EPICソニー名曲列伝 vol.1
ばんばひろふみ『SACHIKO』
作詞:小泉長一郎
作曲:馬場章幸
編曲:大村雅朗
発売:1979年9月21日
売上枚数:75.1万枚
記念すべき EPICソニー初の大ヒット。80年代を席巻する EPICソニーの屋台骨となった1曲。
発売自体は79年の9月なのだが、火が付くのに少々の時間がかかったようで、TBS『ザ・ベストテン』の初登場は、暮れも押し迫った12月6日。そして翌80年の1月10日に、最高位2位にまでのぼりつめた。ちなみにその回のランキング。
1位:久保田早紀『異邦人』
2位:ばんばひろふみ『SACHIKO』
3位:五木ひろし『おまえとふたり』
4位:クリスタルキング『大都会』
5位:郷ひろみ『マイ レディー』
6位:敏いとうとハッピー&ブルー『よせばいいのに』
7位:サザンオールスターズ『C調言葉に御用心』
8位:ゴダイゴ『ホーリー&ブライト』
9位:ツイスト『SOPPO』
10位:甲斐バンド『安奈』
しかし、あの80年代ポップス色の強い EPICソニーのこけら落としとして、この曲は一見、とても似つかわしくない。あの「バンバン」出身のばんばひろふみの曲で、「♪ 不幸せ 数えたら 両手でも足りない」という歌詞なのだから、70年代フォーク色がぷんぷんである。
ただ、よく考えたら、バンバンの『「いちご白書」をもう一度』はユーミン(荒井由実)の作詞作曲。なので、いわゆるフォークに比べてメロディは垢抜けているし、また「大学で学生運動をした後に、就職のために髪を切る」という内容は、フォークの時代を客観視したフォーク、言わば「メタ・フォーク」である。
つまり、ばんばひろふみという人は、フォーク畑から出てきたにもかかわらず「純粋フォークシンガー」とは言い難いところがあった。そして洋楽にもかなり精通していた。大阪出身の私は当時、関西の人気ラジオ番組だった MBS『ヤングタウン』で聞いた、ばんばのトーキング・ヘッズ論に感心した記憶がある。
そのせいか、この『SACHIKO』も、フォーク的な歌詞の背後に、垢抜けたポップス性が横溢している。
まずは馬場章幸(ばんばひろふみのペンネーム)によるメロディ。メジャーセブンスや分数コードを多用したコード進行に、「♪ SACHIKO 思い通りに」のところのビリー・ジョエル『HONESTY』風フレーズ、「♪ それが悲しい 恋でもいい」の「恋でもい」の「ソ#」連打、「♪ 笑い方も 忘れた時は」の後のクリシェなど、ポップスとしての工夫が十分に凝らされている。
しかしそれよりも、この曲の印象をポップにするのはアレンジである。編曲家のクレジットを見てほしい―― 大村雅朗。
近年、再評価の気運が高まっている大村雅朗だが、世間でよく語られる大村雅朗論(私のそれを含む)は往々にして、80年代の作品についてのものである。しかし私は、実は78~79年頃の大村作品を愛する者でもある。
この時代の大村作品の特徴は、アコースティックピアノの多用。この『SACHIKO』に加えて、大村雅朗が編曲を手がけた同年のヒット=岸田智史『きみの朝』、永井龍雲『道標(しるべ)ない旅』は、いずれも、跳ね回るようにアレンジされたピアノが曲の印象を決定づけている(参考:
「スージー鈴木の極私的大村雅朗ヒストリー(その1)」)。
80年代にはシンセサイザーや打ち込みを多用するようになる大村雅朗だが、78~79年頃の大村作品では、そのシンセの部分を、アコースティックピアノに託している感じがするのだが、どうだろう。
ばんばひろふみによる EPICソニー初の大ヒットは、大村雅朗 ✕ EPICソニー初の大ヒットでもあった。そして、その後の大村は、EPICソニーにとって、あまりにも重要な音楽家たちと絡んでいく―― 佐野元春、大沢誉志幸、大江千里、渡辺美里、小室哲哉、岡村靖幸――。
つまり、大村雅朗とは、EPICソニーの「影の番長」のような存在、言い換えれば「EPICソニーの背骨」だった。そのあたりを、この連載ではしっかりと追っていきたい。
ばんばひろふみが火をつけた、80年代 EPICソニー大爆発への導火線。その導火線は、大村雅朗の編曲で跳ね回るアコースティックピアノのピアノ線で出来ていた。
2019.03.12