1985年の米米CLUB、音楽情報誌の掲載でメジャーへの第一歩
米米CLUBとの出会いはかなり早い。ファンクラブの会員番号300番台―― と言えば、どのくらい早かったのかがわかって貰えると思う。
1985年のある日。クラスメイトのさとちゃんが、満面の笑みを浮かべながら「見て! 米米CLUBが『PATi・PATi』に載ったの!」と、3センチ四方の “切り抜き” を持ってきた。写真は小さな消しゴムくらいの大きさで、メンバーを知らなければ判別不能。派手な装いをした10人くらいのメンバーが、かろうじてわかる程度の記事だった。
でもね、影響力のある音楽情報誌に掲載されたということはメジャーへの第一歩を踏み出したことを示唆しており、その重みは中学生の私にも伝わってきた。
1984年~85年頃の米米CLUBは、ライブハウスの集客数がメンバーの数より少ないことがあったり、野音のオムニバスライブでは、客席の約8割の人が無反応だったこともあった。しかし、翌年の1986年には3,000人規模の会場で単独ライブを行うようにまで成長し、チケットは即完するようになっていた。
漫画家を目指す友人ために作った「浪漫飛行」
そんな中、てっぺいちゃん(石井竜也さん)がライブで新曲を発表した(てっぺいちゃんとは当時の彼女が付けた愛称で、ライブ中に愛称で呼ぶのはNG。“石井さん” と呼ばなければならないルールがありました)。
“漫画家を志しながらも挫折しそうになっている友人のために作った歌で、“その夢を諦めないで” という切なる想いが込められている” と。ひとりの人に宛てた曲は前例がなく、それだけで彼の想いの深さが伝わってきた。
「……… 漫画家を目指している友人に贈ります。浪漫飛行」
苦しさの裏側にあることに眼を向けて
夢をみてよ どんな時でも
そこから “逃げ出す” ことは誰にでもできることさ
あきらめという名の傘じゃ雨はしのげない
忘れないで あのときめき
一人じゃない もう一度空へ
アルバム「KOMEGUNY」収録までライブで聴けなかった
その瞬間、会場は凛とした空気に包まれた。歌詞がダイレクトに心に飛び込んでくる。なんていい曲なんだろう。心に沁みる名曲だと会場で聴いた誰もがそう感じたのではないかと思う。
米米CLUBにはライブ限定の楽曲がたくさんあった。「浪漫飛行」もまた、アルバム『KOMEGUNY』(1987年)に収録されるまでは、ライブでしか聴けない曲のひとつだった。
1990年、「浪漫飛行」がJALのCMのタイアップ曲に起用されると、ミリオンセラーの大ヒット。以降、アリーナクラスのアーティストとなり、ライブというよりもショーを観るようなステージに変わっていった。ファンにとっては少し寂しいものがあり、さとちゃんと私は新たなニューカマーを求めて小さなライブハウスに足を運ぶようになっていった。
石井竜也の寸劇が聴けた米米CLUB電話を知っているか?
そうそう、1986年といえば、リカちゃん電話ならぬ、“米米CLUB電話” があったのをご存知だろうか。 専用の番号にかけると唐突に、「琢ちゃん、琢ちゃんなの?! お母さん心配したのよぉ~!!!」と、てっぺいちゃんの寸劇が始まる。
琢(たく)ちゃんとは、米米CLUBの旧メンバー、ギターの博多めぐみの本名で、消息不明だった琢ちゃんからの連絡に、母てっぺいちゃんが語り続けるという妄想電話。なぜ琢ちゃんは失踪したのか、その後母のもとに帰ったのか、私は今もこの結末が気になって仕方がない。
※2017年4月6日に掲載された記事をアップデート
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2022.08.08