2022年 8月6日

梅津和時が語るRCサクセション ③ 忌野清志郎と過ごした濃密な日々

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『梅津和時が語るRCサクセション ② ライブ本数年間100本!武道館も出発点』からのつづき

反権力。押さえつけようとする何かを跳ねのけることが清志郎のモチベーション


― 今回は81年と83年のRCサクセションのライブが配信されましたが、81年の清志郎さんの動きがすごくて、83年には、かなり洗練された印象がありました。音も、動きもプロフェッショナルになった。その間は梅津さんが行動を共にして、どのような感じでしたか?

梅津:ずっと同じ曲をやって、さすがに譜面も見なくなって、全部暗譜していますし、手慣れていたのは確かですよね。次に誰がどう来るかというのも分かるようになりました。その中で、何か予想外のことをしなくてはいけないというのが私と片山の役割でもあったし、何かヘンなことをやって驚かせようとも思っていたし。清志郎にも蟹を持って来られて驚かせられたというのもありましたが(笑)。

― 音が確立したから、遊びを入れることでどのような化学変化が起こるかということですね。

梅津:ですね。それをお客さんも楽しんでくれているという実感もありました。主役の清志郎が歌わずにステージの裏で蟹を持って、私を何分も追いかけているという(笑)。そこでバンドだけ演奏しているという状況はありえないでしょ(笑)。



ーあの頃のRCは何をやってもファンは許すという感じでしたよね。

梅津:清志郎はそれが好きだったんじゃないかな。押さえつけようとする何かを跳ねのけるというのが彼にとってもモチベーションだったと思います。

― 反権力ということですね。

梅津:はい。権力が大っ嫌いでしたからね。

― そういう精神性も梅津さんと合致したのでは?

梅津:私、片山も含めて、バンド全員がそうだったと思います。

― それが演奏にも出ていましたよね。

梅津:自制心がありますから、完全に出ていたとは思わない。タイマーズにはなっていないので。タイマーズが出てきた時、清志郎はここまでやりたかったんだろうな… と思いましたね。『DANGER』でここまで出来なかったしね。あの時、私も社会批判まで考えていなかったですから。
RCで『COVERS』を出して叩かれてというところで、さらに大きな力が出たんだと思います。

― 僕もそう思います。RCでは出来ないことを、ということでタイマーズが結成されたという。

梅津:清志郎も若くて新しいやつらとやりたいと思っただろうしね。

メンバー加入の誘いも。RCサクセションと過ごした日々


― 梅津さんはRC以降も清志郎さんと関わっていきますよね。

梅津:私はRCがバラバラになる前の年にクビになっているんです。自身が参加していたアフリカツアーから帰ってきて、次のRCの日程を聞いていなかったので、「いつですか?」と電話したら、「今回の日程に梅津さんは入っていませんよ」と言われて…。唖然…となりました。
何があったのかな? と思いましたが、それで、ちょっとしたら日比谷野音(「GLAD ALL OVER」と題され、忌野清志郎、仲井戸麗市が共演)に誘われましたね。行ってみたら普通の顔をして付き合ってくれる(笑)。その辺が清志郎の不思議なところですね。
まぁ、今思うと、私も海外の仕事が多かった時期ですし、「この月出来ないからね」とか、平気で言っていたとも思うので、ちょっとイヤな奴だったかもしれないです(笑)。



― 梅津さんは、海外のミュージシャンと一緒にやられたり、日本でも平沢進さんなんかとやられたりもしていましたよね。色々な方のステージやレコーディングに関わっていると思いますが、RCサクセションと他のミュージシャンとの圧倒的な違いはどこにありますか?

梅津:その違いは分からないですが、当時はRCの中に自分も染まってしまっていたので。

― メンバーと言ってもおかしくない状況でしたよね。

梅津:ですね。初期の頃に事務所からメンバーにならないか? という話はきました。その時は月給制がキツいのと、自分のバンドが出来なくなってしまうので、「すみません。私はサポートの方がいいです」と断りを入れました。それはメンバーも知らないかもしれない。
RCのメンバーにも「なんでメンバーにならないの?」みたいに言われたことがあるから…。

― ファンも梅津さんがメンバーでないことが不思議だったと思います。

梅津:メンバーの方が制約は多いですから。その頃、個人的にもレコードデビューをしているし、「ゴメン、ここはどうしても出来ないから片山を入れるね」とかやっていましたから。

― 80年ぐらいから本格的に付き合い始めて、RCと一緒に過ごした時期はかなり長かったと思うのですが、その中で81年から83年というのはいかがでしたか?

梅津:本当に無我夢中でRCサクセションに集中していた感じがします。ライブの本数も学園祭にもすごくたくさん行っていたし、日本中飛び回っていました。83年『OK』のハワイレコーディングで一旦ホッとした感じでしたね。その後が渋谷公会堂ですよね。
とんでもないバンドと一緒にやっているな、という感覚はありましたよね。ビートルズやローリングストーンズを見て、こういうのは別の世界だと思っていましたが、そういう奴らと一緒にいるのかな、という気になってきました。
それが当たり前になっているから、たとえば、新幹線のホームにファンが集まったりとか、ホテルから出られなくなったりとか。



― その渦中に梅津さんもいたわけですよね。

梅津:我々は逃げられたので大丈夫です(笑)。

RCサクセションに関わっていなかったら自分のスタイルも違うものになっていた


― 梅津さんのこれまでのミュージシャンとしてのキャリアを全て含めて、RCサクセションとの日々はどんな時代でしたか?

梅津:ジャズメンとしての自分がいて、ロックをやっている自分がいて面白かったですね。ロックをやっている時は「こいつジャズなんだけどね」という言われ方をして、ジャズをやっている時は「ロックやって稼いでいるんだろ」と言われて。どっちも稼げねぇよって言いましたが(笑)。

― 梅津さんご自身はジャンルで括られたくないという気持ちがありましたよね。

梅津:元々ジャンルが嫌いでした。“ジャズ” という言い方が一番ジャンルレスかと思っていました。でもなんとなく、80年代半ば頃からジャズというジャンルが古典的なものとして出来た感じがしたので。だから自分はジャズじゃなくてもいいかな、と思い始めましたね。

― そういう自由な発想が、RCではロックのフォーマットに収まりますよね。

梅津:清志郎も発想が自由だったと思うので。だから、もっと色々なことに挑戦したかったと思うしね。

― 逆に梅津さんのキャリアの中でRCと関わってなかったら… ということは想像できますか?

梅津:想像すると相当つまらないですね(笑)。RCに関わっていなかったら、その後関わっていない人がいっぱいいると思うので。ロックの人たちでもブルースの人間でも。単純に(近藤)房之助ともあっていなかっただろうし、憂歌団の木村(充揮)とも会っていなかっただろうし。当然三宅(伸治)君とも会ってない。このシーンは狭いよね。

― 梅津さんのスタイルも違いものになっていましたか?

梅津:違うでしょうね。当然、ブロックヘッズとも会っていないだろうし、あっちはあっちの世界で面白そうだね、と思っていただけだから、どっちに行ってもいいんだ、という感覚にはなっていなかったと思うんです。

― 濃密な時間を過ごして、ミュージシャンとしても変わって行って。逆に清志郎さん、チャボさん、RCのメンバーも梅津さんと関わるようになって、明らかに変わっていったという部分はありましたか?

梅津:どうだろう、清志郎とかも、「何やってもいいんだ」という意識が大きくなった気はします。「梅津さんたち、海外のフェスにも出ているし、そういうのをやってみたいよね」とか言っていましたから。

― その後、ソウル・フラワー・ユニオンなんかと関わるのもRCの影響ということですか?

梅津:絶対そうだと思います。彼らが知っているのはRCの梅津だから。ロックのサックス吹いてくれるという部分で話が出来ると思うので。僕がジャズの人だと思われていたらそういう話はしてくれないでしょ。

― “RCの梅津” というので話が来るのは嫌ではないと。

梅津:全然イヤではないです。大歓迎です。
清志郎が亡くなった直後、そういう部分で話を訊かれることが多いし、それで呼ばれることも多かったのですが、その時期は嫌でした。
清志郎がいなくなって、「何か清志郎の曲をやって」と言われるのが暫くはダメだったんです。だけど何年かしてから、アマチュアで “青森の清志郎”(今井治さん)とかが出てきて、あの辺りから、これだけ好きなヤツがいて、そこで一緒にやって幸せな気持ちになれるのであれば、それもいいなと思って。
最初は清志郎の名前で仕事をしているという感じがすごく嫌でしたが、そうではなく、そこに私が加わることで、また別のことが出来ると彼も思ってくれるのだったらOKですね。

― 青森の清志郎さんも、本家の清志郎さんやRCサクセションは越えられないけれど、梅津さんが入ることによって近づくことは出来ますよね。

梅津:本人も歌が上手くなってきているし、一緒にやるようになって若干変わった感じもするので。やはり、人間捨てたものではないな、一面的に見てはいけないと思いますし。
曲に対しての思い入れもあるだろうしね。

RCサクセションの音は内側を向いていない。それに加担したかったし、加担出来たと思っている



― 『RHAPSODY』から始まり、RCサクセションと共に過ごした80年代って、梅津さんにとって、どんな時代でしたか?

梅津:やりたいことがガンガンやれた時代だったかな。生活向上委員会も含めて、ある意味アンチテーゼとして表現したものが、そのままポーンとメインストリームに乗っかってしまう。リスナーが面白いことに騙されているのか、宝島やビックリハウスで書いてもらうのも楽しかったし。メディアが一体化している感じもしましたね。

― 梅津さん自身も雑誌にお書きになったり、そういう部分からも通じて様々なミュージシャンと関わっていったと思いますが、その中でも清志郎さんとの日々が一番大きかったと言い切っても良いですか?

梅津:はい! いいです。

― 今どのように受け止めていますか?

梅津:あんなすごいヴォーカリストと一緒にやれたことは奇跡だと思いますし、嬉しいし。みんなに羨ましがられると思いますが、それで同じ方向を見て音楽が出来たというのがすごく嬉しいです。
清志郎、RCの音は内側を向いていないんです。内側の音を意識しながら、それをひっくるめて外に出していくという感じでした。それに加担したかったし、加担出来たと思っているし。どんな有名な人とやるよりも楽しかったですね。

― バンドってメンバー全員が精神的な面で同じ方向を見ていないとだめだと思うのですが?

梅津:そんなでもないような気がします。でも、なんとなくひとつにして表に持っていく役割が清志郎だったと思います。清志郎は演奏中にしょっちゅうこちらを見る人ですよ。目が合う人なんです。バンドマンであまりいないですね。そういう人は。

― 全体を考えていたということですね。

梅津:動きながら全員をちゃんと見ているし、それを含めて表に出すことが出来る人でした。ああいう人は本当にいませんね。
客席を見ていると同時にバンドメンバーをしっかり見ている。全てを自分のコントロール下に置いているというか。そういう意味でもRCサクセションは一丸になっていると思いましたね。特に今回配信された81年から83年の時期というのは、バンドが一体化されていた時期だと思います。削ぎ落とすところは削ぎ落としていったと思うし、その分遊びを増やしていったと思うし。



― 一体化という部分は作品にも表れていたと思います。EMI時代の作品も大好きですが、洗練され過ぎている印象があります。RCが次のフェーズに入ったような印象があります。

梅津:そうですね。だからバンドとしての一番勢いがあったのが、81年から83年ぐらいだと思いますね。その先、85年ぐらいまで面白かったのは確かですが、段々余裕ができ過ぎてバンドがバラけてきたのかもしれません。

― 清志郎さんが亡くなられて、RCの時代からだいぶ時が流れましたが、当時を思い出すことはありますか?

梅津:ステージはよく思い出します。あとは、みんながボケーっと疲れ果てて寝ている新幹線の車内とかね(笑)。
あの頃は疲れ切って移動しているから会話もないし。もちろんステージでは元気だけど、打ち上げで大騒ぎするわけでもないし。入ったばかりの頃、安い中華屋とかで集まって飲んでいる時が面白かったですね。売れていくと、主催者が打ち上げの店を用意してくれるようになりますが、そうするとちょっと高級な店になりますからね。そうするとみんな気を使うし。
いいバンドでした。自分もよく動いているなと思います。あれを観てしまうと、これは2度と出来ないなと思えるのが寂しいですね。年齢的にも無理でしょうけど。

― あの頃、梅津さんはおいくつですか?

梅津:私は31です。あの頃、もう年寄りだと思っていましたがね。RC自体もメンバーは二十代後半でしたから明らかに年寄りのバンドでしたね。他のロックバンドはハタチ前後でしたから。

― でもRCはそこから始まったということですよね。

梅津:あの頃からロックの年齢も変わっていきました。

― 常識も変わっていきましたよね。

梅津:今もストーンズは現役ですからね。

― 梅津さんも現役でこれからもやられていきますよね。

梅津:そういうことになります。

(取材・構成 / 本田隆)


■3回に渡ってお届けした梅津和時インタビュー、いかがでしたでしょうか? 時代の寵児として80年代を駆け抜けたRCサクセション。濃密な時間の軌跡をたっぷりと体感できたと思います。彼らの最盛期から40年近くの年月が過ぎ、今なお多くの人を魅了するその真髄が梅津さんの言葉から感じ取ることができました。長いインタビューでしたが、じっくり腰を据えて付き合って下さった梅津さんには感謝です。ありがとうございました。


※編集部よりお知らせ
【よみがえる!伝説のコンサート】 
RCサクセション伝説のライブが2本立てで配信!
81’日本武道館×83’渋谷公会堂

ご好評につき、8月31日まで延長することが決まりました。

▼ 配信サイト:以下よりお好みの配信サービスをお選びいただき、詳細ページをご確認の上、チケットをご購入ください。
PIA LIVE STREAM / NHKグループモール


まだ、配信をご覧なられていない方はこの機会にぜひ、ご覧くださいませ。
(一度チケットをご購入いただいたお客様につきましても前回のチケットで8月31日まで配信をご覧いただけます)

RCサクセション “KING OF LIVE” への道のりを徹底特集!

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2022.08.25
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