2月11日

1984年のアイドル革命!吉川晃司「モニカ」と 主演映画「すかんぴんウォーク」

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1983年に起きた女性アイドル革命


思えば、アイドルの世界の潮目が変わったのは、1983年ごろだっただろうか。

最初の変化の波は、女性アイドルから始まった。その年、松田聖子はストレートパーマをかけて髪型をナチュラルに戻し、前年から試みていたキャンディーボイスも完成の域へ。シングル盤が2枚続けてB面曲が両A面に昇格するなど、本格的シンガーとしての成長を見せる。いわゆる「1983年の松田聖子」である。

また、2年目を迎えた中森明菜も、前年11月にリリースしたサードシングル「セカンドラブ」が年をまたいで大ヒット。前作「少女A」で火が着いた明菜人気が本格的にブレイクする。他のアイドルと一線を画すロングウェーブヘアーに、圧倒的な歌唱力。その存在感は、アイドル界でひと際異彩を放っていた。

更に、明菜を除く82年デビュー組の混戦から一歩抜け出したのは、1983年5月に髪を切って5枚目のシングル「まっ赤な女の子」をリリースした小泉今日子だった。それは、80年代前半の女性アイドルを覆っていた「聖子ちゃんカット」の呪縛を自ら解き放つ行為。今日に至る “小泉スタイル” はこの時に始まったと言っていい。

―― そう、1983年に起きた女性アイドル革命。それは、いわば “アイドルの自我の目覚め” だった。聖子も明菜もキョンキョンも目指す方向は三者三様だったが、要は既製品としてのアイドルから、個性を前面に打ち出すスタイルに転じたのである。今風に言えば、セルフプロデュースに近い。

一方、当時の男性アイドルは、たのきんトリオを中心とするジャニーズの天下。そんな寡占状態の弊害からか、時代の変化の波にもう一つ対応しきれていないように見えた。先の女性アイドル3人が既に同性ファン層にマーケットを広げていたのに対し、男性アイドルは女子中高生市場の域を脱しきれずにいた。

チェッカーズ、吉川晃司がもたらしたインパクト


そして、時代は1984年を迎える。

そんな男性アイドルの革命の波は、意外にも “新顔” たちによってもたらされた。まず、1月にリリースされたセカンドシングル「涙のリクエスト」の大ヒットで一躍アイドル界のメインステージに躍り出たチェッカーズ。ファッショナブルな衣装に、最先端のヘアースタイルに身を包んだ彼らは、間違いなくオシャレで、新しかった。

続いて、2月に「モニカ」を引っ提げて吉川晃司がデビューする。180cmを超える長身に、水球で鍛えた逆三角形のスタイルはスーツが映え、抜群の運動神経と天性のリズム感で歌う姿もまた新しかった。

チェッカーズと吉川晃司―― 彼らの登場がもたらした最大のインパクトは、男性アイドル市場に、新たに男性ファンを呼び込んだ点にある。それは、彼らが既存の男性アイドルのパターンから脱し、リアルな時代の空気感と共鳴していたからに他ならない。男子高校生はこぞって藤井郁弥(現・藤井フミヤ)の長い前髪を模倣し、男子大学生は吉川が着こなすDCブランドのスーツを買い求めた。

そして―― 当時高校生だった僕も、ご多分に漏れず吉川に心酔した。キッカケをくれたのは、1本の映画だった。

友人の父親のツテで、たまたま映画の招待チケットをもらったからである。主役が無名の新人で特に興味はなかったが、何せ高校生は暇である。タダともなれば、行かない手はない。だが、映画館を出た僕は、2時間前の自分を恥じた。

少々前置きが長くなったが、今回の話は、今から38年前の1984年2月11日に封切られた映画『すかんぴんウォーク』に、デビューシングル「モニカ」と共に颯爽と登場した吉川晃司である。奇しくも今日、8月18日は、吉川サンの誕生日に当たる。

自らを売り込んだ広島のスゴい奴、吉川晃司


この物語は映画が封切られる2年前―― 1982年に始まる。かつて日本の芸能界で “ナベプロ帝国” と謳われ、栄華を誇った渡辺プロダクション(現・ワタナベエンターテインメント)が、最悪の状況を迎えようとしていた。思えば、渡辺晋社長が日本テレビの井原高忠プロデューサーと仲違いして以来、同事務所は徐々に芸能界における影響力を失い、所属タレントや名物マネージャーも次々と独立。ホリプロやサンミュージックなど他のプロダクションが着々と力をつける中、気が付けば金庫に3億円しか残っていない惨状だったという。

そこへ、広島から1通の封書が届く。開けると、一人の精悍な男子高校生の写真と、5枚の便せん。「広島にスゴい奴がいる。見に来ないと一生悔いを残す」などと綴られている。その写真の人物こそ誰あろう、後のスター吉川晃司である。手紙の送り主も彼自身だった。

とはいえ、その手の売り込みは芸能事務所にとって日常茶飯事。大半が空振りに終わるため、普通ならゴミ箱行きである。だが、その男子高校生のプロフィールは一風変わっていた。

広島の名門・修道高校の2年に通う彼は、中学時代から全国屈指の水球選手として鳴らし、高校では2年連続で全日本高校最優秀選手に選ばれ、最年少日本代表としてイタリアでの世界大会に出場したという。更に、2年後のロサンゼルスオリンピックの代表候補選手でもあるらしい。

身長181cm、胸囲102cmの身体は圧巻である。手紙を一読したナベプロの社員はゴミ箱に捨てず、机の引き出しに仕舞ったという。

10年に一人の逸材! 始まった吉川晃司デビュープロジェクト


チャンスは意外と早くやってきた。

件のナベプロの社員が別件の出張ついでに広島に立ち寄り、吉川少年がボーカルを務めるアマチュアバンドのライブを見学したのである。そこで、まず地元の女の子の親衛隊が付くほどの彼の人気ぶりに驚く。声にもツヤがあり、日本語の歌詞を英語のように歌うボーカルも魅力的だった(驚くことに、既にこの時点で吉川の独特の歌唱法は確立されていた)。水球で鍛えた身のこなしもシャープである。紛うことなき逸材だった。

数度の面接を経て、契約はすんなりと決まる。吉川は高校2年の終わり―― 1983年3月で修道高校を中退すると、4月に上京してナベプロの寮に入った。だが、しばらくはレッスンの日々が続き、デビューのメドが立たない。しびれを切らした吉川は、自ら社長室の扉を叩いた。扉の向こうにいるのは、衰えたとはいえ、ナベプロ帝国のドン・渡辺晋社長である。

デビュー前のレッスン生と、芸能界のドンが対峙する―― 普通なら考えられない暴挙だが、逆にそんな破天荒な振る舞いに、ドンが心を動かされる。少年の目の奥に潜むスター性を感じ取ったのかもしれない。戦後、数々のスターを生み、育ててきた男の目は健在だった。

「こいつは10年に一人の逸材かもしれない」

こうして、社長肝煎りの吉川晃司のデビュープロジェクトが始まった。前述の金庫にあった3億円をかけて、彼を売り出すという。既にドンの体は病に侵され、起死回生の最後の賭けだった。「もう一度、ナベプロを復活させる」―― 亡くなる4年前の話である。結果的に、彼はこの賭けに勝つことになる。

吉川晃司主演映画「すかんぴんウォーク」


1983年夏、ドンの発案で新人歌手・吉川晃司のデビュー映画が企画される。配給は東宝だが、製作は自らナベプロが行うという。

監督は、当時、ATGの新世代の旗手と呼ばれた大森一樹。1980年に『ヒポクラテスたち』で一躍脚光を浴び、1981年には村上春樹原作の『風の歌を聴け』も監督した。脚本は、松田優作のドラマ『探偵物語』や、映画『汚れた英雄』を書いた丸山昇一である。2人ともまだ30代で、新人を売り出す若い感性が求められる映画の座組としては申し分ない。

映画『すかんぴんウォーク』は、広島から家出して上京した高校生・民川裕司が、文字通り “すかんぴん”(貧乏でカネがないの意味)から、音楽一本で芸能界のスターダムへとのし上がる物語である。言うまでもなく、それはリアル吉川晃司の姿と重なるが、この時点の彼は、まだデビュー前の無名の青年に過ぎない。

クランクインは、1983年の9月だった。順撮りで、ファーストカットは東京湾を晴海ふ頭に向かって泳いでくる青年と、岸で見守る労務者たちのシーンである。ここへ至る映画の導入部がなかなかいい。

空撮で東京駅を捉え、そこからカメラがパンして有楽町から銀座、築地へと晴海通りを移動して、東京湾へ至る。主人公が海から上陸して物語が始まるのは、ゴジラか吉川晃司くらいである。

「アメリカから来たんかい?」
「(かぶりを振って)中国!」
「上海?」
「広島」

その後、陸に上がった青年―― 民川裕司は、靴屋で前の客が残した古靴を譲り受け、はとバスの乗客に紛れ込んで都内を移動し、六本木で降りる。同映画のもう一つの見どころは、80年代のリアルな街並みが登場するところにある。アマンド、俳優座、ロアビル、そして今はなきハンバーガー・イン――。

そう、ハンバーガー・インは裕司が上京して初めてボーイとして雇ってもらう店「パンの木」のロケ地として登場する。店内も撮影されているので、これは今観ると貴重なシーンだ。ちなみに、店のマスターを務めるのは蟹江敬三サンである。

そうそう、同映画は事実上の新人のプロモーションビデオながら、共演陣はかなり充実している。原田芳雄、赤座美代子、平田満、神山繁、宍戸錠、田中邦衛―― 重鎮ばかりだ。こんなところにも、同映画に賭ける芸能界のドンの姿が透けて見える。

裕司、吉夫、亜美が織り成す青春映画


閑話休題。バイト先の「パンの木」で、裕司は2人の人物と出会う。一人は先輩バーテンの吉夫(山田辰夫)、もう一人が常連客で売れない女優の亜美(鹿取容子 / 現・洋子)である。物語は以後、この3人を軸に進む。

裕司は役者志望だが、俳優座で観た芝居の迫力に圧倒されて、いきなり自分を見失う。吉夫は歌手志望だが、オーディションにことごとく落選。亜美は女優の芽が出ず、プロデューサーにポルノ女優への転向を持ちかけられる。三者三様でなかなかしょっぱい。

そう、これは青春映画なのだ。夢を抱いた若者たちがもがき苦しみ、傷つきながらも、未来を掴む物語である。この辺りの見せ方は『ヒポクラテスたち』を作った大森一樹監督だけに、さすがにうまい。同映画は事実上の新人のプロモーションビデオだが、作品が世に出る理由なんてどうでもいい。クリエイターにとって大事なのは、置かれた状況で最高の作品を作ること。図らずも同映画はそれを教えてくれる。

物語は、裕司と吉夫が偶然出会ったサラ金の取り立て屋(原田芳雄)に用心棒として雇われ、それが縁で、あるライブ・ディスコで働き始めてから大きく動く。ひょんなことから、ボーカルとギターとしてステージに立った2人。だが、吉夫が歌い始めると、踊っていた客たちが次々と席に戻る。「やめた」―― スタンドマイクを倒し、客をにらみ返す吉夫。

その時だった。

後ろでギターを弾いていた吉川演ずる裕司が前に出て、足でスタンドマイクを起こすと、即興で歌い始める。

詳細不明の劇中歌、しかしそこで見られるのはまさしく吉川スタイル


 スターダストの闇夜に
 レディオからのメロディ
 悲しげに流れてくるぜ

歌声、リズム、ギターのカッティング―― もう、この時点で後の吉川スタイルが完成している。このままライブアルバムに収録されてもおかしくないが、残念ながら、同曲はタイトルも作者も不明で、当の吉川晃司サンも分からないという。そんな不思議な話もあるんですね。

さて―― そんな吉川のシャウトに客たちは立ち上がり、再び踊り始める。その様子を舞台袖から眺める吉夫。このくだりはなかなか残酷だ。歌手志望の自分より、役者志望だった弟分がスポットライトを浴びる構図――。残酷だが、これが人生なのだ。そして、この人生の悲哀を演じる山田辰夫が実にいい。

そう、この映画は新人のプロモーションビデオながら、いくつもの要素が重なり、極めてクオリティの高い作品に仕上がっている。その1つが、名優・山田辰夫の存在感である。前述のシーンは、同映画の裏・クライマックスとも言える。この日を境に、2人の人生は別々の方向へと動き出す。

裕司はやがて弱小プロダクションにスカウトされ、バンドのボーカルとしてデビューするが、それは彼が目指す音楽ではなかった。そんなある日、ラジオ局で偶然、亜美と再会する。彼女もポルノ映画への転身を決められずにいた。互いに悩める2人は本音をさらけ出し、自然と体を重ねる。そして吹っ切れたように、こう言い合った。「俺、バンド抜けるよ」「私も、決めたわ」――

亜美はポルノ女優への道を選んだ。

一方、吉夫も、別の道で喝采を浴びる。それは、かつて人生の敗者となったライブ・ディスコのステージで、演奏をバックに芸能界の醜聞を機関銃のように喋りまくるMCとして―― いわゆるトーキングブルースだ。ポルノ女優に転じた亜美も、早速その餌食となった。

さて、肝心の裕司である。

自分の求める音楽を模索していた彼は、ある日、田中邦衛演ずるホテルのオーナーの導きで、不思議な音楽と出会う。それをキッカケに曲作りに目覚めた彼は、ヨットハーバーの管理人(宍戸錠)の下で、住み込みで働きながら音楽を作る。このシーンはまるで映画『ロッキー』でトレーニングするシルベスター・スタローンを彷彿とさせる。

そして1年後。完成した曲のテープをレコード会社に送ると、「会いたい」との返事。管理人に別れの日が来たことを告げる裕司。ふと横を見ると、「MONICA」と書かれたヨットが目に入る。

場面が変わり、巨大なビルを見上げる裕司。ちなみに、ロケ地は新宿の KDD ビル(現・KDDI ビル)である。招かれたレコード会社が大手であることが一目で分かる描写だ。緊張した面持ちでエレベーターを一人上がる。扉が開く。逆光で眩しいが、何人ものシルエットが彼を出迎える。ここで、あの曲の前奏がかかる。「モニカ」である。

劇中タイトルは「THANKS」だった「モニカ」


 白く輝くよハイウェイ
 昨夜のスコール嘘のようさ
 ポケットのサングラス取り出して
 街中を淡いブルーに変えた

レコーディングブースで歌う裕司をミキシングルームから眺める重役たち。やがて画面は4分割され、次々とシーンが流れる。シングル曲「THANKS」(映画の中で「モニカ」はそう呼ばれる)のレコードジャケット、オリコンのヒットチャートで赤丸急上昇の同曲、レコード会社のプロモーション会議、スポーツ紙や週刊誌の「大型新人・民川裕司」を称える記事、テレビのトーク番組に呼ばれた裕司―― まさにサクセスストーリーだ。画面の中に、オリコン誌を広げる吉夫やテレビの裕司を見つめる亜美の姿も見える。

物語はこの後、もう一波乱あって、裕司は全ての仕事を干されるが、ここでは割愛する。問題は、同映画のクライマックスとも言えるラスト4分の描写である。突如、画面がモノクロになり、控室に一人佇む裕司が映し出される。台詞はない。孤独と焦燥感の描写が繰り返される。

やがて時間が来て、スタッフに呼ばれ、廊下に出る裕司。不安な顔が、歩くうちに次第に研ぎ澄まされていく。階段を降り、ステージ袖へ。前奏が始まる。大きく跳び上がり、ステージへと駆ける――。

映画はそこで終わる。エンディングで流れるのは「モニカ」のB面「真夜中のストレンジャー」である。

エンディングナンバーは「真夜中のストレンジャー」


 スクラップの街
 ネオンサインにじんでる
 夢はつきない
 さまよう Lonely Nights

正直、ハッピーエンドかバッドエンドか分からない。単純なサクセスストーリーにしなかったのは、デビュー前の新人に、安易に下駄を履かせたくなかった渡辺晋社長の親心だろう。

ただ、1つだけ確かなことがある。

あの日―― 1984年2月に映画館を出た僕は、その足でレコード屋に向かって「モニカ」を買った。そう、僕は民川裕司―― もとい、吉川晃司の虜になっていた。

リアル吉川晃司のサクセスストーリーは、既に始まっていたのである。



歌詞引用:
映画『すかんぴんウォーク』劇中歌 / 吉川晃司
モニカ / 吉川晃司
真夜中のストレンジャー / 吉川晃司



※2018年2月11日、2018年8月18日に掲載された記事をアップデート

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2022.08.18
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