ザ・ブルーハーツのデビューアルバム『THE BLUE HEARTS』を初めて聴いたのはリリースから1年が経った1988年6月。当時僕は大学4年で就職活動を始めていた。
主語が “僕”、汚くない語尾、巻き舌ではなく聞き取り易い明瞭かつシンプルな歌詞、英語が出て来ないサビ、… 勢いのあるパンクサウンドに乗った全てがリアルだった。
… 否、こうやって言葉にするのさえ白々しい。日本語がロックに乗り辛い、なんて誰が言ってたんだ!?
同世代の日本語ロックに初めて感じた “作られていない” リアルに、僕はあっという間に夢中になった。1日何回も聴き、レンタルCDで聴き始めた2週間後にはCDを購入した。
全12曲、34分に無駄な瞬間は一瞬たりとも無かった。その中でも取り分け僕が魅かれたのが2曲め、ギタリスト真島昌利(マーシー)作の「終わらない歌」だった。この曲は僕のことを歌っている、100%とは言わずとも95%は、と23歳の僕は結構真剣に思っていたのだった。
世の中に冷たくされて
一人ボッチで泣いた夜
もうだめだと思うことは
今まで何度でもあった
高3の12月、共通一次まで1か月を切った時点で、僕の志望は父親と担任によって強引に文学部から法学部に変更された。
小説家に憧れ文学部を志望、しかしすぐには無理だろうからとりあえずテレビ局に入るという僕の拙い人生計画は、文学部は潰しが効かぬと父親に否定され、担任もこれに同調。味方は現れず僕は屈服。その晩、僕は涙に暮れた。生まれて初めての悔し涙だったかもしれない。
力及ばず僕は浪人した。社会というレールから少し外れた中、志望でもない学部を目指すモチベーションを保つのはかなりしんどかった。
真実(ホント)の瞬間はいつも
死ぬ程こわいものだから
逃げ出したくなったことは
今まで何度でもあった
法学部に行ったのだから公務員か弁護士になるべきという父の強要に耐えかね、大学2年の11月の土曜の夜、僕は父と激論の末、家を出た。
電車を乗り継ぎ今は無き東横線渋谷駅に降り立った時、自分は世の中からいよいよはみ出してしまったと思った。正直言って怖かった。でも戻ることは出来なかった。
終わらない歌を歌おう
クソッタレの世界のため
終わらない歌を歌おう
全てのクズどものために
当時僕にとって世界は間違い無くクソッタレであり、僕ははみ出してしまったクズだった。一年間、塾の講師や家庭教師等で生計を立て四畳半一間、トイレ共同、風呂無しのボロアパートで抵抗し続けた結果、僕は今テレビ局にいる。小説家にはなれていないが、ほんの少しだけものも書いている。
『THE BLUE HEARTS』が世に出た頃は正に家出の真っ最中。この時出会っていたらどれだけ励まされたことだろう。しかし就職活動中も、そして社会人になった後も、僕は自分を奮い立たせる時にはいつも『THE BLUE HEARTS』をポータブルカセットプレーヤーやポータブルCDプレーヤーで聴いた。
このアルバムは正に闘う時のサウンドトラックだった。「終わらない歌」は、本当になかなか終わらなかったのである。
ブルーハーツの「終わらない歌」を最後に生で観たのは1994年6月18日(土)の日比谷野音2デイズの1日め。これが東京で最後の「終わらない歌」となった。翌年ブルーハーツは解散。ザ・ハイロウズもザ・クロマニヨンズもブルーハーツをカヴァーしたことは無く、「終わらない歌」を生で聴かなくなってもう23年が経とうとしている。
マーシーにとっても(甲本)ヒロトにとっても「終わらない歌」は終わったのだ。そして僕にとっても終わった… はずだった。
しかし僕にとっては終わっていなかった。最近『THE BLUE HEARTS』を、「終わらない歌」を改めて聴き直しているのは35周年ということだけが理由ではない。クソッタレは未だしぶとく生き残っていたのである。
詳細はとてもではないがここには書けないのだが、カタリベ田中泰延さんが映画『ムーンライト』を評する別稿で書いていた「人生の後半は、人生の前半と和解することが大切」という言葉が重く感じられる。ここまで僕なりに懸命に和解してきたつもりだったのだが…
50代にもなって「終わらない歌」が刺さってくるというのは不幸せなのか幸せなのか。恐らくは前者なのだろう。今でも大好きな「終わらない歌」を、僕は自分の中ではきちんと終わらせなくてはなるまい。
2017.05.21
YouTube / ladrocedro
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