年代前半は、日本人が最も洋楽に接近した時代だった。思いつくままに、当時流行った洋楽を挙げると――
―― ボーイズ・タウン・ギャング「君の瞳に恋してる」、ヴァンゲリス「炎のランナー」、シカゴ「素直になれなくて」、ジョー・コッカー&ジェニファー・ウォーンズ「愛と青春の旅だち」、マイケル・ジャクソン「スリラー」「今夜はビート・イット」、TOTO「ロザーナ」「アフリカ」、サバイバー「アイ・オブ・ザ・タイガー」――
―― カルチャークラブ「カーマは気まぐれ」、ビリー・ジョエル「アップ・タウン・ガール」、アイリーン・キャラ「フラッシュダンス」、ポリス「見つめていたい」、デビット・ボウイ「レッツ・ダンス」――
―― a-ha「テイク・オン・ミー」、ヴァン・ヘイレン「ジャンプ」、シンディ・ローパー「ハイ・スクールはダンステリア(※後に「ガールズ・ジャスト・ワナ・ハヴ・ファン」に改題)」、リマール「ネバーエンディング・ストーリー」、レイ・パーカー・ジュニア「ゴーストバスターズ」、ケニー・ロギンス「フットルース」――
―― プリンス「ビートに抱かれて」、スティービー・ワンダー「心の愛」「パートタイム・ラヴァー」、デュラン・デュラン「ザ・リフレックス」、マドンナ「ライク・ア・ヴァージン」、フレディ・マーキュリー「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」、ワム!「ケアレス・ウィスパー」「ラスト・クリスマス」、ブルース・スプリングスティーン「ボーン・イン・ザ・U.S.A.――
―― ライオネル・リッチー「セイ・ユー、セイ・ミー」、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース「パワー・オブ・ラヴ」―― ふぅ、疲れた。
いや、これらはほんの一例。正直、洋楽にあまり詳しくないという人も、これらのタイトルを見ただけで、勝手に脳内で音楽が再生されるだろう。あるいは、タイトルを知らなくても、これらのイントロやサビが流れたら、誰しも、あぁ!と耳が反応する曲ばかりだ。
思想より感性が優先された時代の洋楽
そう、これが “80年代前半” の洋楽の特徴である。どれもメロディに優れ(ポップ)、思想がなく(ノン・ポリティカル)、大衆的だった(エンタテインメント)。つまり、洋楽ファンでもなんでもない、ごく普通の日本の若者たちが、まるで歌謡曲やアイドルソングに接するように、気軽に洋楽に接した時代―― それが、80年代前半だった。
僕は昨年、
『黄金の6年間 1978-1983〜素晴らしきエンタメ青春時代』(日経BP)という本を出した。Re:minderで連載していたコラムをまとめた本である。
―― それは、1978年から83年の6年間に注目し、その時代、音楽に限らず、テレビや映画、小説など、あらゆるエンタメの分野で垣根を超えたクロスオーバーが進み、今に繋がる新人たち(例えば、松田聖子、サザンオールスターズ、ビートたけし、村上春樹ら)が多数輩出された―― と説いたもの。
背景に、1975年のベトナム戦争終結を起点とするエンタメ市場の “自由化” があり、思想より感性が優先された時代だったと結論づけた。
「サタデー・ナイト・フィーバー」を起点とする新しい音楽時代の幕開け
そう、先の80年代前半の洋楽が、まさに、この「黄金の6年間」と重なる。むしろ、ベトナム戦争終結を起点に、若者カルチャーがより大きく変貌したのは、本場アメリカのほうである。
ベトナムから帰国した元兵士の若者たちにより、西海岸のアウトドア文化が花開き、バッドエンドな「アメリカン・ニューシネマ」に替わって、ルーカスやスピルバーグら若手旗手たちの手でハッピーエンドのハリウッド映画が復活した。
時に、合衆国大統領も1980年に元俳優のレーガンが就任。減税と規制緩和を柱としたレーガノミクスでアメリカ経済は復活し、人々は黄金の80年代を謳歌する。
そんな時代に、アメリカの音楽も大きく変わる。まず、ベトナム戦争を背景にラブ&ピースを掲げたプロテストソングは、70年代後半、皆で歌い踊るディスコミュージックへと変貌する。映画『サタデー・ナイト・フィーバー』を起点とする新しい音楽時代の幕開けだった。
目で聴く音楽へ。極めてエンタテインメント性の高い作品だった「スリラー」
次に1980年、ジョン・レノンが射殺され、いよいよ思想の時代の70年代が終わりを告げる。それと入れ替わるように翌81年、ビデオクリップで音楽を紹介する『MTV』がスタートし、音楽は映像と一体化してセールスされるように。
その象徴が、83年にシングルカットされたマイケル・ジャクソンの「スリラー」だった。ジョン・ランディスが手掛けたミュージックビデオは、14分もの短編映画風であり、極めてエンタテインメント性の高い作品だった。
それ以降、音楽と映像は切っても切れない関係となる。俗に、人間が五感から受ける情報の9割は視覚情報であり、耳で聴く音楽から、ミュージックビデオなど目で聴く音楽へ――。そこから、シンディ・ローパーやマドンナら極めてフォトジェニックなアーティストが脚光を浴びるようになり、あるいは、まんま映画の主題歌が大ヒットする時代へ――。
ちなみに、1967年生まれの僕自身、“音楽・奇跡の年” の1981年が中学2年で、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の主題歌「パワー・オブ・ラヴ」が大ヒットした1985年が高校3年と、人生において最も多感なミドルティーンがすっぽり80年代前半と重なる。そんな僕らの世代の音楽ライフは当時、邦楽は『ザ・ベストテン』、洋楽は『ベストヒットUSA』を毎週欠かさず見て、FM情報誌でお目当ての楽曲の放送日を予習して、エアチェックするのが日課だった。
表紙は鈴木英人のイラストだった「FM STATION」
正直、武骨な初代ウォークマンは敷居が高かった僕らも、スタイリッシュになり、サイズもひと回り小さくなったウォークマンⅡは、お年玉をはたいて、迷わず買った。そう、人の購買動機に最も有効な手立てはデザイン―― 僕があの時、学んだ人生の哲学である。
そして、エアチェック用に重宝したのがFM情報誌で、僕らの間では『FMレコパル』(小学館)派と『FM STATION』(ダイヤモンド社)派が半々だったと記憶する。あとの老舗の2誌『FM Fan』(共同通信社)と『週刊FM』(音楽之友社)は、もう少し上の世代を狙っていたと思う。
レコパルはコラム記事と連載が面白く、一方のSTATIONは、なんと言っても鈴木英人(すずき・えいじん)サンが手掛ける表紙のイラストと、付録のカセットケースのレーベルが魅力的だった。僕自身は、両誌をパラパラと見比べて、その時々の気分でどちらかを買っていたと思う。
エアチェックする楽曲は洋楽6:邦楽4で、洋楽が多かった。それは、マイ編集したカセットケースに、洋楽のタイトルが並ぶほうがカッコよく、時に友人らと貸し借りが行われたからである。
邦楽も、もっぱら入れるのは、佐野元春や大滝詠一、ユーミン、南佳孝、山下達郎らポップス勢(当時はシティポップと呼んでなかった気がする)ばかり。松田聖子や中森明菜らアイドルソングを納めたテープは、部屋の奥深くに隠された。
そうそう、当時はカセットテープにも流派があった。SONY派、TDK派、maxell派―― 生まれついてのソニーっ子だった僕は、もっぱらSONYのAHF46を愛用した。46とは46分録音できるという意味で、それはLPの収録時間であり、多くの人はこの「46」を購入した。よく考えたら、自分でテープを編集するので、LPのサイズにこだわる意味はないが、なぜか46が音質的に最も優れていると思っていた。
音楽の世界へナビゲート、大人の世界を覗き見るFMラジオの世界
当時、僕らの世代によく聴かれていたFM番組は、22時から、先にも書いたNHK-FMの『サウンドストリート』、続いて23時から『クロスオーバー・イレブン』―― これは、俳優の津嘉山正種サンのナビゲートがカッコよく、且つ選曲もイカしていた。
それが終わると、JFN系列にダイヤルを移し、24時から城達也サンの『ジェットストリーム』―― その流れが、平日夜の定番だった。ミドルティーンエイジャーにとって、ひとり部屋で聴くFMラジオは、大人の世界を覗き見るようだった。
思えば、FMラジオほど、昔と今で、聴き方が大きく変わったメディアもないだろう。かつてのそれは、音楽の世界へナビゲートしてくれる大人のメディア。時に、言葉よりも音楽が意味を持った。僕らは2週間前にタイムテーブルを予習し、エアチェックしたい番組を丸で囲った。まるで儀式のようなその時間がとても楽しかったのを覚えている。
ところが80年代後半、レンタルレコードが普及し、さらに時を経ずにCD化の波が押し寄せる。80年代末、僕らは聴きたい楽曲をレンタルCDからカセットテープへダビングするようになった。もはやエアチェックの習慣は廃れ、自分でテープを編集することもなくなった。FM情報誌はおろか、FM番組を聴く機会もめっきり減った。
ある時、独立系のFM放送を聴くと、「モア・ミュージック、レス・トーク」とばかりに、ひたすら音楽ばかりを流していた。悪くはなかったが、何か物足りないと感じた。また、しばらくして、久しぶりにJFN系列の番組を聴くと、今度はAMラジオのように生放送のトーク番組に様変わりしていた。僕はそっと、ラジオの主電源をオフにした。
気がつけば―― 僕自身、洋楽と接する機会は激減し、周囲はJ-POPばかりが氾濫していた。久しぶりに書店で見かけたFM STATIONは、表紙が鈴木英人サンから別のイラストレーターに変わっていた。
時に90年代―― 夏が、終わろうとしていた。
特集 FMステーションとシティポップ
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2023.04.26