11月28日

尾崎豊の迷走と「壊れた扉から」早熟の天才は10代で燃え尽きたのだろうか?

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photo:SonyMusic  

誤解を承知で言えば、尾崎豊は3枚のアルバムで燃え尽きた


もしかしたら、そのアルバムは、彼の遺言だったのかもしれない。

尾崎豊――。
10代の教祖、若者の代弁者、反逆のカリスマ―― 生前、彼は様々な形容詞で呼ばれた。

生涯、尾崎は71曲のオリジナル曲を発表した。全て自身の作詞・作曲である。そのうち、10代で出した3枚のアルバムに収められたのが29曲。誤解を承知で言えば、この29曲で尾崎豊は燃え尽きたのではないだろうか。

実際、二十歳を迎えた尾崎は翌1986年、無期限の活動休止に入る。そして渡米してニューヨークで暮らすも、新曲を1つも生み出せなかった。帰国後、彼はレコード会社を移籍する。だが、4枚目のアルバムは再三に渡り発売延期を繰り返し、遂には覚醒剤取締法違反で逮捕される。

結局、20代の尾崎はいくつかの佳作を発表するも、もはや10代の頃のような輝きは放てなかった。そして、もがき苦しむ中、その26年の生涯を閉じる。かのヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトもそうであるように、早熟の天才の末路は、時に悲劇的である。

何故、尾崎は10代で燃え尽きたのだろう。その謎を解く鍵は、ティーンエージャー尾崎の最後の日にリリースされた3枚目のアルバムにあるような気がしてならない。

少々前置きが長くなったが、今回は、まさに34年前の今日―― 1985年11月28日にリリースされた尾崎豊のサードアルバム『壊れた扉から』の話である。

「十七歳の地図」「回帰線」… そして10代の最後にリリースされた「壊れた扉から」


かのアルバム、なぜ、翌日に二十歳の誕生日を控えた日にリリースされたかというと、尾崎をデビュー以来育ててきたCBS・ソニー(当時)の須藤晃プロデューサーが「10代のうちに3枚のアルバムを出す」と尾崎と口約束をしたからである。だが、これが思わぬ悲劇を巻き起こす。

ファーストアルバムの『十七歳の地図』は、ほぼ1年間の制作期間が設けられた。1982年10月にCBS・ソニーのオーディションに合格した尾崎は、翌83年1月から須藤Pと楽曲作りを始める。そして6月からレコーディングに入り、同年12月1日に晴れてデビュー。表題曲「十七歳の地図」を始め、全体にブルース・スプリングスティーン色の強いアレンジなど、須藤Pの意向が強く反映された。「10代の代弁者」といったイメージはこの時に作られる。

セカンドアルバムの『回帰線』は1985年3月のリリース。前年8月に参加した日比谷野音のライブイベント『アトミック・カフェ』で高さ7mの照明用やぐらから飛び降りた尾崎は左足を骨折、9月からのツアーが12月に延期された。その療養期間で作り上げたのが同アルバムだった。先行してシングル「卒業」がリリースされ、これがヒットして2ヶ月後に発売された『回帰線』は自身初のオリコン1位となる。同アルバムは等身大の尾崎が最も反映された作品となった。

前2作と比べ、サードアルバムは超多忙の中を縫って作られた。「卒業」と『回帰線』のヒットで尾崎は一躍有名人となり、この1985年は彼の生涯で最も忙しい年となる。5月に始まったツアー『TROPIC OF GRADUATION TOUR』は38公演が行われ、8月25日の大阪球場の野外ライブで千秋楽。尾崎はこのツアー中からアルバムの曲作りを始めるが、連日の疲労で思うように進まない。

更に同年11月からは10代最後のツアー『LAST TEENAGE APPEARANCE TOUR』も控え、レコーディングはその合間を縫って行われた。

「10代のうちに3枚のアルバムを出す」
―― それは、尾崎と須藤Pの軽い口約束から始まったという。だが、尾崎の人気が社会現象化するのに伴い、やがて既成事実となる。タイムリミットは翌日に二十歳の誕生日を控えた1985年11月28日。楽曲作りのための十分な時間が取られた前2作と違い、尾崎自身が有名人となり、環境は激変する。「学校」や「大人」といった仮想敵がなくなり、「10代の教祖」はそのジレンマに悩まされた。

歌詞から読み取る尾崎豊の変化、そこにある孤独と喪失


アルバムに先行して、10月にシングル「Driving All Night」がリリースされる。それは、当時の疾走する尾崎自身を歌ったものだった。忙殺される日々の中、彼は次第に目的を見失いつつあった。

 Honey 俺は何処へ走って行くのか
 街のドラッグにいかれて
 俺の体はぶくぶく太りはじめた
 それでもまだこんなところに
 のさばっているのか
 あの頃みたいに 生きる気力もなくして

当時、僕は一聴して、不思議に感じたのを覚えている。「ドラッグ」や「ぶくぶく太りはじめた」とは、一体誰のことだろうと。ライブで目にする尾崎は痩身の青年で、ぜい肉とは無縁であった。

だが―― それから2年後、覚醒剤取締法違反で逮捕された尾崎は太った姿をテレビのニュースの前にさらけ出した。

サードアルバム『壊れた扉から』は、全体に「街」の描写が多い。しかも主人公は大抵、孤独である。軽快なメロディが美しい「失くした1/2」もその曲調とは裏腹に、全体に孤独感が付きまとう。

 ひとりぼっちの夜の闇が
 やがて静かに明けてゆくよ
 色褪せそうな自由な夢に
 追いたてられてしまう時も
 幻の中 答えはいつも
 朝の風に空しく響き
 つらい思いに 愛することの色さえ
 忘れてしまいそうだけど

同曲の詞の中に、「失くした1/2」というフレーズは出てこない。だが、全体を通して、尾崎が心の分身と離れた喪失感を歌っているのは分かる。その相手は一体、誰なのだろう。

運命的な一曲「Forget-me-not」尾崎豊から須藤晃へ向けた遺言?


同アルバムの最後にレコーディングされた「Forget-me-not」は、この日に歌入れを行わないと、10代最後の日にリリースできないギリギリの状況下で完成する。2番のサビは声がかすれているが、タイムリミットが迫る中、須藤PはOKを出す。苦渋の決断だったと思われるが、今聴くと当時のリアルな空気感が伝わり、逆にこれでよかったと思わせる。

 初めて君と出会った日
 僕はビルのむこうの
 空をいつまでも さがしてた
 君がおしえてくれた 花の名前は
 街にうもれそうな 小さなわすれな草

Forget-me-not――「私を忘れないで」というメッセージを「忘れな草」に掛けている。変な話、ある種の遺言のようにも聴こえる。
―― 実際、その6年と5ヶ月後、尾崎は帰らぬ人となった。

サードアルバム『壊れた扉から』のリリースからひと月後、尾崎は無期限の活動休止を発表、単身ニューヨークへ渡った。それは、デビュー以来、楽曲作りにおいて常にパートナーであり続けた須藤晃プロデューサーとの決別も意味した。極端な話、それまで築き上げた尾崎豊の半分は須藤晃であった。

『壊れた扉から』は、前2作のアルバムと違い、抽象的な詞が多い。しかし、今にして思えば、それらの詞は彼が20代で経験する数々の迷走を予言しているようにも見える。

須藤晃プロデューサーは尾崎の楽曲の中で、自身のベストを尋ねられると、決まって「Forget-me-not」を挙げるという。10代最後を飾るアルバムの、更に最後にレコーディングされた運命的な一曲――。

ある意味、それは尾崎豊から須藤晃へ向けた遺言だったのかもしれない。既にその時点で、尾崎は壊れた扉の向こうに、自身の20代が見えていたのである。


※2017年11月28日に掲載された記事をアップデート

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