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80年代のデジタル大革命!ゼビウスの登場と細野晴臣「ビデオ・ゲーム・ミュージック」

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スペースインベーダーにたどり着くゲームセンターの歴史


また一つの時代が終わろうとしている。

家庭用ゲーム機器のハードの向上、オンラインゲームやスマートフォンの台頭―― 今回こそゲームセンターは本当にダメになるかもしれない。

だが、よくよく考えてみるとゲームセンターは数々の苦難を乗り越えて来た。そして、ゲームセンターの歴史を遡ると1978年の「スペースインベーダー」にたどり着く。

この時代に生まれていなかった方々、今現在でもゲームにあまり興味がない読者に簡単に説明しておくと… この時代のゲームセンター、並びに黎明期のゲームメーカーは相当胡散臭かったのである―― 今回、細野晴臣の話をする前にどうしてもこの話だけは避けて通れないから少し説明しておく。

1978年に巻き起こったインベーダーブームだが、製造したタイトーは海賊基板(無許可のコピーソフトみたいなもの)に悩まされる。とにかくどこのゲームセンターも「スペースインベーダー」を欲しがったが、製造が追いつかなかった。だから海賊基盤が横行したのである。

この頃、ゲームセンターのみならず、喫茶店やボーリング場、アイススケート場、温泉旅館、風俗店の待合室、違法麻雀店、違法パチンコ店、キャバレーなどにもインベーダーゲームが置かれていた。海賊基板問題のみならずグレーゾーンの業界、いやはっきり言うならば社会の裏側でもインベーダーゲームは重宝されていたわけである。

「正規の基板がないならオタクに作らせるかそこら辺の電気関係に作らせようぜ」とアウトロー集団が思ったのも頷ける。当時、プログラムだとかデジタルなんて言葉は使われていなかったわけで、その筋の人間が「電気に強いやついないか?」とか「大学生でコンピューター使えるやついないか?」などと普通に言っていた。



スペースインベーダーの時代はまだ良かった


「スペースインベーダー」によってテレビゲームは開花したと言ってもいい。しかし、新しい文化が始まる場合、大体においてエロ業者などが介入する。ゲームセンターのみならず、いわゆる遊技場の類いや欲望を満たす場所に人は集まる。当然、そこにアウトロー集団も介入してくる。これは実にナイーブな話だが、今現在、世界に名だたる国産ゲーム会社の一部にもこの時期こうした繋がりがあったと言われている。

インターネット社会を考えてみるとわかると思うが新しいモノというのは法律が追いつかないものだ。

何が言いたいかと言うと「スペースインベーダーの時代はまだ良かった」ということ。なぜならブームがゆえに普通の人もプレイしていたからだ。当時の技術者達には申し訳ないが、大したゲームじゃない。ただ、新しかったのだ。遊びとして。ブームはそう長くは続かなかった。問題はその次の時代だ。

ブームが落ち着いた頃、普通の人々はゲームから離れていったものの一部のゲーム好きはゲームに金を落とし続けた。ゲームセンターは薄暗く、外から見えないように灰色のガラスで覆われたりしていた。そして、店員もあきらかにわけあり感があり、ゲームやデジタル知識なんかなく、経営者も「無人よりはマシ」みたいな空気であった。

店員がいない店、店員がただの爺さんの店。悪い言い方をするとまともな大人が管理していない。不良少年たちが入り浸るのは当たり前で、彼らはゲームなんかにほとんど興味はなく、ヤンキー会議に励むだけだった。

「ゼビウス」の登場、そしてファミコンの発売


だが、1983年にゲーム会社のナムコ(現・バンダイナムコエンターテイメント)が奇跡を起こす。そう「ゼビウス」の登場だ。

このゲームは「スペースインベーダー」や「ギャラクシアン」の延長にあるシューティングゲームだが、以前のものとは比べ物にならないくらい革新的であった。敵機を撃つだけのゲームだが、スクロールする画面の美しさ、ストーリー性も重視され、隠しコマンドなど、新しいゲーム性が随所に散りばめられていた。

特筆すべきはゲーム上で流れる音楽である。今で言うところの、打ち込み、テクノ、ノイズミュージック。独特の無機質なサウンドにゲーマーのみならず音楽業界にも注目する人が現れた。

そして、1983年―― メガトン級の事件が起きる。そう、通称ファミコン、『ファミリーコンピュータ』の発売だ。「ゼビウス」は1983年1月からゲームセンターで稼働。ファミコン版は1984年に発売されている。ファミコンの魅力はゲームに詳しい方々に譲るとして、この「ゼビウス」のファミコン移植版発売で一部のユーザーは狂喜乱舞した。

―― そこで、細野晴臣さんである。



日本初のゲームミュージックアルバムを監修した細野晴臣


細野さんがゲーム音楽の可能性を信じていたかどうかはわからないが、なんと日本初のゲームミュージック集を監修し発売する。そのタイトルは『ビデオ・ゲーム・ミュージック』。そのまんまな気もしないではないが、これが日本初のゲームミュージックアルバムである。

そして、何が凄いかというと「ただ単にゲームの録音をしました」というアルバムではなかったということ―― ゲームの基盤から抜き出した音を自らアレンジして1枚のアルバムに収めている。この時代 YMO の人気も凄まじかったが、やはり先見の明があると言わざるを得ない。細野晴臣がいなかったらこうしたゲームミュージックのアルバム(サントラ)は今も出ていなかったかもしれない。

このアルバムが発売された当時、ゲームセンターはヤンキーのたまり場であったが、そこに新たな人種が現れた。そう、今で言うゲーオタである。ヤンキーのカツアゲに怯えつつ当時のゲーマーは何を思っていたのか? 勿論ゲームが面白いという事が第一にあるわけだが、今と違うのは意識の問題とでも言おうか。ヤンキーじゃないのにゲームセンターに行く理由… それはゲームをしつつ「未来は素晴らしいんではないか?」と無意識に思っていたことだ。

ゲームセンターの健全化にも一役買った「ビデオ・ゲーム・ミュージック」


そして、時は過ぎヤンキーは時代遅れの象徴となり、彼らの大半はゲームセンターに来なくなった。ゲーム産業は巨大化、「スペースインベーダー」の時代に比べると経営は健全化し、デートスポットとしても使える場所になった。

今やゲームのサントラもチャートの上位に登る時代―― 1984年、ゲームが新しいカルチャーであり、時代の最先端であることを、細野晴臣の『ビデオ・ゲーム・ミュージック』は教えてくれた。そしてゲームセンターの健全化にも一役買ったように思う。

さて、平成も終わり令和となった現在、当時のガキ共が日本を動かしている。皆すでにおじさんおばさんだが、かつては親の目を盗み、ゲームセンターに通い、ゲームに没頭して未来は素晴らしいモノだと信じ切っていた。「これを知っている自分達はかっこいいんだよ」と子供の頃、思っていた。

「ゼビウス」が登場した時期やファミコン黎明期にはオタクという言葉はなかったし、サブカルチャーという言葉も浸透していなかった。PTAや先生の目に親の厳しい目、そしてヤンキーのカツアゲに怯えながら、僕たちは新しいカルチャーにわくわくしていた―― 細野晴臣が落としたゲームミュージック集という爆弾は「あ、これが最先端なんだ」と一部の青少年に力を与えてくれた。

今の自分を見て、あの頃と同じ事を心に思うことがあるだろうか? 感動や驚き、未来への渇望が年齢を重ねると共に無くなっていってはいないだろうか?

だが、面白いと思える何か、感動する何かは絶対にまだまだどこかにあるはずだ。もっとドキドキしながら生きて行こうよ。


2018年8月24日に掲載された記事をアップデート

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