Z世代に語り継ぎたいロック入門ガイド Vol.2
デュラン・デュラン
平成生まれのニューウェイヴ伝道師が贈る温故知新型洋楽ガイド
今や化石化した “ニューウェイヴ” という音楽ジャンル。でも実は現代のロックにつながる重要な源流のひとつです。リアルタイム世代にとっては懐かしく、若い世代にとっては3周回ってカッコよく見えてくる…。
そう、平成生まれのニューウェイヴ伝道師として活動中の筆者が、“Z世代に語り継ぎたいロック” を、1970〜80年代のニューウェイヴを中心に、独自&後追いならではの視点からお届けします。めくるめく刺激とツッコミどころ満載なこのジャンルを風化させぬよう語り継ぐ、温故知新型洋楽ガイドをお楽しみください。
イケオジバンドに成長したアイコン、デュラン・デュラン
今回は、ニューウェイヴという垣根も超えた80年代のポップアイコン、デュラン・デュラン。そのゴージャスなルックスとMTVブームの波に乗ったコマーシャリズムによって、当時世界的にもっとも売れたバンドのひとつである。その一方で、アイドル的なイメージも強く、バブルの仇花の如く、早々と散って行きそうな儚さを抱いていたファンも多かっただろう。
ヴィジュアル面でもベースのジョン・テイラーを始め、まるでマネキンかのように浮世離れした美青年が揃っていたし、彼らがオジサンになってもステージに立つ姿などは想像もできなかったはずだ。しかしそんな予想に反して、今となってみれば一度も解散することなく、その時々で少しずつ路線を変えながら10年に1度はヒット作を出すなど、同時代の中でも前線を張っている数少ないバンドなのだから凄い。麗しかったルックスも、味のあるカッコいいエイジングを重ねており、若い頃とは違った魅力に溢れたイケオジバンドに成長。全く見事なプロ意識を感じさせる。
ダフト・パンクやザ・キラーズも影響を公言
とはいえアイドル視された活動初期も含め、デュラン・デュランはそのキャリアの中で、例えばセックス・ピストルズやフランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドのように、プロデューサーによって仕組まれた売り出し方をされたバンドではない。メンバーたち自身の先鋭的なビジネスセンスで成功を勝ち取り、浮き沈みがありながらも現在まで高い評価を維持している稀有なバンドであり、類稀なる戦略家なのだ。
ダフト・パンクやザ・キラーズなど、彼らからの影響を公言し、オマージュを抱くバンドは現在も数多く、おかげで海外では定期的に再評価がなされている感がある(私自身、ザ・キラーズがキッカケでデュラン・デュランを聴き始めた身だ)。本人たち自身も後輩や若手とのコラボにかなり積極的。近年でもマーク・ロンソンやCHAI、マネスキンなど、あらゆる方面で自分たちの影響下にあるアーティストたちと頻繁にレコーディングしている。
ヴィジュアル重視ムーブメント “ニューロマンティック” の一派としてデビュー
デュラン・デュランは1978年、イギリス第2の都市バーミンガムで結成された。メンバー曰くロンドンよりも “ストレートなロック色が強い" 街でありながら、彼ら全員に共通する音楽の趣味はデヴィッド・ボウイ、ロキシー・ミュージック、そしてディスコバンドのシックだった。ちょうどこの3組からの影響は、デュラン・デュランの音楽を端的に表しているといえよう。
1980年代初頭、中世ヨーロッパを彷彿とさせる絢爛華美なフリルの衣装に身を包み、イギリスのアンダーグラウンドなヴィジュアル重視ムーブメントであった “ニューロマンティック” という、ニューウェイヴの一派としてデビュー。このシーンをメジャーに押し上げた。
同時に、80年代のMTVブームに乗ったヴィジュアル戦略により、“第2次ブリティッシュ・インベイジョン(侵略)” と呼ばれた現象―― ラジオでは自国の音楽ばかりをかけ、ヒットチャートもアメリカ人ばかりという状況だったアメリカの音楽業界に風穴を開け、イギリスのバンドがどんどん席巻していった現象の立役者となったのである。そんな彼らの功績を讃えて “美しき侵略者” と呼ぶ声もあった。
デュラン・デュランの音楽性が開花したセカンドアルバム「リオ」
そんなブリティッシュ・インベイジョンの強豪ひしめく中、なぜ彼らがイギリスのバンドで頭ひとつ抜きん出て成功を手にすることができたのか… はたまたアメリカにおいても軒並み全米1位を獲得する天下取りを実現することができたのか… 。もちろん、ヴィジュアルと楽曲のわかりやすさ、そして巨額を投じて制作された凝りに凝ったミュージックビデオ。このどれもが隙ナシのハイレベルであったことが理由だ。しかしそれだけではない。あまりのキャッチーさゆえに見過ごされがちだが、彼らの “音楽性" そのものが、実は当時のイギリスにおいて一風変わった斬新さを放っていたのだ。
それはセカンドアルバム『リオ』(1982年)において決定的に開花している。1980年代初頭、イギリスのロック界ではシンセポップが主流であり、その名の通りサウンド面はもっぱらギターよりもシンセサイザーが主役であった。しかし、アメリカの状況は違った。現在はそうでもないが、アメリカのロックはいつでもギターと共にあるようだし、80年代当時もラウドなギターサウンドがラジオで流れまくっていた。そんなアメリカの風潮と、イギリス特有のシンセポップが合わさった『リオ』の音楽性はまさに双方のいいとこ取りであり、新しい感覚として歓迎されたというわけである。
これはやはり、デュラン・デュランのメンバーの中でひとり、色んな意味で “じゃない方” 扱いを受けがちだったアンディ・テイラーの存在が大きな成功要因だったのではないか。なぜ “じゃない方” なのか? それは、彼1人だけハードロックオタクであるからだ。
ファーストアルバム『デュラン・デュラン』(1981年)と比べて、明らかにアンディのギターがのびのびしているアルバム『リオ』だが、これがメンバー全体で図ってやったことなのか、はたまたハードロックをやりたくて仕方ないアンディの欲求不満が爆発したのかは定かではない。しかし、空気を読んでか読まずしてか、アルバム1曲目「リオ」の初っ端から最高に陽気で勢いよく暴れまくるアンディのギターのおかげで、当時のリスナーは従来のUKサウンドとは違う新たな時代の幕開けに胸をときめかせたのではないだろうか。結果、アルバム『リオ』はアメリカで最高位6位と、デュラン・デュランにとって最初の全米ヒットとなっている。
初の全米1位を獲得した「ザ・リフレックス」
そして『リオ』の発売直後、デュラン・デュランはブロンディのアメリカツアーでオープニングアクトを務めて知名度を上げたことも追い風となった。その後も、他のバンドがなかなか行かないようなアメリカの地域までパフォーマンスしに行くなど、地道な営業も重ねていた。彼らは、アメリカで成功するには “ライブができるバンド” として定評を得ることが重要だと考えていたようだ。
そんな彼らの先見の明が形になったのが、初の全米1位を獲得したシングル「ザ・リフレックス」(1984年)のミュージックビデオである。それまでスリランカの遺跡やアマゾンでの撮影など、お金と時間をかけたドラマチックなビデオを撮るイメージの強かった彼らが、シンプルな “ライブ映像” というアプローチで撮った、当時としては逆に目新しかった雰囲気の作品なのだが、これは逆説的にデュランの真価を見せつける作戦だったようだ。彼らはアメリカでの成功を勝ち取るため、画面いっぱいに観客を入れたスタジアムっぽいハコで大規模なライブを演出し、世界中に映像を流すことで “俺たちはこれだけの規模で、これだけ良いパフォーマンスができるバンドです” というイメージを、自ら先回りして世間に植え付けたのである。
実際に、それだけの説得力を持たせるだけのスター性溢れるパフォーマンスとカメラワークが素晴らしい。私自身、一生涯フェイバリットのひとつにデュラン・デュランの名前を挙げていこうと固く誓ったのも、この映像のカッコ良さにやられたからだった。中でもボーカルのサイモン・ル・ボンのセクシーでダイナミックなステージングには本当に魅了された。実際のライブでのサイモンは、もっとブライアン・フェリーみたいにクネクネしててそれはそれで面白くて大好きなのだが(笑)、「ザ・リフレックス」のミュージックビデオはシンプルに見えて、実に練りに練られた、戦略家デュラン・デュランの真骨頂だ。
アメリカで売れることは世界で売れること。そのためには “ライブができる” 以上に “スタジアムバンドになる” 必要があることを、彼らはよく分かっていた。80年代に登場したイギリスのバンドがまだアメリカ進出することがない中で、60年代にビートルズやストーンズが起こした “第1次” の時とは異なる “ヴィジュアル戦略” で自らを巧みにプロデュースし、世間にイメージさせることで巻き起こした第2次ブリティッシュ・インベイジョンは、こうして作られていったのである。
日本でアイドル的人気を博したデュラン・デュラン
そんなこんなで、1982年のセカンドアルバム『リオ』以降、瞬く間にアメリカでスター街道をまっしぐらに進んで行ったデュラン・デュラン。しかし、日本での人気の出方は、それとは幾分か違っていた。彼らがデビューしてすぐの1981年ごろにはイギリス国内と同様、連日ディスコで彼らの曲がバンバン流れ、すでにアイドル的人気を博していたようだ。
なぜアメリカよりも先に日本がデュラン・デュランに反応したのか、これが面白いところなのだが、その疑問を解く鍵はニューロマンティックというムーブメントと、日本が独自に発展を遂げた漫画やアニメといったものに代表される大衆文化にリンクするものがあったんではないかと私は考えている。ーーということで次回は、デュラン・デュランが日本で売れる土壌を作ってくれた “あるバンド” を取り上げつつ、ニューロマと日本の大衆文化の関係について、思いを巡らせてみたい。
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2024.09.10