3月3日

ポール・マッカートニー初来日公演、ビートルズ以来24年ぶり!

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ポール・マッカートニーの初来日公演が東京ドームで開催された日
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ポール・マッカートニーのソロ初、ビートルズ以来24年振りの日本公演


It was 30 Years Ago Today !
30年前の今日、1990年(平成2年)3月3日(土)、ポール・マッカートニーの、1966年のビートルズ日本公演以来24年振り、ソロ初めての日本公演が東京ドームで初日を迎えた。

ウイングスでの日本公演が1975年(昭和50年)11月にポールの麻薬の前科で、そして1980年(昭和55年)1月には日本入国時の大麻所持で逮捕されいずれも中止になり、もう二度と日本ではポールが観られないかと思っていた80年代の10年を経て、遂に実現した日本公演だった。しかし待望の瞬間が来るまでには最後までひと波乱あった。実はこの日本公演初日、2週前までは2日めだったのである。

思わぬ事態が発生!2週間前に7公演が6公演に…


カタリベ宮井章裕さんのコラム『1989年のポール・マッカートニー来日狂想曲、やっとあえるね。』にもある通り、ポールの日本公演が発表されたのは80年代も終わりも終わりの1989年(平成元年)12月23日(土)だった。公演日程は1990年3月2(金)、3(土)、5(月)、6(火)、8(木)、9(金)、11(日)の東京ドーム7公演だった。

チケットの発売は年が明けた1月7日(日)。当時新入社員だった僕は正月休みと代休を貯め込み、初日と最終日はもちろん、何とか4~5公演に足を運ぼうと目論んでいた。特別いい番号ではなかったが整理券を取っていた僕は、初日2日はアリーナの前から2つめのBブロック中央寄りの席を、そして8日はAブロックの前から8列めという個人的にベストな席を確保した。

ところが思わぬ事態が発生する。前年1989年9月から10年振りのツアーで世界各国を回って来たポールが声の調子を崩したため、海外で公演を幾つかキャンセルし、日本公演も1日おきとすることになったのだ

日程変更が発表されたのは2月17日(土)。初日まであと2週間だった。新しい日程は3月3(土)、5(月)、7(水)、9(金)、11(日)、13(火)の6公演。1公演減だった。旧日程の初日2(金)の公演は最終日13(火)に、6(水)の公演は7(木)に振り替えられた。そして8(木)の公演だけ中止、払い戻しとなった。我がベストシートは幻となってしまった。

それはまだいいとして、当初2公演めだった3月3日(土)が突如、待望久しきポール日本公演の初日という極めて重要な日に躍り出てしまったのである。この日は2日しかない土日の公演だったので良いチケットが手に入っていなかった。

始まる前からアリーナは総立ち、初日の公演はやっぱり特別!


3月3日(土)。初日はどうしてもアリーナで観たかった僕は開演20分前にアリーナBブロックの端の方のチケットをようやく入手、入場した。

着席して程無く開演時間の18時30分となり場内が暗転。ポールの音楽をバックにポールの歴史と世相を合わせて振り返る15分の映像がステージ後方の3面のスクリーンに流れた。アリーナの観客は早くも総立ちになった。ポールがすぐには出て来ないと分かっても座る人はいない。2日め転じて初日はやはり特別だった。

“N” “O” “W” の3つの文字が浮かび上がり、いよいよポールと妻リンダを含むバンドメンバー5人がステージに現れた。

1曲めは前年の最新作『フラワーズ・イン・ザ・ダート』から「フィギュア・オブ・エイト」。大好きな曲だったが比較的冷静に迎えられたのは、やはり新曲だったからか。個人的には既にポールとリンダを2月28日に成田空港でお出迎えしていたこともあった。

しかし2曲め、ウイングスの代表曲の一つ「ジェット」(1973年)のイントロが流れた時、文字通り血が沸くのを感じた。1976年のウイングス全米ツアーの名ライヴ盤『ウイングス・オーヴァー・アメリカ(旧邦題:ウイングス U.S.A. ライヴ!!)』と同じ2曲めでの登場。拳は自然に高く上がるし、タイトルを叫ぶ声も大きくなった。今宵がいよいよ特別な夜になる確信に満ちた時だった。

続いて3曲めがこの夜初のビートルズ・ナンバー「ガット・ユー・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ」(1966年)。当然ながら場内は大合唱。以降も3つのキャリアから名曲が次々と繰り出された。

来日までの “長く曲がりくねった道” に感極まって…


日本公演ではここまでツアーで演奏された曲の内「エボニー・アンド・アイボリー」(1982年)「メイビ―・アイム・アメイズド」(1970年)他1曲がカットされ、代わりにウイングスの「幸せのノック(Let’em In)」(1976年)が加えられた(日本公演後半ではさらに1曲プラス)。声の不調はこんなところにも影響があったのである。

次の8曲めはピアノの前に座ったポールのこんなMCで始まった。「時の霞をくぐり抜けて、60年代と呼ばれる処へ行こう」。そして始まったのがこの日2曲めのビートルズナンバー、1970年の「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」だった。

その瞬間、僕は泣いた。涙を流すなんてそんな容易いものではなかった。“長く曲がりくねった道” に重ねたのは、ポールに会うまでにかかった、たかが10数年のファン歴か、はたまた志望ではないセクションに配属され沢山汗をかいたこの1年だったか。恐らくはその両方であっただろう。コンサートで泣くことがいったいどんなことなのか、僕は初めて知ったのだった。

「次の曲は3人の友人に捧げます。ジョンとジョージとリンゴ、君たちがいなければ(この曲は出来なかった)」というMCでまた泣き、「ザ・フール・オン・ザ・ヒル」(1967年)の途中で、泣きに来ているんじゃない、聴きに来ているんだと我に返り、僕はようやく泣き止んだ。かっこ悪いんだかいいんだか何だか、さっぱり分からなかった。

全27曲中、半分以上の15曲がビートルズナンバー!


12曲めはビートルズ1964年の大ヒット曲「キャント・バイ・ミー・ラヴ」。正に東京ドームがダンスホールと化し、5万の観客がビートルマニア(60年代の熱心なビートルズファン)と化した瞬間だった。

しかし意外なことにポールがこの曲を歌ったのはビートルズ解散後このツアーが初めてだった。のみならずこのツアーで歌ったビートルズナンバー15曲中実に10曲がソロになって初めて歌った曲だったのである。

ウイングス時代、ポールはビートルズの曲を積極的に取り上げていなかった。この日の公演では全27曲中半分以上の15曲をビートルズナンバーが占めたのだがこれももちろん初めての事だった。ポールがビートルズを受け入れるのに実に20年もの歳月を要したのである。

コンサート本編最後の「ヘイ・ジュード」も、ビートルズがライヴで歌ったことは無く、リリース後20年以上経ったこのツアーが正真正銘ライヴ初披露であった。

コンサートの新聞広告に “沸き起こる5万人の『ヘイ・ジュード』大合唱。” という惹句があったのだが、後半の「♪ nanana」の部分でその通りの光景が目の前に広がった。僕はただ圧倒され、大きな声を張り上げながらこの夜3回めの涙を流したのだった。

その後のジャパンツアー、初来日公演より増えている演奏曲数!


このツアーの模様はこの年の11月にリリースされた『ポール・マッカートニー・ライヴ!!(Tripping the Live Fantastic)』というライヴアルバムに収められている。日本公演で初めて披露された2曲は収められていないが、CD1の2、3、5、4、6、9、12、14~16、18、CD2の1~6、8、10~17曲めが日本公演で披露された曲である。

このアルバムには世界各地で録音された音源が収められているが、CD2の5、8、11、16の4曲が日本公演の音源なのである。10年前に自らの不始末で日本公演を中止にしていたポールは日本のファンに後ろめたさを抱いていたらしいが、初日3月3日のファンの登場前からの総立ちにいたく励まされたそうだ。CD2の8曲めはずばりこの日の「カミング・アップ」(1980年)。この曲を聴く度に30年前の今日が蘇り、誇らしい気持ちになるのだ。

ポールの声の調子が整うには次回の1993年の日本公演を待たなくてはならないが、僕はこの日のことを忘れることは無いだろう。

その後ポールは6回日本でツアーを行うのだが、驚くのはその曲数が増えていること。一昨年の2018年には35曲と、なんと初来日時から8曲も増えている。40代後半よりも70代後半の方が曲が多いとは一体どういうことなのだろう。

2020.03.03
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カタリベ
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