奥田民生らしいユルさ全開「イージュー☆ライダー」
正直、ユニコーン時代から奥田民生という人物は、自分には苦手なタイプだった。
何故かと言われると特に明確な理由はないのだが、あの独特の肩肘張らないユルさや飄々とした掴みどころのなさが、なんとなく性に合わなかったのだ。そういえば… 奥田民生はユニコーンのメンバー阿部義晴と一緒に、ダウンタウンの『ごっつええ感じ』でのミニコーナー「民生くんとアベくん」に出演していたのだが、番組内ではかなり異質な存在で、正直スベっていたと思うので、ダウンタウン好きの自分には、ひょっとするとそれも影響しているかもしれない。
だからユニコーン時代もソロになってからも「大迷惑」など楽曲単位で好きな曲はあっても、それほど奥田民生の作品には興味がなかったのだった。それは今回取り上げる「イージュー☆ライダー」に関しても同様だ。
「イージュー☆ライダー」がリリースされたのは1996年の6月。自分が新社会人になりたての頃だった。
曲名はもちろん映画『イージー・ライダー』をもじったものだとわかるのだが、タイトルの文字は正式にはイージューの “ュ” だけが◯で囲まれているのが正しい。これは印象的なサビの部分の、
僕らは自由を 僕らの青春を
で歌われる「自由」にかけた「ジュー」を強調するためにしているんだろうな、と自分は解釈していた。
何もないな 誰もいないな 快適なスピードで
道はただ延々続く 話しながら 歌いながら
『イージー・ライダー』の一場面を思い起こさせるロードムービーのような描写であらわされる「自由」は、奥田民生らしいユルさ全開なのだが、残念ながら当時新社会人駆け出しの自分には刺さらなかった。
“イージュー” に隠された意味、そして気付いた魅力
自分は大学の社会学部で社会心理学・社会意識を専攻していた。単位ギリギリで卒業したダメ学生だったが、それでも一応は著名な社会学者の論文は少しは頭の片隅に残っていたりする。
エーリッヒ・フロムというドイツの社会心理学者がいる。彼の有名な著作に『自由からの逃走』というものがある。近代において発生した個人の自由が、いかにして権威主義とナチズムを生み出したのか… を著述したものなのだが、ダメ学生の自分なりの解釈を簡単に言うと “自由を得た人間は、やがて自由から逃れるために権威や支配を求める” ということだ。
大学時代に社会的責任を問われず、モラトリアムに自由を謳歌していた自分は、やがて社会へ出ることの不安から、就職活動を通じて会社という組織への帰属を求めていた。「イージュー☆ライダー」がリリースされた頃は、まさに自由から逃れ、社会の歯車の一員になることに必死に食らいついているタイミングだった。だから奥田民生の説く「自由」は自分には響かなかったのではないだろうか。
実は「イージュー☆ライダー」の「イージュー」とは、ドレミを表すアルファベットCDE… を用いて、数字の123… を読み替える音楽業界用語でいうところの “E10”、すなわち「30」を表しているという。そして奥田民生自身が30歳の時に作られた曲だそうだ。
たしかに自分が30代になってこの曲を聴いたとき、若いときにはわからなかったこの曲の魅力に気付かされたような気がする。
何もそんな難しい事 引き合いに出されても
知りません全然 だから
気にしないぜ とにかく行こう
気を抜いたら ちらりとわいてくる
現実の明日は やぶの中へ
30代になって、結婚をし子供もでき、会社でも責任のある仕事を任されるようになり、様々なプレッシャーや時間に追われる毎日の中になってはじめて、この歌詞におけるお気楽なスタンスに対して、ある種の憧れと夢を感じるようになった。
“真の自由” とは全てを投げうって開放することではない!
本当の「自由」というものは、単に全てを投げうって開放することではない。責任や目的の持たない「自由」は、ときに目標を失い、孤独と無力を生み、権威への服従を求めてしまうのは、前述の『自由からの逃走』での話と同じだ。
僕らは自由を 僕らは青春を
気持ちのよい汗を けして枯れない涙を
幅広い心を くだらないアイデアを
軽く笑えるユーモアを うまくやり抜く賢さを
眠らない体を すべて欲しがる欲望を
大げさに言うのならば きっと そういう事なんだろう
時には泣き、時には笑い… 様々な経験を積み重ねながら、そのスキルを自由に使いこなせるようになることが、本当の「自由」だということを、この歌詞は物語っているように思う。
1960年代の終りに「イージー・ライダー」が「真の自由とは何か?」を世に問うたのと同じように、30歳の奥田民生は「イージュー☆ライダー」を通じて、全ての30代に向けて「真の自由とは何か?」をゆる~く説いているのではないだろうか。
▶ ユニコーンのコラム一覧はこちら!
2022.05.12