リレー連載【1984年の革命】vol.3
吉川晃司「モニカ」鮮烈デビュー!こんなアイドル今までいなかった
1984年、レコードデビュー、映画初主演という吉川晃司の華々しいスタート
今からちょうど40年前、1984年2月1日、吉川晃司のシングル「モニカ」がリリースされた。同年2月11には初主演映画『すかんぴんウオーク』が公開。「モニカ」は同映画の主題歌だった。将来を嘱望されるアイドルとしてはこれ以上にない華々しいスタートだ。しかし、吉川晃司が従来のアイドルとは一線を画し、自らのスタイルを突き詰めながらデビューから40年経った今も第一線で活躍するアーティストとしてたゆまぬ進化を続けているとは、この時誰が想像しただろうか?
テレビに登場する時の「モニカ」のステージ衣装は肩パッドの入ったダブルのスーツが多かった。淡いピンク色などを着こなし、うっすらメイクもしている。社会現象になったDCブランドの本格的なブームは1985年だから、それより一足早く吉川は流行を先取りしていた。この時代、アイドルがスーツを着るという発想はなかった。このステージ衣装だけでも吉川がいかに革命的だったかが一目瞭然だ。
今までメインストリームではなかったアーティスト像を模索した吉川晃司
スーツを着たステージングで観客を魅了するというのは、日本のロックシーンを見渡しても希少な存在だったと思う。英国の第2次インヴェイジョンの潮流を敏感に感じ取っていた土屋昌巳、当時新宿ロフトや渋谷ライブインといったライブハウスで精力的な活動を行なっていたBOØWYや博多のロックシーンで異彩を放っていたモダンドールズがこのようなスタイルだったが、まだまだこのスタイルはマイノリティだった。
デビュー当時の吉川には、このモダンドールズの音楽性が寄与していると言われている。ビートを効かせたダンサブルなモダンドールズの音楽性は確かにミュージシャン吉川晃司を形成するにあたってひとつのフォーマットとなったが、単なる模倣で終わることなく、”革命” と断言できる音楽性がデビュー期に確立されていた。
吉川自身も高校2年生の時に観た佐野元春のステージにカルチャーショックを受け、大学進学を取りやめ、音楽の道へ進む決心を固めたという。デビューにあたっては、そんな吉川のバックボーンに、先述したモダンドールズからのインスピレーションも加味された。曲作りにはヒットメイカーとして頭角をあらわしたNOBODYを起用、アレンジにはエレクトロ・ダンスミュージック的な要素が取り入れられた。そして、瞬く間に国民的スターへと上り詰めていった。
もちろん、このような音楽的下地だけでなく、吉川の堂々たる体躯から織りなすバック転や足を垂直に上げるステージアクションもサウンド面と同じぐらい大きなインパクトがあった。しかし吉川は現在に至るまで、このような肉体的なパフォーマンスを主軸にすることはなく、ひたむきに音楽と向き合う真摯な姿勢が、当時ブラウン管からも、クリエイトする作品からもひしひしと伝わってきた。
時代に即したエレクトロ・ミュージックの要素をふんだんに取り込んだ「パラシュートが落ちた夏」
「モニカ」のリリースからちょうど1ヶ月後にリリースされたファーストアルバム『パラシュートが落ちた夏』では12インチの大きなレコードジャケットに青いストラトキャスターを抱えた吉川が佇む。収録曲に目をやると「I’M IN BLUE」とクレジットされていた。佐野元春の名盤『SOMEDAY』に収録されている珠玉のミディアムナンバーだ。デジタルビートを効かせた斬新なアレンジを情感たっぷりに歌い上げる吉川には、1ヶ月前にデビューしたアイドルという印象は皆無だった。この「I’M IN BLUE」同様、『パラシュートが落ちた夏』は「モニカ」のサウンドメイキングを踏襲し、時代に即したエレクトロ・ミュージックの要素をふんだんに取り込んだ純然たるロックアルバムに仕上がっている。
吉川晃司は「モニカ」で第26回レコード大賞新人賞を受賞、続いてリリースされたシングル「ラ・ヴィアンローズ」もチャート上位に送り込み、約7ヶ月のインターバルでリリースされたセカンドアルバム『LA VIE EN ROSE』は見事1位を獲得し頂点に立つ。ちなみに『パラシュートが落ちた夏』のレコード帯に書かれたキャッチコピーは、「オリンピックの夢もあったけど、生きるなら より劇的〈ドラマチック〉に…」だった。
1984年、吉川晃司のドラマティックな登場はブラウン管の向こう側に見える景色をガラリと変えた。そしてブラウン管の中だけでなく、街中の景色さえも変えてしまった。当時のティーンエイジャーはみんな吉川晃司に憧れ、そのスタイルを真似た。それは、アイドルの常識を一変させ、新たなロックミュージシャンの方向性を示唆した “革命”であった。
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2024.02.01