みんなのブルーハーツ ~vol.2 ■ THE BLUE HEARTS『終わらない歌』
作詞:真島昌利
作曲:真島昌利
編曲:THE BLUE HEARTS
発売:1987年5月21日(アルバム『THE BLUE HEARTS』)
「終わらない歌」
いよいよ、ファーストアルバム『THE BLUE HEARTS』に向かいます。この連載「みんなのブルーハーツ」は、「みんな」に向けて伝わるよう、当時の熱い思い入れをむき出しにせず、極力冷静に語りたいと思っているのですが、それでも、あのジャケットを見ると、今でも軽く興奮するという事実を白状せざるを得ません。
「ブルーハーツは、ファーストアルバムかそれ以外か」
―― この連載で今後見ていくつもりですが、もちろん、以降のアルバム、特にレコード会社移籍以降=『BUST WASTE HIP』以降の作品にも、今聴くべき名曲が多い。それでも、作品性とは別の次元で、ブルーハーツのファーストアルバムは別格的輝きを持っています。
輝かせるのは―― はちきれんばかりの初期衝動。
余計なコーティングを施すことなく、「恐るべき子供たち」の初期衝動を、素材感そのままに産地直送、冷凍保存したこと。だから、CDをトレイに乗せたら、たちまち瞬間解凍、はちきれんばかりの初期衝動が、スピーカーから一気に溢れ出てくる感覚――。
前回の『1985』が甲本ヒロトの作詞作曲だったので、今回は真島昌利作品を選びます。アルバムの#2:『終わらない歌』。ファーストアルバムの冒頭2曲、タッグを組んで攻めてくる『未来は僕等の手の中』『終わらない歌』は、両方とも真島昌利の手によるもの。
まず注目したいのは、歌い出し「♪終わらない歌を歌おう」です。よく聴いてみてください。続く「♪クソッタレの世界のため」や「♪全てのクズ共のために」も含めた一連のフレーズが、耳馴染みがよく、スーッと入ってくる。結果、本当に終わらない、永遠に続いていく感じがするのは、私だけでしょうか。
この連載では、主に歌詞について見ていくつもりですが、歌詞を包み込むサウンド面についても、折に触れて見ていきたいとも思っています(これまでの「ブルーハーツ本」の多くが、歌詞だけをうっとりと語っているものが多かったので)。なぜスーッと入ってくるのか。その1つのヒントはコード進行にあります。
何と驚くべきことに、この曲の歌い出しは主要3和音しか使っていない。この曲、キーはA(イ長調)なのですが、分かりやすくするためにC(ハ長調)に移調すると、【C】(ドミソ)・【F】(ドファラ)・【G】(シレソ)という3和音。それも「【C】→【F】→【G】→【C】」という、音楽の教科書で習うような、ある意味もっともシンプルなコード進行で作られています(しかし曲の中盤「♪もうだめだと思うことは」でやっと【Am】や【Dm】が少しだけ出てきます)。
また、そんなシンプルなコード進行に乗るメロディの符割りも、
「♪おわらないうたを・うたおうー・くそったれのせか・いのためー」
「タタタタタタタタ・タタタター・タタタタタタタタ・タタタター」
―― と8分音符がひたすら並ぶシンプルさ。さらに驚くべきは、メロディの音使いが、
「ミミミミミミミレ・ドドレドー・レレレレレレレレ・ドドレミー」
―― と、何と言いましょうか童謡、いや童謡よりもシンプルで、かつドからミという、異常なほどに狭い音域で作られていることです。
ブルーハーツの多くの曲の特徴として、コード進行や符割りがシンプルで、結果、童謡的、唱歌的に聴こえてくるという点があります。『終わらない歌』の歌い出しもその典型。というか、少なくともこの曲については、童謡、唱歌よりもシンプルと言えます。
「♪終わらない歌を歌おう クソッタレの世界のため」という一連のフレーズは、先の “はちきれんばかりの初期衝動” を不可分なく表現しています。そしてサウンド面も、恐ろしいほどにシンプルなコードとリズム、メロディによって、初期衝動をありのままに盛り立てる。
言わば、砂糖も塩もガーリックも振りかけず、初期衝動を素材感そのままに産地直送、冷凍保存してCDに詰め込まれている(ここでは述べませんが、レコーディングやミキシングも、この考え方に沿った素晴らしいものです)。結果として、CDをトレイに乗せた瞬間、はちきれんばかりの初期衝動が、スピーカーから一気に溢れ出る。
だから『終わらない歌』は終わらないのです。永遠に続いていくのです。令和の世にも。
「クソッタレの世界のため」「全てのクズ共のために」
「終わらない歌を歌おう」に続く2つのフレーズは、この曲が、ひいては(当時の)ブルーハーツの曲が届けられるオーディエンス、つまりはターゲットを表しています。
この「クソッタレ」「クズ共」とほぼ同義語と考えられるのが、次回見る予定の『リンダリンダ』の中で使われ、彼らの一種の代名詞という感じで取り扱われた「ドブネズミ」なのですが。
当時、自分自身を「クソッタレ」「クズ共」の一員だと思いながら、つまりこの5文字・3文字に自分を投影しながら、『終わらない歌』を聴いていたと記憶しています。
では、「クソッタレ」「クズ共」と対立する、つまり成功者は誰だと、私は設定していたのか。それは「DCブランドを着たFDG」です。このフレーズ、さすがに説明が要りますね。
「DCブランド」とは「デザイナーズ&キャラクターブランド」のことで、要するに80年代後半に流行った有名ブランドのファッションです。典型例で言えば、男性は肩パットの入ったジャケット、女性は「ワンレン・ボディコン」(こちらも説明が必要かも)。今から考えると、80年代は日本の若者が抜群に小ぎれいだった時代でした。
「FDG」は、さらに死語、完全な死語ですね。当時雑誌『POPEYE』が流行らそうとして、ほとんど流行らなかった言葉で、読みは「エフデジェ」。「将来を約束された上流階級」的な意味ですって。
おしゃれして、クルマに乗って、ディスコにいって、きれいな女性を抱く―― そんな「FDG=上流階級」が、この東京のどこかにいるらしい。
そんな「DCブランドを着たFDG」という存在が、仮想敵としてしっかりとあった。だから「クソッタレ」「クズ共」という言葉に共感しやすかったのです。そして「ファーストアルバムの歌詞カードを持って立ってた」。
そんなことを思い出しながら、考えるのは令和の世のことです。繰り返しになりますが、これだけ格差社会と言われているのに、なぜ「クソッタレ」「クズ共」のためと宣言する音楽が聴こえてこないのだろうということ。
―― じゃあいま、なんの対立があるかっていうと、金持ちと貧困の対立。格差がどんどん広がってる。だから、そういうことに気づかないといけない。自分が何に属しているのか。逆に何にも属さない自分とか。
この言葉の主は、他ならぬ松本隆(山下賢二『喫茶店で松本隆さんから聞いたこと』2021年 夏葉社)。逆に言えば「自分が何に属しているのか」=自分が「クソッタレ」で「クズ共」かもしれないという、ある意味での帰属意識が薄くなっている。
『終わらない歌』は終わらないのです。永遠に続いていく、としても、この曲が規定するターゲットの概念の変容、つまり「クソッタレ」「クズ共」の消失も、平成の間に長く続いてきたと思うのです。
「・・・・あつかいされた日々」
「クソッタレ」「クズ共」に続く極めつけが、クライマックスのところで出てくる、このフレーズ。
歌詞カード上「・・・・」と記されている4文字は、いわゆる放送禁止用語の1つ=「き・・い」です。そのためか、この部分だけが、聴こえにくい音量でミックスされています(ので、私はラジオで一度かけました)。
話は変わりますが、数年前、ある30代の女性と話していて、「オヤジたちが、ブルーハーツの話で、やたらと盛り上がっているのを見るのイタい」と言われた経験があります。
言われる理由は、何となく分かるのです。そして、この発言自体が、連載「みんなのブルーハーツ」を始めることを決意した、1つの逆説的な契機となっているのですが。
たぶん、くだんの30代女性は、「クソッタレ」「クズ共」「・・・・」を熱唱するオヤジが苦手なのでしょう。自分たちを「クソッタレ」「クズ共」「・・・・」と規定した青春を思い出して、エモーショナルになるオヤジが苦手なのでしょう。
「クソッタレ」「クズ共」「・・・・」を歌う歌が、なぜ時代遅れのイタいものとなってしまったのか。答えが簡単に出ないことを知りつつ、いくつか仮説を述べてみます。
1つ。ロックをやることが、異端な行いではなくなってしまったこと。
「・・・・」と連なるのは、セカンドアルバム『YOUNG AND PRETTY』収録の、『ロクデナシⅡ(ギター弾きに部屋は無し)』です(こちらも真島昌利作品)。「♪ギター弾きに貸す部屋はねえ」「♪ロクデナシに貸す部屋はねえ」と歌われるこの曲は、当時のロッカー、バンドマンが、不動産屋から「ロクデナシあつかい」「・・・・あつかい」されていたことを不可分なく表しています。
それが今や、いかにもおっとりとした普通の高校生が、ギターを担いで通学しています。軽音楽部は、コーラス部や野球部などと並ぶ健全な部活動の1つ(この事実を否定的に思ってはいません。どちらかと言えば歓迎しています)。
不動産屋も、「ギター弾き」だからといって部屋を貸さないなんてことは、もうないはずです。だから「・・・・あつかい」というリアリティが生まれてこないのではないか。
ですが、さらに大きな理由と思われるのは、仮想敵、つまり「上」、当時の私に、群として見えていた「DCブランドを着たFDG」のような煙たい存在が見えないからではないか。格差社会というけれど、成功者の方のイメージが、群として視認できないほどに、小さく薄くなっているからではないか。
もっといえば、格差社会の「上」=一部の成功者といえど、バリバリギラギラの金持ちではなく、昭和における「中流」程度の人たちで、その他大多数が「下」というアンバランスな構造になってしまった。つまりは平均値がググッと下がってしまった。
どこにいるんだ、成功した奴って? だから、音楽家もオーディエンスも憤っていない、憤る理由がつかめない、のかもしれない――。
「あのオヤジ、なんで『・・・・あつかいされた日々』なんて泣きながら歌ってるんだろう。結局は、バブルのいい時代を経験してきたくせに。イタいなぁ」
この連載が続く限り、この問いは繰り返されていくことでしょう。ただ1つ確信するのは、令和の時代にも「・・・・あつかい」されている若者は絶対にいる。だから、表現や音楽性は変われど、そういう視点を持った、そういう曲、そういうバンドが、いずれ必ず出てくるだろうということです。
だって、「未来は彼等の手の中」なのですから――で、次回は、あの『リンダリンダ』を。
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2022.10.22