6月1日

川島なお美と「ミスDJリクエストパレード」空前の女子大生ブームの先駆け!

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女子大生ブームの発端は宮崎美子、そして「ミスDJリクエストパレード」


1980年代初頭に訪れた、いわゆる “女子大生ブーム” の発端となったのは、宮崎美子が恥じらいながらジーパンを脱いで水着になるミノルタのCMだろう。

篠山紀信の撮影で女子大生たちが表紙を飾っていた『週刊朝日』に彼女が登場したのは80年1月のこと。それを見て殺到したグラビアモデルのオファーは断ったそうだが、CMは春休みにサイパンへ行けるという理由で引き受けたらしい。CMソングに起用された斉藤哲夫の「いまのキミはピカピカに光って」も6月にリリースされてヒットした。

そんな宮崎美子の人気がなければ生まれなかったであろうラジオ番組が、1981年10月にスタートした文化放送の『ミスDJリクエストパレード』である。

パーソナリティは加藤エミ、川島なお美、千倉真理、川口雅代、小林寛子


深夜放送の歴史を築いた名番組『セイ!ヤング』の後番組としてのスタートという高いハードルを乗り越えて1985年3月まで続く人気番組となったのは、女子大生を中心としたパーソナリティーの顔ぶれに尽きる。開始時は月曜が加藤エミ、火曜が川島なお美、水曜が千倉真理、木曜が川口雅代、そして金曜が局アナの小林寛子という布陣であった。

番組のコンテストで優勝した成城大学の千倉真理は2シーズン目から金曜に移り、1984年3月までパーソナリティーを務めた番組の顔だったが、個人的には木曜の川口雅代も気になっていた。同時期に『2年B組仙八先生』で宮崎美子の後継でマドンナも務めたシンガソングライターで当時は日大藝術学部に在学していた。ミスDJを一年足らずで卒業した後は幅広く活躍し、現在はニューヨーク在住のジャーナリストとのこと。

そんな中で、やはり自分が一番よく聴いていたのは、火曜日を担当していた青山学院大学の川島なお美だった。

女子大生ブームは「オールナイトフジ」からじゃない!


女子大生ブームに拍車をかけたのは1983年4月にスタートしたフジテレビ『オールナイトフジ』であろうが、川島はその直前まで『ミスDJ』のパーソナリティーを務めており、後釜は熊本大学で宮崎美子の後輩にあたる斉藤慶子となった(こうして随所に名前が出てくる宮崎美子の存在感はやはり凄い)。

川島は人気を高めていた1982年に中京テレビ『お笑いマンガ道場』のレギュラーとなる。数多く殺到していたであろうテレビ番組の中からなぜこの仕事を? と思ってしまったが、そういえば彼女は名古屋の出身なのであった。前任が秋ひとみだったというのも非常にシブい。

自分が川島なお美のことを認識したのは『ミスDJ』(1981年)でも『お笑いマンガ道場』(1982年)でもなく、アシスタントを務めていた『アイ・アイゲーム』(1979年)だった。司会の山城新伍が発した “チョメチョメ” 発祥の番組。内容も面白かったが、時折画面に映る川島見たさにチャンネルを合わせていた(古い表現!)憶えがある。とにかく可愛かったのだ。

1979年、「シャンペン No.5」で歌手デビューした川島なお美


当然の如く音楽業界のおじさまたちの目にも留まっていて、1979年4月にはキャニオンレコード(現・ポニーキャニオン)から「シャンペン No.5」で歌手デビューも果たしていた。同じ年に石野真子へ「ジュリーがライバル」を供した幸耕平が作曲している。

川島より少し早く、1月にキャニオンからデビューしていた能瀬慶子の第2弾シングル「裸足でヤング ラブ」と同月のリリースということで、両曲をプッシュしたプロモーションオンリーの12インチ盤も作られた。

キャニオンからはシングル1枚のみで、歌手・川島なお美の活躍は東芝EMI(現・ユニバーサルミュージック)に移ってからになる。1981年5月にエキスプレスレーベルから「ハネムーン」を出した後、本格的な取組みは1982年3月の「愛しのマンドリーノ」からといっていいだろう。

通算4枚目のシングルにあたる「ラヴ・ミー・タイト」はラジオでもよくかかっており、一聴して好きになった曲だった。ちょっと甘える感じの彼女の声の魅力が最大限に活かされていたと思う。さらに次のシングル「Ash Wednesday」は杉真理の作曲とアレンジで、ハート型のレコードという趣向が凝らされていた。東芝時代には計7枚のシングルを出している。

シティポップ感満載、アルバム「SO LONG」は杉真理プロデュース


アルバムの数も少なくない。1982年6月のファーストアルバム『ハロー!』ではオリジナルのほかにユーミンの「12月の雨」や「ルージュの伝言」をカヴァーするなど、当時の女子大生の音楽ニーズに沿った選曲が成されていた。

セカンドアルバムの『SO LONG』は杉真理のプロデュースにより、「ゼミナールは車の中で」など、キャンパスライフを題材にした作品が多く、川島の等身大の魅力が描かれている。

1983年のサードアルバム『シャワーのあとで』も林哲司や村田和人の作曲によりシティポップ感が濃く、最も売れたアルバムでもある。その後も4枚、計7枚に及ぶアルバムを出しており、特に後期の作品は今後もっと評価されていいところではないだろうか。

川島なお美には自身最大の売り上げを記録したシングル「GEMINI」にまつわる最大の謎があるのだが、それはまた別の稿にて!


※2020年11月10日に掲載された記事をアップデート

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2022.04.21
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カタリベ
1965年生まれ
鈴木啓之
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