私はデビュー当時のユニコーンにまあまあ詳しい。ユニコーンのマネージャーと言えばH氏が有名だが、その前任者I氏が知人だったため、デビューにあたっての資料用インタビューなどを任されたからだ。手帳を調べたら87年の4月には会っている。
覚えているのは、パイナップル頭の奥田民生に「(有頂天の)ケラに似てますね」と言ったら「そうですね。でも僕のほうがずっといいでしょう?」という答えが返ってきたことだ。
ユニコーンの創設者は広島電機大学の先輩後輩である西川幸一と手島いさむだ。 ”売れるバンドを作ろう” と広島中のバンドをふるいにかけてメンバーを選出した際の条件は、
①ルックス
②演奏力向上の可能性
③人間性
④曲作りのセンス
それを満たしたのが堀内一史、向井美音里(88年に脱退)、そして2回目の勧誘で応じた奥田民生だった。バンド名はT・レックスの前身ティラノザウルス・レックスのアルバムタイトルからとった(当時はこんな質問にも真面目に答えてくれた)。
結成後初ライブでスカウトの声がかかり、86年のソニーSDオーディションで優秀アーティスト賞を受賞。翌87年に上京し、4月12日日比谷野音 “子供はみんなビートニク” から東京でのキャリアをスタートさせた。
ちなみにこのイベント(決してフェスなどではない)の他の出演者はデルジベット、シェイクス、A-JARI、TV、 FUZZ、千年コメッツ、パール、フェビアン、横山輝一、レピッシュ、グラスバレー、PSY・S。この翌日の13日に、六本木のカプッチョというレストランで私はインタビューをしている。
ライブハウス叩き上げではないデビュー前のユニコーンは当然無名だった。8月にエッグマンでライブを見ているが、客は確か15人もいなかったと思う。それでもステージに貼りつく熱心な女の子たちが明るい希望に見えた。当時隆盛だったビデオコンサートのおまけの無料ライブなどで少しずつ知名度を上げていく。民生とEBI(堀内)のルックスが頼みだった。
デビューアルバム『BOOM』は87年10月21日リリース。シングルを出さなかったため他のバンドにくらべて地味な印象があり、生真面目な哀愁ハードポップ路線のアルバム自体も、佳曲揃いとはいえ評価の声は高くなかった。
でも当時のキラーチューン「Maybe Blue」のイントロが連れてくる風景は確実にある。その後の音楽性の変遷によりライブでもあまりやらなくなっていったが、ツアーファイナルなど特別な場であの音階が降ってくると涙ぐむスタッフもいた。
バンドブーム元年の渦の中、一介のアイドルバンドとして片づけられそうだったユニコーン。その後のことはまた改めて。
2017.04.08
Youtube / man rock
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