2nd アルバム『TAMAGO』を1986年10月にリリースした “くじら”(
『それは何のため? 80年代の海外レコーディング、その醍醐味とは。』をご参照ください)。彼らがデビュー前から創り育ててきた曲たちは、この2枚目まででほぼすべて送り出したかな。さて次は何を創る?
“できる限り余計なものを削ぎ落とす” というのが、杉林恭雄(vocal&guitar)、楠均(drums)、キオト(bass)の意志でした。3人の演奏と歌だけで音を作るのはもちろん、楽器のオーヴァーダビング(重ね録音)も必要最低限に留める。そして、曲そのものも、なるべく少ないコードで作る(笑)。まるで精進料理のようにストイックに、だけどもちろん不味いものはダメ。ちゃんと、聴いて楽しいポップミュージックじゃないと、意味がありません。
そうなると重要なのはグルーヴです。グルーヴの心地よさだけで聴いていられる音楽。ただやはり、単調になるかもしれないから、4曲入りの EP にして、それを短いタームで3枚リリース、その後、3枚分の曲を多少リメイク&リミックスして、1枚のフルアルバムにまとめよう… そんな構想がまとまりました。
ちょうどアナログレコードと CD の “端境期” で、この2つにさらにカセットもいっしょに発売していた時期でしたが、本企画は、EP のほうはアナログだけで、LP サイズの45回転、いわゆる12インチシングルと呼んでいた形にして、アルバムは逆に CD とカセットだけにすることにしました。
1987年5月に『花』、9月に『カラス』、12月に『NEON』と、EP(“セミアルバム” と称しました)をリリース。ストイックかつグルーヴィという、狙い通りのものができたと思います。杉林くんのファンキーなギターは、たとえジェイムズ・ブラウンのバックバンドのジミー・ノーレン(Jimmy Nolen)に負けてないし、キオトくんのベースはフレーズがかっこいい。そこに楠くんの人間味溢れるドラムが合わさって、今聴いてもノれる音です。スネアのリバーブがやや多過ぎますが、これは80年代全般の音作りにおける “残念ポイント” なんで。
その後、それらに収録した計12曲に、シンセサイザーや、曲によってはストリングスやホーンセクションなどを足して少々化粧直し。で、リミックスなんですが、なぜかロサンゼルスでやることになりました。
自分で決めておいて「なぜか」と言うのもなんですが、うーん、なぜそうしたのか、どうも思い出せないのです(汗)。イメージ的に考えて、前回のパリ〜ベルリンは “あり” でしょうが、ロスは違うだろー、と今の私なら思います。コーディネイターの人からいくつかエンジニアの資料をもらって、ミック・グゾウスキー(Mick Guzauski)という人がいいかなと思ったら、たまたまその人がロスにいた、ということだったように思います。
ともかく、88年の1月末から約10日間、ロサンゼルスの「Conway」というスタジオでミックスダウン作業を行ったのですが、成田から出発する際に、大失策をやらかしてしまいました。それ以前も、またそれ以降も、ここに書いたり書かなかったり、あれこれ失敗ばかりしている私ですが、この時の顛末はやはり、これまでの人生で最大の不覚でしたねー。
レコーディング済みのマルチトラックテープはアナログだったと思います。デジタルだと、アルバム全体でも2本で収まるし、テープ幅も2分の1インチと小さいのですが、アナログは1本でせいぜい2〜3曲なので、アルバムだと5本くらいになります。テープ幅は2インチ。直径約30cmですからでかくて重い。
これをキャリアーにくくりつけ、忘れないように玄関に置いて、着替えや洗面用具など出張の準備を整えて、翌朝、出かけました。成田空港まで、箱崎からリムジンバスを利用しました。バスに乗り込んで、やれやれ、あとは寝ていれば空港まで連れていってくれる。ウォークマンで音楽でも聴くか、とヘッドフォンを耳に差し込んだ時… マルチテープを持ってきていないことに気づきました!
忘れないように玄関に置いたのに、なぜ忘れるんだ?! ミックスダウンをしにいくのに、テープがなければ、単なる海外旅行じゃないか。たとえスーツケースを忘れようが、靴を履くのを忘れようが、テープだけは忘れてはならないのに、この大馬鹿野郎!! … と自分を責めても後の祭り。
問題は、リムジンバスはノンストップで成田空港まで行ってしまうということ。空港には出発時刻の約2時間前に着く予定ですが、それから取りに戻るのは明らかに無理。誰かに連絡をして持ってきてもらうにしても、ギリギリで危ういでしょう。
現代なら慌てずスマホを取り出して、でしょうが、時代は携帯電話登場以前なのです。
さあ、困った… 続きは次回。
2018.12.07