忌野清志郎、その音楽性の集大成アルバム「KING」
11月24日、忌野清志郎のアルバム『KING Deluxe Edition』が発売された。
『KING』のオリジナル盤は、忌野清志郎が2003年に発表したアルバムで、ソロ名義で発表されているが、実質的には彼がデビュー以来さまざまなスタイルを通じてクリエイトしてきた音楽性を集大成した作品と言ってもいいと思う。
忌野清志郎は1970年にフォークスタイルのグループ、RCサクセション(忌野、林小和生(現・小林和生)、破廉ケンチ)としてシングル「宝くじは買わない」でデビュー。この曲はヒットしなかったが、1972年の「ぼくの好きな先生」で注目された。その後、1978年に元・古井戸の仲井戸麗市がギタリストとして参加するなどメンバーチェンジを行いながらロック・ソウル色を強めたバンドになっていく。そして「雨あがりの夜空に」「トランジスタ・ラジオ」(1980年)などの名曲を発表して日本のロックシーンに確固とした存在感を示すようになる。さらに忌野清志郎個人としても、1982年に当時YMOの坂本龍一とのコラボ・シングル「い・け・な・い ルージュマジック」を大ヒットさせ、その強烈なキャラクターをアピールしていった。
RCサクセションは1991年に解散したが、忌野清志郎はその前後からスタートさせていたソロ名義での活動だけでなく、THE TIMERS、HIS、忌野清志郎&2・3'S、Little Screaming Revue、ラフィータフィー、LOVE JETSなど、さまざまなプレイヤーとグループを組んで多彩な作品を精力的に発表していく。しかし、2006年に喉頭がんを発症、一度は活動復帰したものの2009年5月2日に帰らぬ人となった。
80年代ロックムーブメントのパイオニア、RCサクセション
しかし、こうした足跡を文字でたどったり、レコード売上などの数字を見たりするだけでは、忌野清志郎の真価は伝えられないなぁと思う。というのも、彼こそ本当の意味で “記憶に残る” アーティストだからだ。
時代的に振り返れば、RCサクセションは、サザンオールスターズとともに、80年代のロックムーブメントを切り拓いたパイオニアと言えるだろう。たしかにサザンオールスターズがいきなり「勝手にシンドバッド」で登場した時の衝撃は凄まじかった。大胆な音楽性と桑田佳祐の独特の唱法がつくりだす世界には、これから新しいものが始まると確信させる迫力があった。
しかし、ロック・RCサクセションにもそれに勝るとも劣らないインパクトがあった。フォーク・スタイルだった初期のピュアな感覚を残しながらも、ジェームス・ブラウンやアトランティック・ソウルなどの本格的R&Bのテイスト、さらにソウルミュージックに強い影響を受けたロックの表現スタイルを融合した独自のサウンドと圧倒的なライプパフォーマンスを打ち出していった。
RCサクセションのステージには最後まで目をそらすことができない強烈な魅力があった。その演奏からはウィルソン・ピケットやサム&ディヴなどのソウルミュージックから感じられるグルーヴに通じる “ホンモノのノリ” が伝わってきた。さらに梅津和時のサックスによって色気をプラスしたサウンドにからむ忌野清志郎のボーカルには聴き手の胸をえぐるようなリアリティがあふれていた。まさに、彼自身のありったけの想いを込めた歌が僕の心に休む暇なくストレートに響き続ける。そんな圧倒的なステージだった。
魂のリアリティをロックで表現
RCサクセションは、屈折した思いを抱えながらあの時代の日本で精一杯に生きる魂のリアリティをロックという形で表現することに成功した稀有なロックグループだったし、忌野清志郎はロック表現を、そのまま彼自身の生き方として貫いていった。なによりも、そこが忌野清志郎の凄さなのだと思う。
忌野清志郎はロック=ソウルを単なる音楽の様式としては捉えていなかったのだろう。リスナーを引き付けるカッコよさも、もちろんロックにとって大切な要素のひとつだ。しかしそれよりも、あくまでも彼自身の想い、そして魂を託した表現であることに本質的な意味があった。だから、RCサクセションで成功を収めた後も、彼は往々にして商業ロックの枠をはみ出す作品を生み出しては、発売中止、放送禁止といった業界との軋轢を生んでいった。その結果、RCサクセションという看板で活動をつづけることが出来なくなっても、彼はその信念を曲げなかった。ロックビジネスの世界で正面切って闘うことが許されない状況になっても、果敢にゲリラ戦を挑み続けた。
RCサクセション後期以降の忌野清志郎が、表面的にはなんの脈絡もないかのようにも見えるさまざまな表現スタイルで活動していったのも、彼が自分の信念を貫くための闘い方だったのだと僕には感じられた。その闘い方のひとつひとつには触れないけれど、『COVERS』(1988年)を聴いても「パパの歌」(1991年)を聴いても、そのメッセージには本質的に一貫したものがあると僕には思えるのだ。
こうしてさまざまな形での遊撃戦を展開してきた忌野清志郎が、それまでの蓄積をすべて踏まえた上で、もう一度リスナーに満面の笑顔で向き合った作品が『KING』なのではないかと思う。
忌野清志郎「KING」がもつ特別な意味
ソロ名義のアルバムとしては『RUFFY TUFFY』(1999年)以来となるが、その間に忌野清志郎30周年記念トリビュートコンサートのライブアルバム『RESPECT!』をリリースした他、インディーズレーベルから忌野清志郎Little Screaming Revue名義の『冬の十字架』(1999年)、ラフィータフィー名義の『夏の十字架』(2000年)など4枚のアルバムを発表している。ある意味で、より過激な表現が許されるインディーズを中心に活動していたこの時期の忌野清志郎が、『RESPECT!』以来のメジャー作品として発表したということでも、『KING』が彼のなかでも特別な意味をもつ作品だろうという推察ができる。
クレジットでまず目を引くのが、1曲を除いて1990年代以降、忌野清志郎の重要な音楽パートナーとなっているギタリスト、三宅伸治との合作になっていること。さらにRCサクセションのホーンセクションでもあった梅津和時、片山広明が参加していることにも注目だ。
このクレジットの意図は、1曲目の「Baby何もかも」を聴けば腑に落ちる。メンフィス・ソウルのお手本ともいうべきタメの効いた泣きのサウンドは、まさにRCサクセションの十八番だ。けれど、同時にこれが懐かしのRCサウンドの再現ではないということもすぐにわかる。ここに居るのは、メンフィス・ソウル・サウンドへの変わらぬリスペクトを込めた21世紀を生きる清志郎の魂なのだ。
2曲目の「WANTED」以降の楽曲を聴き進めていくと、彼が表面的なサウンドや表現手法を変えることで新しさを見せようとするのではなく、自分にとってのルーツミュージックからインスパイアされたものを、オリジナリティあふれる音楽に昇華させることで、リアルな今の想いを表現しているのだということがひしひしと感じられてくる。RCサクセションの時代よりもはるかに深さ、そして成熟度を増した演奏から伝わってくるのは、あの時とまったく鮮度が変わらないピュアな想いだった。
忌野清志郎のロックは、音楽スタイルだけじゃない!
忌野清志郎を評価するには、彼がロックを表層的な音楽スタイルとしてではなく、自分を貫き通すための表現という本質を理解して受け入れ、それを自分のオリジナリティに昇華し、日本のきわめて困難な状況下で、最後までその実践を貫くために闘い続けたアーティストであることを見なければいけないと思う。そして同時に、その作品をただのプロパガンダではなく、幅広い聴き手の魂に沁み込んでゆくきわめて上質のエモーションをもつ楽曲として成立させたクリエイター、そしてパフォーマーとしての高い技量とを両立させた稀有な存在であることも。
『KING』は、忌野清志郎という空前絶後のアーティストがその後の音楽シーンに残してくれた極上の置き土産と言えるだろう。このアルバムを聴くことで僕たちは、音楽には時代によって変わるべきものと変わる必要のないものとがあることを再確認できるのだ。
『KING』の初回限定盤にはDisc2として「"WANTED"日比谷野外音楽堂 / Aug.17th 2003」(DVD)がついたが、2021年の『KING Deluxe Edition』では通常盤にもこのDVDが付く他、全曲リマスター+未発表曲4曲が収録される。さらに限定盤には「忌野清志郎「WANTED」 LIVE at 日比谷野外大音楽堂」(DVD)、『KING』のLP盤が収められる。
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2021.11.24