1980年にやってきたMANZAIビッグウェイブを頭からもろに浴びた中1時代。ドリフや欽ちゃんのベタな笑いだけで育ってきた子供にとって、お笑いニューウェイブは世界が変わるほどの衝撃だった。昭和の笑いを見事なまでに塗り替えた区切りだったよなあ、と今考えても思う。
やすし・きよしに続き、ツービート、紳助・竜介、B&Bなどが脚光を浴びてメインストリームに踊り出た。テレビをつければ彼らの姿ばかり。完全にアイドルだった。そんなはちゃめちゃな革新派のメンツの中で、トラッドで少し大人の魅力を放っていたのがザ・ぼんちである。
清潔感があってちょっとお兄さん風でお洒落。『MEN'S CLUB』や『POPEYE』といった雑誌と共にアイビーファッションを牽引した。たまに暴走するけど漫才にブラックネタはなく、安心して「おさむちゃんでーす!」の決めのギャグでゲラゲラ笑っていた。
1981年元旦発売のデビュー曲「恋のぼんちシート」はオリコン最高位2位、総売上80万枚を越える大ヒット。人気絶頂当時、彼らは東京大阪間をヘリコプターで移動し、楽屋で点滴を受けながらステージに立っていたそうだ。
で、私は推しがザ・ぼんちだったかというとそうでもなく、ツービートかな、いやB&Bかも、など毎日おしゃべりに耽ってはテレビを見ていた。そんな中2のある日、友達の家に遊びに行った時の話。私達があまりにMANZAIの話で盛り上がるのを見て、友達のお姉さんが「“笑ってる場合ですよ!” が好きなの? 観にくる?」と言い出した。
想像してみてほしい。その時の私の興奮を。
鼻血が出るかと思った。
当時、『笑ってる場合ですよ!』は、お昼の生放送人気番組だった。観覧はハガキ抽選制だったはず。
聞けばお姉さんはスタジオアルタに勤務していて、稼働日は招待席が用意できるのだと言う。
折しも夏休み中、二つ返事でOKと御礼を伝え、帰宅して「保護者付きだから!」と母の了承を取り、塾に夏期講習一日休みの届けを出し、準備万端!
当日、精一杯お洒落をして昼の新宿へ繰り出したのだった。
アルタの観客席は案外狭かった。そこで司会のB&Bと共に『笑ってる場合ですよ!』の拳突き上げポーズを決め、「お笑い君こそスターだ!」や東京乾電池の時事コントなどに大爆笑して帰宅。その時に出演していたレギュラーがザ・ぼんちだった。ただただカッコよくってお洒落だなあと感激した。そうして私は推しをザ・ぼんちに決めた。
1stアルバム『THE BONCHI CLUB』はよく聞いた。ジャケットのイラストは日暮修一氏。近田春夫がプロデュース、鈴木慶一がアレンジ、バックミュージシャンはザ・ムーンライダースと、今考えるとすごいメンツだ。でも、当時はおさむちゃんとまさとの歌が聞きたいだけの純情っぷり。そのうち作品世界に引き込まれていった。
近田春夫が作詞を手がけたジューシィ・フルーツの「恋はベンチシート」をもじってタイトルをつけ、ザ・ぼんちの持ちネタで歌詞を埋め尽くしたデビュー曲「恋のぼんちシート」をはじめ、作曲者である沖山優司(ジューシィ・フルーツ)のセルフカバーを含め、全てがご機嫌で最高なオープニングナンバー「東京キケン野郎」、ファンタジックで摩訶不思議なサウンドやドリーミーなコーラスが耳から離れない「王様の耳はロバの耳」、忘れじのムード歌謡ブルース「ザ・レクイエム」、女の悲しい独白2ndシングル「ラヂオ~NEW MUSICに耳を塞いで~」など全10曲。
名盤というより、迷盤の趣で味わい深い(笑)。ちなみに、本作は2013年に、ボーナストラック7曲を追加してCD化されている。
「恋のぼんちシート」の大ヒットと時期を同じくして『オレたちひょうきん族』が台頭していく。『笑ってる場合ですよ!』はその後失速し、番組の枠は『笑っていいとも!』に引き継がれることになる。
今もこのアルバムを聴くと、アルタで観たお洒落な彼らの実直な喋りを思い出す。そして、あの時着ていた新しいワンピースの匂いを思い出すのだ。
2017.10.13
YouTube / Kendryk Marina
YouTube / JURIIDOL
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