やる気を出して何かに取り組む時、僕はコーヒーをあえてゆっくり淹れることにしている。
そんな時「コーヒーに合う音楽とはなんだろう」などと考えていたら、浮かんできたのがスザンヌ・ヴェガの名曲「トムズ・ダイナー」だった。我ながらベタな選曲と苦笑いしてしまうが、この曲ほどコーヒーのふくよかな苦味をより豊かにしてくれる曲もないだろう。
この曲が本当にコーヒーのCMに使われていたことを知った時には「やはりこの曲でなければ!」などと思わず膝を打ってしまった。
僕がこの曲に出会ったのは高校生の頃。英語のリスニングテストにこの美しいアカペラの曲が使われたのだ。なんとも言えない憂いを持った響きに感動して、タワーレコードで彼女のアルバム『孤独(ひとり)』を買いに行った思い出がある。
まずこの邦題が素晴らしい。「孤独」と書いて「ひとり」と読ませる。その寂しさの情感はアルバム全体を覆っており、スザンヌ・ヴェガの立ち位置を明確に示していると感じる。同時にそれは彼女の一面に過ぎないとも思っている。
原題は “Solitude Standing”。素晴らしい題だ。“Solitude” と言うと病的な孤立という意味合いの強い “Isolation” でもなく、またただ淋しい受け身の孤独感という “Loneliness” とも違う響きがある。
“Solitude” という英単語を分解すると「一人の〜」という接頭辞 “solo” と「〜である状態」という名刺を作る接尾辞 “itude” に分かれる。そこから、「ただひとりである状態」という語感が生まれる。“Loneliness” にあった受け身の寂寞の情もなく「ひとりでいること」。
そしてそのあとに「立っていること」を意味する “Standing” がくる。つまり直訳すると「ひとりのただずまい」ということになろうか。ブルース・ウィリスのアクション映画に『ラストマン・スタンディング』というものがあるが、それに似た堂々たる風格がある気もする。ここにスザンヌのプライドのようなものを感じる。
それは「ひとりでいること」に対する自信、矜持であろう。詩人は常に孤独であらねばならぬ、と言ったのはヘッセかリルケか忘れてしまったが、彼女はその意味で「詩人の血」を “Solitude Standing” という言葉で受け継いでいるように感じる。
「ひとりでいる」ということはなぜ詩人にとって大切なのか。それは想像力を十全に働かせることのできる環境が「ひとりでいること」に他ならないからだ。
詩人はひとりの時、街の音を聴き街を観る。朝のダイナーでコーヒーを飲む風景も詩人=スザンヌにとっては一つのドラマになる。そして特に「トムズ・ダイナー」の詩をドラマチックにしているのは “pretend” という単語だろう。
詩人は窓の外でキスするカップルを見て、あたかもそれを見ていないかのように振る舞う、= “pretending” している。見ないように振る舞うことによって逆説的に詩人が感じた切なさがかえって強調される。
「振る舞うこと」。これは詩的な想像力の賜物であり、彼女の曲「ルカ」を名曲にしている要素でもある。詩人=スザンヌはルカという家庭内暴力を受ける男の子を「振る舞い」彼になりきっている。
夜な夜な聴こえる上の階からの虐待の騒音。ルカは「何が起こってるかは聞かないでね」と何回も口にする。ルカはそこで強い男の子であるかのように「振舞って」いるのだ。
しかしその振る舞いこそが切なさの根源である。悲しみをストレートに表現するのではなく、あえて逆に強がり「振る舞う」。そんなルカの話は叙情的なメロディーにぴったりなのだ。
それはスザンヌ・ヴェガが詩・語りの技巧を知悉していた証拠であろう。そして僕はコーヒーを味わいながらこの偉大な詩人の魅力に取り憑かれ、やるべきことを打ちやってアルバムを聴き入ってしまうのだった。
2018.02.09
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