ウルフマン・ジャックと青春のひとコマ、僕らの夏は終わらない

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青春映画の金字塔、ジョージ・ルーカス「アメリカン・グラフィティ」


Where were you in '62(あなたは1962年、何処にいましたか)――

1973年の公開当時、無名の若者に過ぎなかったジョージ・ルーカス監督が、古き良きアメリカのノスタルジックな一夜を描いた『アメリカン・グラフィティ』。このキャッチコピーと共に今なお色褪せない青春映画の金字塔として多くの人に愛される映画のラストシーン……

東部の大学に進学するため、プロペラ機に乗って旅立った主人公のひとり、カートが、窓から見下ろすと、飛行機雲のように一直線に走り抜ける白いTバードの姿が。そして、エピローグとして、主要人物のカート、スティーブ、ジョン、テリーといった4人のその後が伝えられると、ビーチボーイズの「オール・サマー・ロング」が流れる。

「夏中ずっと楽しかったね」
「夏はもうすぐ終わるよ」

彼らはそんな風に歌うんだ。僕は、もう何回観たかわからないぐらいの映画なんだけど、必ずこのシーンで涙腺が緩む。人生を春夏秋冬にたとえる人は多い。『アメリカン・グラフィティ』の中で描かれた青春が夏だとするならば、そのあとには長い秋が待っている。

舞台は1962年夏、それは古き良きアメリカの終焉


夏の一瞬の煌めきを凝縮したこの映画には、1962年を生きたわけでもなく、アメリカに行ったこともない僕の思い描く青春のすべてが凝縮されている。極東の島国に住む僕らが、映画に出てくる愛すべき登場人物と同じような服を着て、彼らが好んでいる同じような音楽を聴いても決して届くことはない憧れだが、それと同時に観るたびに魂の故郷に還ってきたような郷愁が胸にこみ上げてくるのも事実だ。

1962年というのは古き良きアメリカの終焉の年だ。この年にはキューバ危機が起こり、翌年には、61年に大統領に就任したジョンF・ケネディが暗殺される。その後ベトナム戦争は泥沼化し、ヒッピーカルチャーが生まれる。音楽シーンを見ても大きく風向きが変わっていくのがわかる。50年代の終わり、一度死んだロックンロールの代わりにロッカバラードが台頭した後、ロックの時代が幕を開ける。ボブ・ディランも海の向こうのザ・ビートルズもデビューは62年だった。

60年代に入ると、ロックは政治や体制を歌にするようになっていく。一方、それ以前のロックンロールは、親や学校に対する反抗を歌にした。そこにはティーンエイジャーのリアルな姿があった。そこがロックンロールの本質であり、これをスピリットとして詰め込んだ映画が『アメリカン・グラフィティ』だ。

日本での公開は74年だが、僕がこの映画を観たのは80年代初頭、空前の50’sブームにあやかってのリバイバル上映だったと記憶している。当時、原宿のホコ天で隆盛を極めたローラーたちのラジカセからは常にアメグラのサントラが流れていたし、クラスでも何人かはこのサントラを持っていた。だから日本で本格的にヒットしたのは、リバイバルの80年代ではないだろうか。

映画に実名で登場するDJ ウルフマン・ジャック


前置きが長くなってしまったが、今回の主役は、この映画にラジオDJとして実名で登場するウルフマン・ジャック。彼のキャリアの中で最も大きな転換期となった『アメリカン・グラフィティ』について自らが書き下ろした自伝の中でこんな風に語っている。

「彼(ジョージ・ルーカス)はカリフォルニアのセントラル・バレーにある、モデストという農家の街で育った。彼の十代は、ドライブとロックンロールに夢中で、セクシーな女の子たちの尻を追いかけて過ごした日々であった。こうした思春期の夜遊びの思い出、セックスにまつわる悩み、見えない将来に直面してふるえる感情といったものを映画にしようと考えたのである」

まさに、喜怒哀楽だけでは語ることのできない、甘酸っぱさや、ヒリヒリとした痛みなど十代特有の心の揺れ方が内包された映画だ。これは、異国の僕らにとっても同じ気持ちが今も心の中に潜んでいる。このような様々な気持ちを多くのキャラクターが表現していく中、DJのウルフマン・ジャックはカーラジオから流れるロックンロールと共に出演者ひとりひとりに寄り添った狂言回し的な役どころを演じている。登場人物のひとり、13歳のオマセなキャロルはこんなことを言う。

「ママはウルフマンのラジオを聴かせてくれないの… 黒人だからって…」

この言葉通り、ウルフマンは “謎に包まれたDJ” という役柄だった。これは、リアルな世界でアメリカ全土を熱狂させたウルフマンがDJのキャリアをスタートさせた時と同じようなキャラクター設定だった。

ウルフマンのもう一つの顔、ビジネスマンとしてのボブ・スミス


ウルフマン・ジャックの本名はロバート・ウェストン・スミス(ボブ・スミス)。彼がこの稀有なキャラクターにたどり着くまでには、有能なラジオ・ビジネスマン、ボブ・スミスというもう一つの顔が不可欠だった。アメリカ国境近くメキシコの砂漠のど真ん中にあったラジオ局XERFの経営にも参画。海賊放送としてアメリカ側に電波を飛ばし、全米を熱狂させていく。

そこでは、彼が幼少の頃からフェイバリットとし、魂の救済という役割を果たしていたR&B、ソウルミュージック、ロックンロールを好んでスピンした。しかし、全米を熱狂させるまでには、舗装されていない泥濘の道を歩くような苦心があった。例えば、当時のラジオの主たる収入源だったキリスト教の説教師たちのCMを募り、ラジオ局を買収して事業を拡大するなど、夢に向かって突き進んでいった人でもある。

また、ウルフマン・ジャックというキャラクター、人格を生み出すまでに1950年代当時のホラー映画を片っ端から見て研究したという。さらに、以前はポルノ俳優だったがラジオをやるのが夢だった… という出自の設定まで綿密に作り上げていた。

こうして、破天荒でアニマリスティックなDJがグッド・ミュージックに乗せてスラングを織り交ぜたしゃべりで飛ばしまくる… だからリスナーの多くはウルフマンのことを黒人だと信じていたのだ。ウルフマン自身も、長きにわたる活動の中でブラックミュージックへの敬愛の念を根底に、多くの黒い肌のアーティストたちを、何百万という白い肌のリスナーに世界最大級のラジオ局の電波を通じて紹介してきたと自負している。

ウルフマンを通じてロックンロールにコネクトしたルーカス


アメリカン・グラフィティの冒頭は、“XERBラジオ スーパーゴールデン”というテロップから始まる。XERBとは62年当時、西海岸の限定した地区のみに電波を飛ばしていた弱小のラジオ局だ。XERFから発信していたウルフマンのショーをXERBでも同時に放送していたのだ。映画の舞台となるカリフォルニア州モデストでもこの電波をキャッチしていたというディテールがここで描かれている。

おそらくルーカス少年もこの電波をキャッチして、ウルフマンの声を聞き、多感な青春時代を過ごしたのだろう。そのリスペクトの思いが冒頭のテロップに表れていたのだと思う。当時の西海岸地区は東海岸に比べてブラックミュージックのシーンがあまり活発ではなかった。しかし、ウルフマンは伝道師として多くのリスナーを熱狂させた。大人が「聴いてはいけない」というブラックミュージックやロックンロールは、これらに熱狂するティーンエイジャーたちにとっては、“ここではない何処か” に瞬間移動できる最高の飛び道具であり、そこには心の奥に眠る無限の可能性を呼び起こしてくれる特効薬の役割もあった。

ウルフマンを通じてロックンロールにコネクトしたルーカスは、その思いを『アメリカン・グラフィティ』という映画の中に散りばめている。例えば、ファラオ団という不良チームが登場するシーンで、チームのひとりがこんなセリフを吐いた。

「卒業したらウルフマンになるんだ。やつは絶対つかまらないから」

おそらく、貧しい家庭で育ったと思われる設定の少年の台詞は、監督一作目の『THX1138』が鳴かず飛ばずの不発に終わり、背水の陣で本作の撮影に臨んだルーカスの心の声だろう。つまり、少年だった日々に聴いていたロックンロールが、ウルフマンの声が、彼を奮い立たせ『アメリカン・グラフィティ』は興行的に大成功を収め、彼は世界へと飛び立った。

日本でも放送された、FEN「ウルフマン・ジャック・ショー」


『アメリカン・グラフィティ』でその正体を明かしたウルフマンは、その後TV番組『ミッドナイト・スペシャル』の司会に抜擢され、チャック・ベリー、アレサ・フランクリン、ビーチボーイズ、スライ&ザ・ファミリーストーンといった多岐にわたるアーティストたちと親交を深め、アメリカ全土の顔となっていく。

日本においては、86年まで放送されていた『ウルフマン・ジャック・ショー』がFENでオンエアされていたので、80年代にこの声を聞き夢中になったリスナーも少なくないはずだ。もちろん僕もその一人である。

ほかにも、95年4月、TOKYO FM 開局25周年記念で、ニューヨークから東京の赤坂泰彦とダブルDJをこなし話題を呼んだ。

そんなウルフマン・ジャックの訃報を聞いたのは、この直後の7月だった。出来上がったばかりの自伝『ハブ・マーシー!』を抱え、セールスで全米を飛び回っていた最中だった。これは、人種の垣根を超え音楽で世界をひとつにした伝道師、ウルフマン・ジャックの死と同時に、彼を売り込むために一生をささげたビジネスマン、ボブ・スミスの死でもあった。

夏は終わらない、ウルフマン・ジャックと青春のひとコマ


最後に。ウルフマン・ジャックは『アメリカン・グラフィティ』の中で、独りぼっちの放送局でマイクに向かっている最中、翌朝東部へ旅立つカートが訪ねてくる場面にこんなセリフを吐く。

「外の世界は美しい。でも俺はここで、こんなもの(アイスキャンディ)をなめているんだ」

アメリカ全土、いや世界中のティーンエイジャーの青春のひとコマに欠かせない音楽をかけ続け、励まし続けたDJは実は孤独と隣り合わせだったのかもしれない。外の世界、つまり、世界中のひとりひとりの青春が描かれる場所であり、そこに寄り添うことに一生を捧げ、僕らの心の中の映像を奮い立たせる音楽をかけ続けていたのだから。

アウウウウーッ!オールライト!ベイビー!ハブ・マーシー!グッドゴーリー、ミスモーリー!ウルフマン・ジャック・ショーだぜベイベー!

映画『アメリカン・グラフィティ』の残像とともに、僕の脳裏にはいつもグッドミュージックと共にウルフマンの叫び声が鳴り響いている。この声が響いている限り僕の夏は終わらない。


参考文献
■ ハブ・マーシー! ウルフマン・ジャック自伝(ウルフマン・ジャック with パイロン・ローソン / 中央アート出版社)


2020.07.01
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