2018年11月25日は、竹内まりや・デビュー40周年の記念日である。 今月18日には初のファンミーティングを開催。21日はデビューアルバム『BEGINNING』のリマスタリング発売。22日はTOKYO-FMで『竹内まりや 40thアニバーサリー1DAY スペシャル』を放送。23日には過去のステージの記録映像を映画化した『souvenir the movie』が劇場公開された。 この1週間は、さしずめ “竹内まりや アニバーサリーウイーク” であった。そして今日25日は NHK-FM で『今日は一日 “竹内まりや” 三昧』と題した6時間特番が放送される。なお彼女の出演時間は未定というから、それは裏番組『山下達郎のサンデー・ソングブック』への配慮だろうか。 「三昧」というからには、きっとこの曲についても番組で語られるはずである。リクエストともなれば必ず上位に挙がる曲であり、彼女の新境地を開いたといえる作品。デビューから10年目、1987年11月28日にリリースされた「駅」は、彼女がそれまで歌ってきたどの楽曲よりも悲哀を帯びた、リアリティを感じるものであった。 「竹内まりやって、元々こんな曲も書くんだ…」というのが第一印象。元々と思ったのは、それまでの彼女のヒット曲は他人の作品が多かったからで、休養期間を経て、それまで書きためた自身のオリジナル作品だけで作り上げたアルバム『VARIETY』をリリースした時には、まだこのような雰囲気の楽曲は無かった。しかし、この後に続く「シングル・アゲイン」「告白」と続くにつれ、その印象は確信となり、次第にファン層も男性よりも曲のテーマに共感する女性層に傾いていったように思う。 その予兆は「駅」がリリースされる前年1986年、竹内まりやがソングライターとして、中森明菜のアルバム制作に寄せて作品を提供したことにもあった。「駅」はその中の一曲として収録されていたのだ。 中森明菜『CRIMSON』では、絶唱型の彼女のスタイルを封印する試みが為されており、全体的に落ち着いた印象の楽曲ばかりを集めた意欲作として、世間的には一定の評価を受けている。85年、86年とレコード大賞を2年連続獲得し、キャリアの絶頂期にあった中森明菜にとっては、どんな試みも容認されたことだろう。正直言ってそのうち5曲もが竹内まりやから提供されたものであることには、当時あまり気に留めなかった。 アルバム自体がコンセプチュアルなものだったから、多くのリスナーは「駅」という作品を単なる収録曲の一つとしてしか、認識しなかったのではないだろうか。しかし翌87年7月、同曲が収められた竹内まりやのオリジナルアルバム『REQUEST』は大ヒット。そのセルフカバーは、シングル「After Years / 駅」として多くの人々の知るところとなった。 … とまあ、提供された歌手よりもセルフカバーの方が評判になるということ自体は、決して珍しい話ではないが、1994年ムーン・レーベル移籍後のベストアルバム『Impressions』のライナーノートで、プロデューサーである山下達郎の記述が一部のリスナーの間で物議を醸した。 彼は「駅」について、収録までのいきさつを披露する中で、この楽曲を提供した「さるアイドル・シンガー」の曲の解釈を問題視し、自ら録り直したいという想いから、レコ-ディングを渋る竹内まりやを口説いてセルフカバーにこぎつけたことを公表したのである。 「さるアイドル・シンガー」とは、もちろん中森明菜を指していることになるが、結果的にセルフカバーの意図が、言うなれば当て擦りとも受け取られかねない事実を吐露したようなものである。竹内まりやが収録を渋った理由は「歌謡曲的なアプローチが自分のイメージではない」ということだったらしいが、本音は違ったのではないか。 シンガーソングライターがセルフカバーを行う際には、オリジナルのリリースから数年を経ることが多い。世間の評判が決まった後に、自らの意図を加えて新しい風を吹き込む… 尾崎亜美やユーミン、中島みゆきなど大御所たちの作品は、ほぼこのプロセスを経ている。他人に提供した楽曲は、嫁に出したようなものと考えればこその気遣いもあるはずだ。 さて達郎氏が述べた「解釈の違い」とは何だろうか。直接的には「歌詞」の読み違いということになるのだろうが、よく云われているのは『私だけ 愛してたことも』の解釈が分岐になっているという説である。つまり「私」だけが「あなた」を愛していたのか、それとも「私」だけを「あなた」が愛してくれていたのか、格助詞が省かれた歌詞によって生じた誤解の可能性である。 前者であれば「ふられた方」が女性で、後者であればその逆である。歌唱スタイルから中森明菜の解釈はおそらく前者であろうと推測できるが、少なくとも受ける印象はそうである。弱々しくか細い声で歌われる「駅」には捨てられた女性の哀愁が漂っているようだ。 歌詞の中で描かれる苦い思い出、あふれる涙、あなたがいなくても元気でやっていると、さりげなく伝えたかったという強がった部分からはそういった心情が伝わってくる。 一方で竹内まりやが歌う「駅」の場合は、後者として凛とした女性像が思い浮かぶ。うつむく横顔や哀しげな後姿を見つめる視線には、むしろ「あなた」に対する哀れみすら感じることができる。かつて誤解もあったかもしれないが、私だけ愛してたということは、時を経た今なら理解できる。だから自ら別れを告げて去ったことは、自分にとっても苦い思い出なのである。 楽曲に描かれる世界、それをリスナーにいかに誤解なく伝えられるかは表現者の技量にかかっている。そういう意味では、違いはあれ自らの解釈を伝えようとした明菜の技量が低いということではないだろう。 アルバム『CRIMSON』には、竹内まりやから「約束」という楽曲も提供されている。彼女のオリジナル曲に「告白」という作品があるが、これらが対になる作品ということを、やはり『Impressions』のライナーノートの中で山下達郎が明かしている。 ―― 共に電話の呼び出し音の SE から始まるこの2曲のうち「約束」は「女性から男性への未練」、「告白」は「男性から女性への未練」が歌われているということだ。するとこのような仮説が考えられはしないだろうか。「駅」は「約束」と共にふられ女のバラードとして確信犯的に曲解され、『CRIMSON』ならびに中森明菜のキャラクター作りに利用されてしまった。達郎氏はおそらくそのことに憤慨しているのではないだろうか。「さるアイドル・シンガー」というのは、制作陣を含んだ概念であって特定の人物を指しているわけではないというのが、私の個人的な見解なのだが、いかがだろうか。 果たして「駅」は、その登場感も手伝って竹内まりやの代表曲となった。楽曲が描く情景を明瞭な言葉で、淡々と歌い上げるスタイルは、かえって明菜版とは対照的に毅然とした強さのようなものを感じさせる。 私にはもう一つ、元彼との偶然の出会いを歌ったものとして記憶に残る楽曲がある。「駅」の20年後、2007年にリリースされた安室奈美恵「Baby Don’t Cry」(作詞・作曲:Nao'ymt)だ。 「駅」は別れから2年後、「Baby Don’t Cry」は3年後、見覚えのあるレインコートと青いTシャツとでは、設定も季節感も異なるが、歌詞の内容で着目したいのは、彼のまなざしや私の髪と変わるものばかりに目がいく「駅」に対し、彼の笑顔、いつもと同じ空と変わらないものばかりを見つめる「Baby Don’t Cry」との心境の違いだ。 一般に女性の場合、別れの直後はひどく落ち込むものの、男性に比べると、長く尾を引くことは少ないと云われている。両者とも未来に前向きであることに変わりはないのだが、現実に向き合い、乗り越える強さ、雨上がりの情景に希望を感じさせるのが「駅」という曲の世界観。一方、普遍的なものに思いを託して、やや現実逃避しながら、努めて自然体でいようとしているのが「Baby Don’t Cry」の主人公であるように思える。 20年を経て描かれる女性像には時代性も反映されていることだろう。やはりここで際立つのは竹内まりやが描き出す、慈愛に満ちた眼差しと自立した女性の強さだ。 ―― それはおそらく竹内まりやが自分の意志で切り開いてきたアーティストとしての矜持にも通じており、40年のキャリアもおそらくそうして築き上げてきたものに違いない。
2018.11.25
VIDEO
YouTube / Warner Music Japan
Information