11月28日
尾崎豊は10代で燃え尽きたのだろうか? 20代の迷走と「壊れた扉から」
69
1
 
 この日何の日? 
尾崎豊のアルバム「壊れた扉から」がリリースされた日
この時あなたは
0歳
無料登録/ログインすると、この時あなたが何歳だったかを表示させる機能がお使いいただけます

 
 1985年のコラム 
City Cocktail はひとつの通過点、メジャーでレイドバックしたプライベーツ

追悼:トム・ペティ — きみがロックンロールスターになりたいのなら

スタローンと結婚したいっ!初めて買ったLPは「ロッキー4」のサントラ盤

インエクセス ー マイケル・ハッチェンスの急逝とシングルカットの記憶

ソウルの風に吹かれて。旅のテーマソングは尾崎豊の「路上のルール」

私のTMは86年が最高潮!どんなに好きだったかは恥ずかしいから書かない

もっとみる≫

photo:SonyMusic  

もしかしたら、そのアルバムは、彼の遺言だったのかもしれない。

尾崎豊――。
10代の教祖、若者の代弁者、反逆のカリスマ―― 生前、彼は様々な形容詞で呼ばれた。

生涯、尾崎は71曲のオリジナル曲を発表した。全て自身の作詞・作曲である。そのうち、10代で出した3枚のアルバムに収められたのが29曲。誤解を承知で言えば、この29曲で尾崎豊は燃え尽きたのではないだろうか。

実際、二十歳を迎えた尾崎は翌1986年、無期限の活動休止に入る。そして渡米してニューヨークで暮らすも、新曲を1つも生み出せなかった。帰国後、彼はレコード会社を移籍する。だが、4枚目のアルバムは再三に渡り発売延期を繰り返し、遂には覚醒剤取締法違反で逮捕される。

結局、20代の尾崎はいくつかの佳作を発表するも、もはや10代の頃のような輝きは放てなかった。そして、もがき苦しむ中、その26年の生涯を閉じる。かのヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトもそうであるように、早熟の天才の末路は、時に悲劇的である。

何故、尾崎は10代で燃え尽きたのだろう。その謎を解く鍵は、ティーンエージャー尾崎の最後の日にリリースされた3枚目のアルバムにあるような気がしてならない。

少々前置きが長くなったが、今回は、まさに32年前の今日―― 1985年11月28日にリリースされた尾崎豊の3rdアルバム『壊れた扉から』の話である。

かのアルバム、なぜ、翌日に二十歳の誕生日を控えた日にリリースされたかというと、尾崎をデビュー以来育ててきたCBS・ソニー(当時)の須藤晃プロデューサーが「10代のうちに3枚のアルバムを出す」と尾崎と口約束をしたからである。だが、これが思わぬ悲劇を巻き起こす。

1stアルバムの『十七歳の地図』は、ほぼ1年間の制作期間が設けられた。1982年10月にCBS・ソニーのオーディションに合格した尾崎は、翌83年1月から須藤Pと楽曲作りを始める。そして6月からレコーディングに入り、同年12月1日に晴れてデビュー。表題曲「十七歳の地図」を始め、全体にブルース・スプリングスティーン色の強いアレンジなど、須藤Pの意向が強く反映された。「10代の代弁者」といったイメージはこの時に作られる。

2ndアルバムの『回帰線』は1985年3月のリリース。前年8月に参加した日比谷野音のライブイベント『アトミック・カフェ』で高さ7mの照明用やぐらから飛び降りた尾崎は左足を骨折、9月からのツアーが12月に延期された。その療養期間で作り上げたのが同アルバムだった。先行してシングル「卒業」がリリースされ、これがヒットして2ヶ月後に発売された『回帰線』は自身初のオリコン1位となる。同アルバムは等身大の尾崎が最も反映された作品となった。

前2作と比べ、3rdアルバムは超多忙の中を縫って作られた。「卒業」と『回帰線』のヒットで尾崎は一躍有名人となり、この1985年は彼の生涯で最も忙しい年となる。5月に始まったツアー『TROPIC OF GRADUATION TOUR』は38公演が行われ、8月25日の大阪球場の野外ライブで千秋楽。尾崎はこのツアー中からアルバムの曲作りを始めるが、連日の疲労で思うように進まない。

更に同年11月からは10代最後のツアー『LAST TEENAGE APPEARANCE TOUR』も控え、レコーディングはその合間を縫って行われた。

「10代のうちに3枚のアルバムを出す」
―― それは、尾崎と須藤Pの軽い口約束から始まったという。だが、尾崎の人気が社会現象化するのに伴い、やがて既成事実となる。タイムリミットは翌日に二十歳の誕生日を控えた1985年11月28日。楽曲作りのための十分な時間が取られた前2作と違い、尾崎自身が有名人となり、環境は激変する。「学校」や「大人」といった仮想敵がなくなり、「10代の教祖」はそのジレンマに悩まされた。

アルバムに先行して、10月にシングル「Driving All Night」がリリースされる。それは、当時の疾走する尾崎自身を歌ったものだった。忙殺される日々の中、彼は次第に目的を見失いつつあった。


 Honey 俺は何処へ走って行くのか
 街のドラッグにいかれて
 俺の体はぶくぶく太りはじめた
 それでもまだこんなところに
 のさばっているのか
 あの頃みたいに 生きる気力もなくして


当時、僕は一聴して、不思議に感じたのを覚えている。「ドラッグ」や「ぶくぶく太りはじめた」とは、一体誰のことだろうと。ライブで目にする尾崎は痩身の青年で、ぜい肉とは無縁であった。

だが―― それから2年後、覚醒剤取締法違反で逮捕された尾崎は太った姿をテレビのニュースの前にさらけ出した。

3rdアルバム『壊れた扉から』は、全体に「街」の描写が多い。しかも主人公は大抵、孤独である。軽快なメロディが美しい「失くした1/2」もその曲調とは裏腹に、全体に孤独感が付きまとう。


 ひとりぼっちの夜の闇が
 やがて静かに明けてゆくよ
 色褪せそうな自由な夢に
 追いたてられてしまう時も
 幻の中 答えはいつも
 朝の風に空しく響き
 つらい思いに 愛することの色さえ
 忘れてしまいそうだけど


同曲の詞の中に、「失くした1/2」というフレーズは出てこない。だが、全体を通して、尾崎が心の分身と離れた喪失感を歌っているのは分かる。その相手は一体、誰なのだろう。

同アルバムの最後にレコーディングされた「Forget-me-not」は、この日に歌入れを行わないと、10代最後の日にリリースできないギリギリの状況下で完成する。2番のサビは声がかすれているが、タイムリミットが迫る中、須藤PはOKを出す。苦渋の決断だったと思われるが、今聴くと当時のリアルな空気感が伝わり、逆にこれでよかったと思わせる。


 初めて君と出会った日
 僕はビルのむこうの
 空をいつまでも さがしてた
 君がおしえてくれた 花の名前は
 街にうもれそうな 小さなわすれな草


Forget-me-not――「私を忘れないで」というメッセージを「忘れな草」に掛けている。変な話、ある種の遺言のようにも聴こえる。
―― 実際、その6年と5ヶ月後、尾崎は帰らぬ人となった。

3rdアルバム『壊れた扉から』のリリースからひと月後、尾崎は無期限の活動休止を発表、単身ニューヨークへ渡った。それは、デビュー以来、楽曲作りにおいて常にパートナーであり続けた須藤晃プロデューサーとの決別も意味した。極端な話、それまで築き上げた尾崎豊の半分は須藤晃であった。

『壊れた扉から』は、前2作のアルバムと違い、抽象的な詞が多い。しかし、今にして思えば、それらの詞は彼が20代で経験する数々の迷走を予言しているようにも見える。

須藤晃プロデューサーは尾崎の楽曲の中で、自身のベストを尋ねられると、決まって「Forget-me-not」を挙げるという。10代最後を飾るアルバムの、更に最後にレコーディングされた運命的な一曲――。

ある意味、それは尾崎豊から須藤晃へ向けた遺言だったのかもしれない。既にその時点で、尾崎は壊れた扉の向こうに、自身の20代が見えていたのである。

2017.11.28
69
  YouTube / J4jp


  YouTube / J4jp


  YouTube / tomadoi rujyu
 

Information
あなた
Re:mindボタンをクリックするとあなたのボイス(コメント)がサイト内でシェアされマイ年表に保存されます。
カタリベ
1967年生まれ
指南役
コラムリスト≫
76
1
9
8
5
尾崎豊をスターダムに押し上げた「卒業」、その秘密は<哀愁のソ#>
カタリベ / スージー鈴木
35
1
9
8
5
1985年に誕生した「卒業」という名のマスターピース 尾崎豊 篇
カタリベ / 太田 秀樹
105
1
9
8
5
メロディーメーカーとしての尾崎豊論 ー あれ? なんか新しい
カタリベ / 指南役
31
1
9
8
6
ユニコーンやエレカシが一堂に会したCBSソニーオーディション’86 潜入記
カタリベ / 鎌倉屋 武士
23
1
9
8
5
真の魅力は内省的な歌詞にあり — 尾崎豊に堕ちていく少年の物語
カタリベ / 古木 秀典
21
1
9
8
6
伝説のCBSソニーオーディション、バックステージに潜入!?
カタリベ / 鎌倉屋 武士
Re:minder - リマインダー