来日&取材を通じて知ったビリー・ジョエルの素顔
CBS・ソニー洋楽ディレクター時代、私が直接担当したビリー・ジョエルの作品は、『ナイロン・カーテン』から始まって、『イノセント・マン』『ビリー・ザ・ベスト』『ザ・ブリッジ』『コンツェルト ライヴ・イン・U.S.S.R.』『ストーム・フロント』といった、まさに80年代の作品です。
そう、私の現場経験の中で、最も多くの作品に係わっていたアーティストがビリー・ジョエルなのです。実際、来日公演の回数も数多く、アメリカ取材などでも5〜6回接点がありました。今回は、来日&取材を通じて知った “ビリー・ジョエルの素顔” について語ってみたいと思います。
ビリーが市ヶ谷のCBS・ソニー本社にやってきた
一番古いエピソードですが、彼の人柄を表す出来事がありました。多分1979年の2回目の来日公演の出来事だったと思います。この頃、私はメディア担当の宣伝マンです。ビリーが市ヶ谷のCBS・ソニー本社に、仲間をひとり連れてブラッと立ち寄ってくれました。受付から洋楽部門に社内電話が入ります。
「いま玄関にビリーさんが、いらっしゃってます」
「嘘だろ…!?」
私が下まで迎えに行くと... ジーンズにTシャツ、ジャイアンツの帽子をかぶった悪ガキ風の2人が立っています。そもそも洋楽アーティストが取材でもないのにノーアポで会社に遊びに来るなんてことは前代未聞。しかもスーパースターのビリー・ジョエルが… です。とりあえず洋楽フロアに案内するしかありません。
社員たちも最初はどう接していいか分からず、遠巻きに見つめるしかなかったのですが、1人が拍手を始めると、一気に盛り上がり大喝采! ビリーの音楽を流すと、ちょっとしたライブ会場のようでした。彼もご機嫌で手を振ってみんなに応えます。
部長席でお茶目さ全開、そして始まった大サイン会
このフロアには、アーティストをもてなす部屋もなく、打ち合わせの席ぐらいしかありません。ビリーは茶目っ気を出して、ちょうど不在だった部長席に自ら座りました。全体を見渡せる偉そうな位置ですから、誰の目からも明らかに、そういう立場だと分かる席です。デスクに足を乗せて踏ん反りかえって、目があった社員をつかまえては、「お前はクビだ!」とか指さして遊んでいます。彼はそういう “やんちゃ” なキャラクターなのです。そうこうしているうちに、
「ただいま洋楽フロアにビリー・ジョエルさんがいらしてます」
―― と社内放送まで入り、全フロアから物見遊山の社員たちが集まり大サイン会が始まりました。当時、『ストレンジャー』『ニューヨーク52番街』と立て続けにミリオン越えを記録しているビリーでしたが、いやな顔ひとつ見せず、1人1人にサインして楽しんでいました。突然会社に来て驚かせようとする、この茶目っ気とサービス精神で、社員たちはますますビリーのファンになりました。
芸能界的なものを毛嫌いしていた理由とは?
普段の彼はこういうキャラですが、仕事となると全く違う考えを持っていました。取材の依頼には、なかなか “YES” と言ってくれませんし、日本からのリクエストに対しては、新譜発売時に取材1本だけとか、そのくらいの厳しさでした。特に写真撮影には全く聞く耳を持たない印象です。
当時はステージ写真に関して報道扱いで、各メディアがそれぞれ撮った写真を許諾の必要なく自由に使えます。しかし、スタジオ撮影となると話は別。ダメ元で毎回交渉していましたが、取り付く島もないほどです。取材時のスナップ写真はOKでしたが、グラビアページ、広告、ポスター、パンフレットのために新しい写真を撮りたくても時間はくれません。CBSから各国にサプライされるオフィシャル写真を待つしかありませんでした。
これは、ショービジネス的なもの、いかにも芸能界的なものを毛嫌いしていたビリーならではの考え方で、自分がフォトジェニックでないことを知った上での対応だったのです。
「自分はロックンローラーで音楽家だから、作品を聴いてくれ。俳優じゃないし、顔写真は重要じゃないだろ」
―― というのが彼の本音。よくギャグっぽく「俺はバリー・マニロウじゃないぞ」と何度も言っていました。バリー・マニロウは、ビリーと同じピアノ系のシンガーソングライターですが、小綺麗に着飾ってポーズを決めるような感じで、全くロック色はありません。ビリーからしたら、色々な意味で対局にいた人ということになるのだと思います。
自分に正直なビリー・ジョエル、作品に織り込まれた自身の心境
私の知るビリー・ジョエルは、自分に正直な人でした。その作品には、時々の自身の心境が織り込まれています。
例えば、前妻との人生感のズレを感じて「素顔のままで」や「オネスティ」を歌いました。またアルバム『グラス・ハウス』のジャケット写真では、成功のシンボルであるガラスの家に、すべてをぶち壊すかのように自らの手で石を投げつけています。離婚が決定的になった頃は、自身がバイク事故で入院しているシリアスな状況と、べトナム戦争後遺症に悩むアメリカの社会問題を絡めて『ナイロン・カーテン』という骨太なメッセージアルバムを作りました。
そして、アルバム『イノセント・マン』制作の頃は、当代きっての人気モデル、クリスティ・ブリンクリーと付き合い始めて大有頂天。このときの喜びが、あれほどポップで楽しいアルバムを作らせたのです。惚れまくった彼女の前では、ビリーも心から無垢な子供のように “イノセント” になれたはずです。その心境がそのままアルバムの内容となり、タイトルにも繋がっています。
このアルバム発売直前にNYで一度だけ取材がありました。もちろん、その場にはマネージメントスタッフと共に、恋人のクリスティもアテンドしました。私もそうですが、CBSのスタッフもビリーそっちのけでテンションがあがっていて、クリスティとのツーショット写真を撮りまくっていました(あの当時、それほど人気がありました)。その彼女と結婚した時に、ビリーはこんな名言を残しています。
「自分のように背が低くて不格好な男でも、こんな美人を妻にできた、ということは全米の同じような男に勇気を与えた」
彼は「アップタウン・ガール」のミュージックビデオに彼女を出演させたり、アルバムには「君はクリスティ」という曲まで作って収録。この出会いがどれだけ大きなものだったのかが分かるでしょう。
ビリー・ジョエルから松田聖子に、驚きの提案!
さて、ここで日本に話を戻します。来日時、こちらからのオモテナシのスケールも、このクラスになると、SONY大賀会長主催のディナーになります。場所は、数寄屋橋ソニービルの地下にあった最高級レストラン、”マキシム・ド・パリ” 。あれは1984年の来日時でしたバンド&スタッフ全員、そしてもちろんクリスティも同席した大ディナーが開催されたのです。
この場で、日本国内でもアルバムセールス累計500万枚越えという記念に5プラチナディスクを贈呈したりと最大級のホスピタリティを行いました。もちろんビリーはご満悦です。そして、この席には、ゲストとして国内制作部から松田聖子さんもアテンドしていました。CBS・ソニー洋邦のモストセリング・アーティストが同席したというわけです。
ビリーとしては、ホスピタリティのお返しの意味だったと思いますが、目の前に座っている聖子さんに対して、「明日の夜は空いてないか?」と訊ねるのです。近くにいた私も武道館ライブへの招待かと思ったのですが、それだけではありませんでした。
そして翌日のライブ「あの娘にアタック」の前に、ビリーから紹介された1人の女性が登場します。ドームと違ってモニタースクリーンがないので、会場の大部分の観客はそれが誰なのかよくわかりません。曲が終わり、あらためてビリーから「SEIKO MATSUDA」の紹介に、会場がどよめきました!
つまり、ビリーは前日のディナーで彼女に「ステージに上がって1曲コーラスをやらないか」と誘っていたのです。その場にいた我々一同も驚きましたが、その経緯が分からず、ライブ会場に来ていた観客にしてみれば、戸惑いは大きかったに違いありません。
1982年当時のビリーのテーマソングは「マイ・ライフ」
さて、最後にもうひとつ、ビリー・ジョエルらしい最たるエピソードを。
モデルでの活躍のみならず絵本や詩集、健康本まで出版しているクリスティ。ビリーに対する健康管理に彼女は一生懸命でしたし、ビリーの彼女への応え方も並々ならぬものがありました。大好きな肉はウェイトのために控え気味でしたし、ヘヴィスモーカーだったビリーも、観念して禁煙していました。
でも、ここからがビリー・ジョエルです。ディナーで彼女が席を外した時が最高でした。隣に座っていた仲間に、「くれくれ」と言ってステーキ肉を頬張り、猛烈な勢いでタバコ吸ってました。そして「うまいなぁ」…と、ひと言。
可愛いキャラクターでしょう?
言うなれば、ビリーは自分に正直なヘソ曲がり野郎です。やんちゃなワンパク坊主で子供じみたところもあります。ちなみに、当時の彼のテーマソングは『ニューヨーク52番街』からのシングル「マイ・ライフ」―― 時間があるときに、このエピソードを思い浮かべながら歌詞をよく読んでみてください。彼の性格や人生観がよく分かるはずですから。
*2019年1月2日、5月9日、2021年5月30日、2023年5月30日に掲載された記事をアップデート
特集:ビリー・ジョエル
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2024.01.18