昔から愛人ソングとか、小悪魔ソングとか、お色気ソングというのは一定の需要があって、古くは奥村チヨとか大信田礼子がそういうのを引き受けていた。
しかし80年代に入ると、そういった曲はアナクロニズムとして音楽シーンの中ではキワモノ扱いされることになった。以前にこのコラムでも取り上げた『後ろから前から』なんて曲はその典型である。
ところがどっこい、愛人ソングの遺伝子は意外な形で再び花を咲かせるのである。ちょうど貸レコード屋の元祖「黎紅堂」(レイコードー)が首都圏の駅周辺にポツポツ出始めた80年代前半に、店頭のオススメ盤の棚にその女は現われた。
小川眞由美を痩せぎすにしたような、上まぶたが長くて眠たそうな、いかにも愛人顔の女が、ソフトフォーカス掛かりすぎの画面の中からこっちを向いてるのである。しかもシンガー・ソングライターだという女の名は、門あさ美。
楽曲的には優れていた。フォーク・ニューミュージックの系譜に連なる都会的なコード進行。ときに筒美京平を思わせるストリングスアレンジ、あるいは当時はやりの西海岸 TOTO 風サウンド。少し鼻にかかった声でため息まじりに歌われる詞の世界は、キャンディコートした中から女のどす黒い欲望が流れ出るみたいな内容。
それまでの愛人ソングが、いかにもな小唄とか都々逸とかムード歌謡みたいなのしか無かったのだから、それは新鮮だった。今でいうなら、音楽の衣装をまとった橋本マナミみたいな… 週刊ポストの妄想愛人グラビアの需要を音楽でマーケティングしたという感じ。
アルバムがオリコン TOP10 に入るぐらいレコードセールスが有ったにもかかわらず、極度にメディア露出を控えた戦略をとり(深夜テレビで放送されたイメージビデオの合間に一瞬はさまれたトークも、何だかぎこちなかった)、いつの間にすーっと消えてしまったところも日陰の女っぽい。
かつての愛人ソングは中高年のオジさんだけが嗜好するものだったのを、妄想まっさかりの学生や若いサラリーマンにまで拡大させた彼女は、何と罪深い女であることよ。時代と添い寝した女、ってのは言い過ぎか。
だが、いつの時代も、女の敵は女である。たまたま聴いた FM東京 の番組で、石川優子(♫ ナツ・ナツ・ナツ・ナツ・ココナーツの人ね)が、門あさ美の新譜を紹介しながら「曲はさておき、歌詞の中身がブランドで身を固めたお嬢さんみたいで現実味がない」と、真っ向から批判していた。
とりすました女の仮面を剥いだのが、同業者でまったくタイプの違う女だったというのが、実に面白かった。あのころの女性たちが門あさ美をどう思っていたのか、バブル世代のご婦人方にきいてみたいものである。
※2016年2月8日に掲載された記事をアップデート
2018.10.17
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