7月26日

70年代の人ではない!南こうせつが音楽シーンに残した非常に大きな足跡

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オールナイトの野外コンサート「サマーピクニック」が開催された日
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どうしても「神田川」をはじめとするかぐや姫時代のイメージが強いため、南こうせつは70年代の人と思われがちだが、彼が80年代の日本のミュージックシーンにおいても非常に大きな足跡を残していることも忘れてはいけないと思う。1981年から10年連続で開催したオールナイトの野外コンサート『サマーピクニック』もそのひとつだ。

第1回の『サマーピクニック』は1981年7月26日に、熊本県の阿蘇山中、卑弥呼の里で開催された。しかし、それはまさに波乱の出発だった。

当日、全国から集まったのは約8,000人。山の中腹の広場にステージが設けられ、お昼過ぎにコンサートが始まった、オープニングの南こうせつ、伊勢正三とステージが進む頃、雨が激しく降ってきた。3人目の五十嵐浩晃の演奏が始まった時には雨足がさらに強くなるとともに雷も近くに落ち始める。きわめて危険な状態になったと判断した主催者はコンサートを中断して天候の回復を待った。その間、観客を少しでも雨がしのげる場所に移動させようと、テントの中やステージの下に誘導していった。僕も現場に居たけれど、僕が居た報道用テントも激しい雨を凌ぐ人でぎっしりになっていた。そして、目の前で雷が落ちた。一瞬、フラッシュライトを当てられたようになり、次の瞬間キーンと金属音がした。幸いなことにケガをした人はいなかった。そんな状態でステージが続けられるはずもなかった。本当ならステージに立つはずだった何人ものアーティストが歌うことなくコンサートは中止となった。

そのまま帰途に就いた観客も多かったけれど、雨が上がった夕暮れ時の会場にはまだかなりの人が残っていた。その人たちのために南こうせつはステージに戻って何曲か歌った。そして「サマーピクニックはやめない。10年続けるぞ」と宣言した。後で本人は「本当は一回きりのつもりだったけど、勢いで言ってしまった」と笑っていたが、その言葉通り『サマーピクニック』は80年代の夏を彩るライブイベントとして10年間続けられた。

2年目、3年目の『サマーピクニック』は、同じ阿蘇山麓の防中キャンプ場で開催され、それぞれ20,000人以上を動員し大成功を収めた。その後も毎年九州各地に場所を移しながら行われ、80年代を代表する夏のビッグイベントとして人気を集めた。

『サマーピクニック』のステージには、高田渡、加川良、松山千春、長渕剛などフォークシーンのビッグネームだけでなく、サザンオールスターズ、アルフィー、チャゲ&飛鳥、杏里、BOØWY、BAKUFU-SLUMP などの旬のアーティストも多数登場して、ジャンルを超えたパフォーマンスで客席を沸かせた。そこには、まさに今の “夏フェス” に通じるシーンがあった。

『ウッドストック』や『中津川フォークジャンボリー』に象徴される60年代末期の大型野外フェスは、それまでにない音楽を軸とした楽しみ方のスタイルを教えてくれた。南こうせつは、その魅力を『吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋』(75年)という形で70年代に伝え、さらに80年代の『サマーピクニック』で、次の世代を巻き込みながら新たな野外イベントのスタイルをつくりあげていった 。世代やジャンルを超えて、良い音楽を聴かせたい。そんな南こうせつの想いが生み出したスタイルだった。

90年代、『フジロック・フェスティバル』『ライジングサン・ロックフェスティバル』『サマーソニック』『ロック・イン・ジャパン・フェスティバル』などの “夏フェス” が立て続けにスタートしていく。これらの多くは海外のロックフェスをモデルとしていたけれど、そのバックグラウンドとして『サマーピクニック』の実践体験があったことは大きかったと思う。

もうひとつ、80年代の南こうせつで触れておきたいのが、チャリティコンサートの実践だ。80年代を代表するチャリティコンサートといえば、映画『ボヘミアン・ラプソディ』でもクライマックスとなった『ライヴエイド』だろう。ブームタウン・ラッツのボブ・ゲルドフの提唱で始まったこのアフリカ飢餓救済チャリティコンサートは、1985年7月13日に世界規模で行なわれたが、日本でもテレビで衛星中継を交えたテレビ特番が組まれた。その司会を担当したのが逸見正孝と南こうせつだった。

翌86年8月5~6日、第一回の『広島ピースコンサート』が行なわれた。「平和がいいに決っている!」を合言葉に行なわれたコンサートにはグラハム・ナッシュ、カーラ・ボノフなど海外からも多くのアーティストが参加したが、理想を追い過ぎた結果8,000万円の赤字となった。

「コンサートが赤字では寄付ができない」南こうせつはコンサートの立て直しに奔走し、88年の第2回『広島ピースコンサート』では安全地帯、尾崎豊、ブルーハーツ、佐野元春など日本のトップアーティストの協力を得て、7,000万円の寄付をすることができた。

その後も南こうせつは HOUND DOG の大友康平とともにプロデューサーとして『広島ピースコンサート』を運営し、1995年の第10回までに総計1億4800万円以上の被爆者支援の寄付を実現した。チャリティをスローガンとしてだけでなく、実質的寄付を伴う形で成立させる。10回に渡って続けられた『広島ピースコンサート』は、日本におけるチャリティコンサートの成功例として記憶されるべきイベントだと思う。

2019年2月、南こうせつは古希(70歳)を迎えるにあたり、彼の音楽に対する想いを語ったエッセイ集『いつも歌があった』を出版した。縁あってその制作をお手伝いした時に、彼の話を聞きながら、改めて80年代以降の南こうせつの業績が過小評価されていることを痛感した。南こうせつはたしかに「神田川」の人だ。しかし、けっして「神田川」だけの人ではない。
『いつも歌があった』でもサラリと語られているが、『広島ピースコンサート』が終った後も、彼は2000年から10年間広島の世界平和記念聖堂で『平和祈念コンサート』を続け、今も毎年8月6日に広島原爆養護ホームを訪ねて歌っている。

『サマーピクニック』も、彼が50歳となった1999年、60歳となった2009年、65歳となった2014年と、節目の年に開催されている。そして、古希となった2019年にも福岡の海の中道海浜公園で開催される。南こうせつの持続する志が、今の日本のミュージックシーンにもたらしているものの大きさが、エッセイ集『いつも歌があった』、そして同名の最新オリジナルアルバムから、少しでも伝わってくれたら嬉しい。

2019.04.18
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カタリベ
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