圧倒的な熱量と躍動感を持った一点の曇りもないハードロック
1978年にラジオで「ユー・リアリー・ガット・ミー」を聴き衝撃を受けて以来、ヴァン・ヘイレンは僕のフェイバリットバンドになった。それは40年経った今も変わらない。圧倒的な熱量と躍動感を持った一点の曇りもないハードロック。難しい理屈抜きにロックを好きになる理由の全てがそこに詰めこまれていた。
HM/HRがオールドウェーブと揶揄され、KISSやエアロスミスでさえも勢いを失った70年代末期から80年代初頭―― ヴァン・ヘイレンは救世主として登場し、全米チャート上位に次々と作品を送り込んだ。
勿論、80年代のHM/HRの隆盛にはNWOBHMムーブメント、AC/DCの活躍など重要なファクターが幾つもあるが、こと世界最大の全米マーケットへの影響力に絞ると、彼らがいなければHM/HRが80年代に全米でメインストリームに躍り出ることはなかったのではないか。
名曲「ジャンプ」を生み出す原動力? アルバム「ダイヴァー・ダウン」
デビューアルバム『炎の導火線(Van Halen)』のビルボード19位を皮切りに、彼らは作を追う毎にチャートアクションを上昇させていった。その歩みは全米におけるHM/HR再燃の歩みとも合致していく。そして、1982年発表の5作目『ダイヴァー・ダウン』はとりわけ重要な作品だ。収録12曲中5曲がカヴァーで楽曲の振り幅も彼らの作品の中で最も大きいが、決して散漫でなくキャッチーなヴァン・ヘイレン流ハードロックでまとめ上げているのは見事だった。
エディ・ヴァン・ヘイレンの革命的なギタープレイ、そのギターサウンドに相性抜群なデイヴのしゃがれた声質と、ダイヤモンドの如きフロントマンとしての輝き。そしてハイトーンでのマイケル・アンソニーのハーモニー、さらにはアレックス・ヴァン・ヘイレン独特のドラミングとチューニング―― 個性の塊のような4つのパズルがひとつ欠けても、あのサウンドを再現できない。逆にいえば、何をやってもこの4人が音を出せばヴァン・ヘイレンになる。それを証明したのが『ダイヴァー・ダウン』であり、その自由な発想が名曲「ジャンプ」を生み出す原動力になったに違いない。
日本のお茶の間にも流れた、USフェスティヴァルでのパフォーマンス
結果、『ダイヴァー・ダウン』は「オー・プリティ・ウーマン」のヒットもあり全米3位まで上昇、いよいよメインストリームでの認知度を高めていく。そんな彼らのエポックメイキングが、1983年に開催された伝説の『USフェスティヴァル』だ。フェスのダイジェストの模様が小林克也さんのVJで地上波のテレビ朝日を通じ全国のお茶の間に流れたのは、日本の音楽ファンにとって大きな出来事だった。これを観てヴァン・ヘイレン、しいてはHM/HRの魅力に取りつかれた人々も多かったのではないか。
番組ではフェス2日目のヘヴィメタルデイも取り上げられた。油が乗り切ったジューダス・プリースト、スコーピオンズも凄まじかったが、立体的な巨大セットで堂々と繰り広げたヴァン・ヘイレンの破格なスケールでのパフォーマンスはまさに異次元。数十万人のオーディエンスから熱狂を受けるさまは、彼らが全米マーケットを席巻した証だった。
HM/HRをボーダレスに浸透させたヴァン・ヘイレンの功績
それから数か月後、ヴァン・ヘイレンは「ジャンプ」で遂に全米1位を獲得。ギターリフで始まる数多の曲でロックファンをノックアウトしてきたエディが、イントロからシンセを軽やかに奏でるなんて誰が想像しただろうか。アルバム『1984』は2位に上り詰め、彼らは真のモンスターロックバンドとしての称号を手に入れるのだ。
こうして、メインストリームのマーケットにおいて、HM/HRをボーダレスに浸透させていった彼らの功績は図り知れない。その影響を受けた多くの連中がLAメタルムーブメントを成していったことは想像に難くないし、音楽業界にHM/HRは商売になると知らしめたことも大きかった。マイケル・ジャクソンの「今夜はビート・イット(Beat It)」にエディがゲスト参加したのも、80年代洋楽シーンでのボーダレスな活躍ぶりを象徴しているようだ。
昨今、彼らのデビュー前のデモテープやライヴ音源など、ファン垂涎のアイテムをネット上で聴くことが出来るが、驚くべきは70年代中期には後に彼らが発表していく作品の原型がすでに完成しているという事実だ。70年代のロックスピリットを80年代へと継承し、見事に昇化させてきた功績も評価に値することだろう。
※2018年9月29日に掲載された記事をアップデート
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2021.10.06