2019年 5月11日

音楽のDNA:草野浩二と酒井政利、伝説のヒットメーカーが仕掛けた6つのブーム

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草野浩二と酒井政利のトークショー「音楽のDNA — ヒットソングにビジネスを学ぶ」開催日
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ついに元号が変わりました。
昭和が歌謡曲、平成がJ-POPを生んだとすれば、令和という時代には、どんな音楽が登場し、人々の心を掴むのか――。半世紀にわたってヒット曲を聴き続けてきた身としては楽しみで仕方ありません。

振り返れば、昭和・平成期の音楽シーンにはいくつものブームがありました。昭和30年代の青春歌謡、40年代のフォークやGS、50年代のニューミュージック、昭和から平成にかけてのバンドブーム、平成1ケタ代のビーイングや小室ファミリー、10年代の和製R&B… 挙げたらキリがないですよね。

とはいえ、そうしたブームを創出できる人はごくわずか。成功の確率が低く、浮き沈みの激しい世界で、後世に語り継がれるブームを1つでも巻き起こせれば、その人物は「敏腕プロデューサー」といえるでしょう。

ところが、世の中には、いくつものブームを仕掛けた「レジェンド」が存在します。そう、5月11日に開催される「音楽のDNA-ヒットソングにビジネスを学ぶ」(会場:スポットライト新宿)に出演する草野浩二氏と酒井政利氏です。


■ 唯一無二の元祖ヒットソングメーカー

それでは、まず草野浩二氏のレジェンドぶりから検証しましょう。1960年(昭和35年)、東京芝浦電気レコード事業部(のちの東芝音楽工業、東芝EMI/現ユニバーサルミュージック)に入社した草野氏は、音楽誌『ミュージック・ライフ』の編集長を務めていた草野昌一氏の実弟。

新興のレコード会社だった東芝には、ポップスを書ける専属作家がいなかったため、草野氏は兄のもとに寄せられた洋楽を日本語でカバーすることを考えつきます。それが60年代前半の歌謡界を席巻した【① カバーポップス】ブームの始まりでした。

兄の昌一氏は“漣健児”のペンネームで、訳詞を手がけるようになりますが、草野兄弟が組んで世に出たヒット曲は「ステキなタイミング」(60年/ダニー飯田とパラダイス・キング)、「ヴァケーション」(62年/弘田三枝子)、「シェリー」(63年/ダニー飯田とパラダイス・キング)など数知れず。ほかにも安井かずみ(当時のペンネームは“みナみカズみ”)が訳詞を手がけた「ズビズビズー」(61年/森山加代子)など、あまたのヒットを放ちますが、その手法は他のレコード会社にも波及し、中尾ミエ、田代みどり、飯田久彦などのスターが誕生します。

次に草野氏がブームを起こしたのは【② 和製ガールポップ】。60年代後半から70年代前半のことでした。その起点は65年にデビューした奥村チヨで、その後は渚ゆう子、欧陽菲菲、ゴールデン・ハーフ、安西マリアを手がけ、いずれも人気歌手に育て上げます。東芝は草野氏の担当以外でも、黛ジュン、小川知子、由紀さおり、岡崎友紀らが活躍。他社では、コロムビアのいしだあゆみ、平山三紀(現・平山みき)、キングの伊東ゆかり、中村晃子らがヒットを出しますが、東芝の勢いには及びませんでした。

そして同時期に草野氏がヒットを量産したのが、ザ・ベンチャーズが作曲を手がけた【③ ベンチャーズ歌謡】です。第1弾の「二人の銀座」(66年/和泉雅子、山内賢)は氏の担当ではありませんでしたが、そのヒットを受けて、奥村チヨの「北国の青い空」(67年)の作曲に彼らを起用。以後、渚ゆう子の「京都の恋」(70年)、「京都慕情」(70年)、「長崎慕情」(71年)、欧陽菲菲の「雨の御堂筋」(71年)など、彼らの曲をことごとく大ヒットさせ、歌謡界に一大ブームを巻き起こします。


■ ヒットメーカーの頂点を極めた伝説のプロデューサー

ではもう一人のレジェンド、酒井政利氏はどうでしょうか。1961年(昭和36年)、日本コロムビアに入社した酒井氏は、守屋浩や島倉千代子など、しばらくヒットから遠ざかっていた歌手に対し、従来とは異なるイメージの作品をプロデュース。その結果、守屋は「大学かぞえうた」(62年)、島倉は「ほんきかしら」(66年)が久しぶりのヒットに結びつきます。

この【④ 再生路線】は68年、CBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)に入社してからも応用され、それまで低迷していた朝丘雪路、坂本スミ子、金井克子、内田あかり、梓みちよ、黛ジュンらに久々のヒットをもたらしました。酒井氏自身は「クリーニング」という言い方をしていますが、特に70年代は酒井氏のプロデュースにより、多くの歌手が第一線に復帰することができたのです。

再生路線の成功は、アダルト歌謡のブームを招来しましたが、その一方で酒井氏が仕掛けたのが【⑤ アイドルポップス】でした。それまでの女性歌手が大人っぽいメークや衣装で、アダルト向けの歌を歌っていたのに対し、氏はあえてターゲットを中高生にしたヤングポップス路線を開拓。その第1号が71年にデビューした南沙織で、その後は天地真理、浅田美代子、山口百恵、キャンディーズらが続きます。70~80年代は男女ともにアイドル歌手が歌謡界の一大勢力となりますが、その嚆矢といえる南沙織と郷ひろみを手がけたのが、誰あろう、酒井氏だったのです。

そしてもう一つ。酒井氏を語るうえで【⑥ メディアミックスによるヒット曲づくり】も忘れてはなりません。今では当たり前となったタイアップやメディアミックスですが、その先駆けといえるのが、老舗コロムビアに初のレコード大賞をもたらした「愛と死をみつめて」(64年/青山和子)でした。ベストセラーになる前の原作本に目を付けた酒井氏は、いち早くレコード化の独占権を取得。その後、原作がテレビドラマや映画になったことで、各メディアが取り上げることになり、爆発的なヒットを記録します。

この手法はその後も「同棲時代」や「ベルサイユのばら」で活用されますが、70年代末から80年代にかけては企業のキャンペーンと連動したイメージソングもプロデュース。矢沢永吉の「時間よ止まれ」(78年)、山口百恵「いい日旅立ち」(78年)、ジュディ・オング「魅せられて」(79年)、久保田早紀「異邦人」(79年)がいずれも大ヒットしたことにより、有効な戦略として定着します。


数々のブームを仕掛けてきた、伝説のヒットメーカーの言葉には、次世代に繋げていくべきDNAが濃密に含まれているはずです。令和という新しい時代を迎えた今だからこそ、その金言を共有しませんか? 質問も大歓迎ですので、この機会にぜひ生の声を聞きにいらしてください。

2019.05.03
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濱口英樹
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