当たり前のようにあった、映画の“濡れ場”
思えば、昭和の時代―― 映画ともなれば、女優は有名無名に関わらず普通に脱いでいた。例えば、1980年代だけでも――
・烏丸せつこ『四季・奈津子』(1980年)
・浅野温子『スローなブギにしてくれ』(1981年)
・杉田かおる『青春の門・自立編』(1982年)
・小林聡美『転校生』(1982年)
・田中裕子『ザ・レイプ』(1982年)
・田中美佐子『ダイアモンドは傷つかない』(1982年)
・いしだあゆみ『野獣刑事』(1982年)
・松坂慶子『蒲田行進曲』(1982年)
・小柳ルミ子『白蛇抄』(1983年)
・早乙女愛『女猫』(1983年)
・藤谷美和子『海燕ジョーの奇跡』(1984年)
・古手川祐子『春の鐘』(1985年)
・今井美樹『犬死にせしもの』(1986年)
・黒木瞳『化身』(1986年)
・原田貴和子『彼のオートバイ、彼女の島』(1986年)
・高樹沙耶『沙耶のいる透視図』(1986年)
・七瀬なつみ『桜の樹の下で』(1989年)
―― とまぁ、これはほんの一例。当時の邦画は濡れ場が当たり前であり、文芸作品ともなれば、その打率は更に上がった。“作品のため”―― それが女優を脱がす、監督の口説き文句だった。女優もまた、その言葉を自らに言い聞かせて撮影に臨んだ。
それにしても、1982年の “脱ぎ” の多さよ。ちなみに、にっかつロマンポルノで当時話題になった、可愛かずみの『セーラー服色情飼育』も、小森みちこの『あんねの子守唄』も、82年である。一体、82年に何があった!? そしてーー今回取り上げる女優もまた、この年、スクリーンで大胆な濡れ場を演じている。
夏目雅子が惹かれた、ソフィア・ローレン演じる強い意志を持つヒロイン
女優の名は、夏目雅子。奇しくも39年前の今日―― 1985年9月11日に若くして天国へ旅立った伝説の女優である。享年27。思えば、彼女はそのセンセーショナルな登場からして、脱ぐことをいとわない、極めて現代的な女優だった。
本名、小達雅子。1957年、六本木で輸入雑貨商を営む家庭の長女に生まれた。横浜にある実家は元モービル石油日本支社社長の旧邸宅で、敷地は250坪もあったという。そんな裕福な家庭で、雅子は名門・東京女学館の小学校からエスカレーター式に中学・高校、そして短大へと進学する。
だが、実は彼女には心に秘めた夢があった。それは―― 女優。高校時代に出会った1本のイタリア映画『ひまわり』で、雅子はソフィア・ローレン演じる、強い意志を持つヒロイン、ジョバンナに惹かれ、女優という職業に憧れを抱いたのだ。間もなく、彼女は短大を中退する。

諦めかけた女優業、救ったのは伊集院静
1976年、雅子は日本テレビ・愛のサスペンス劇場『愛が見えますか…』のオーディションに応募する。486人の中から見事ヒロインの座を射止め、本名名義で女優デビュー。しかし、その役は強盗殺人事件を目撃しながら、失明するヒロインという難役。彼女はNGを連発して周囲から “お嬢さん芸” と揶揄され、一度は女優業を諦めかける。
そんな窮地の彼女を救ったのが、1本のCMだった。翌77年に放映された、カネボウ化粧品の夏のキャンペーン「Oh!クッキーフェイス」である。CMディレクターを務めたのは、この仕事で出会い、後に彼女の夫となる伊集院静氏だった。
He calls me cookie face
He loves my cookie face
Spending the summer days with his cookie face
We'll, I'm his cookie cookie coo-coo-cookie face
それは、イギリスのディスコクイーン、ティナ・チャールズが歌うダンサブルなナンバーに乗せ、カメラがチュニジアのスカイブルーの海に浮かぶ黄色のフロートマットに横たわる水着姿の一人の女性にズームインするというもの。続いて、アップになったカメラが女性の小麦色の肌をなめるようにパンすると、ビキニの紐がほどかれた胸元が露わに――。
これが大評判になった。
Re:minderのカタリベでもある大野茂教授(@0onos)のコラムによると、いわゆる『資生堂 vs カネボウ CMソング戦争』が始まるのが、まさにこの1977年である。春は口紅、夏はファンデーション、秋はアイシャドウを売る戦略のもと、キャンペーンコピーをCMソングのタイトルや歌詞に入れるタイアップが図られた80年前後の “黄金の6年間”―― 数々の名曲や、新人モデルたちがスポットライトを浴びた。
CMソング「Oh!クッキーフェイス」の日本語カバーもリリース
そんな時代の幕開けを飾った1人が、手ブラで微笑む褐色の夏目雅子だった。CMのオンエア前、小達雅子は夏のCMに合わせて、芸名を夏目雅子に改める。ちなみに、同CMにカメラアシスタントとして参加したのが、彼女の死から17年後、ダンボ耳のお茶目な表紙の『夏目雅子写真集 HIMAWARI』を発表する写真家の田川清美氏である。彼の写した同CMのオフショットには、トップレスで砂浜を走る笑顔の夏目雅子の姿もあった――。
かくして、夏目雅子は一躍時代のアイコンになった。
ショートカット、褐色の肌、胸元を露わにした大胆なショット―― それは、1975年に国連が国際婦人年を宣言し、女性の時代が叫ばれる中で登場したニューヒロインだった。余談だが、先のCMソング「Oh!クッキーフェイス」の日本版カバーを歌ったのも夏目雅子だが、後にも先にも彼女が生前に出したレコードはそれ一枚。故人に免じて、その深追いは控えよう。

ドラマ「西遊記」に出演。シルクロードブームに乗って大ヒット
さて―― 件のCMの翌年の1978年10月、彼女はある歴史的ドラマに起用される。日本テレビ系の『西遊記』である。同局の開局25周年記念番組として企画・制作された大作で、折からのシルクロードブームも相まってドラマは大ヒット。最終回は視聴率27.4%と、裏のNHK大河ドラマ『草燃える』に0.2ポイントまで迫った。
ヒットの要因は、堺正章(孫悟空)、西田敏行(猪八戒)、岸部シロー(沙悟浄)らの掛け合いで純粋にコメディとして面白かったのと、オープニングとエンディングを担当したゴダイゴのブレイクだった。一躍アイドル化したゴダイゴは翌年、『ザ・ベストテン』にほぼ毎週のように出演する。
加えて―― 男性である三蔵法師に女優の夏目雅子を当てた大胆なキャスティングも話題になった。新人女優の丸坊主姿は評判となり、彼女の神々しい存在感が、ともすればコメディに偏りがちな同ドラマのバランスを保ったのは言うまでもない。もっとも、他の仕事の関係で実際に髪を剃ることはなく、カツラの着用となったが、劇中で時おり見せるその凛々しい頭は、またもお茶の間の人々の瞼に深く刻まれた。ある意味―― それも “脱ぐ” 演技の1つだった。
ちなみに、同ドラマ以降、日本でリメイクされる『西遊記』で三蔵法師を演じるのは、1993年の宮沢りえ(日本テレビ版)、1994年の牧瀬里穂(日本テレビ版)、2006年の深津絵里(フジテレビ版)――と、女優がテッパンになった。これだけでも、“夏目雅子=三蔵法師” が残したインパクトの大きさが分かるというもの。
ⓒ日本テレビ
NHKドラマ、原作にないオリジナルの役で出演
1980年、夏目雅子は前代未聞の爪あとを残す。かの松本清張の『空の城』を原作とする、NHKドラマ『ザ・商社』への出演である。演出は奇才・和田勉。物語は実際に起きた総合商社・安宅産業の破綻をモデルにしたもので、十三代片岡仁左衛門をはじめ、主演の山崎努に中村玉緒、佐分利信、加藤治子らそうそうたるベテラン役者が揃う中、新進気鋭のピアニストのヒロインを演じたのが夏目雅子だった。
実は当初、彼女は端役の予定だった。しかし、リハーサル前の和田勉との何気ないやりとりから一転、ヒロインへの起用が決まる。しかも原作にはない、オリジナルの役である。伝説のシーンは第3話のラスト1分を切ってからだった。山崎努演じる主人公・上杉二郎が泊まる部屋の扉がノックされる。開けると、夏目雅子演じるピアニスト・松山真紀が立っている。彼女は部屋に入り、上杉の前でバスローブをはだける。画面には一糸まとわぬ上半身――。
断っておくが、NHKのゴールデンタイムに放送されたドラマである。件のシーンは21時9分ごろ。家族揃ってテレビを見る時間帯だ。いくら80年代に女優が映画で脱ぎまくったからと言って、こちらはテレビ。まさか、そこまでやるとは、お茶の間は予想もしていなかった。そんな攻めの演出が効いたのか、同ドラマで和田監督はエランドール協会賞を受賞する。
ⓒNHK
宮尾登美子原作、女性視点で描かれた「鬼龍院花子の生涯」
さて、そろそろあの話をしないといけない。冒頭でも触れた、夏目雅子が大胆な濡れ場を演じた1982年の映画―― そう、東映の『鬼龍院花子の生涯』である。
原作:宮尾登美子、監督:五社英雄、主演:仲代達矢、ヒロイン:夏目雅子――。その映画は、全てが異例尽くしだった。
かつて任侠映画で一世を風靡した東映だったが、80年代の映画界は女性客を求めており、同社が得意な任侠の世界を舞台としつつ、女性視点で描かれた宮尾登美子の原作に光が当たった。彼女にとって、初の映像化作品となった。
監督の五社英雄は当時、銃刀法違反で逮捕され、フジテレビを依願退職するなどトラブル続きだった。一時は自殺まで考えたが、フジの鹿内春雄社長の口添えもあって東映の岡田茂社長から直々に声がかかり、同映画の監督が決まった。
主演の仲代達矢は黒澤組で東宝作品への出演が多く、それまで東映とはほとんど縁がなかった。白羽の矢が立ったのは、任侠映画で東映生え抜きの役者が出ると、かつての男臭い東映ヤクザ映画のように見られ、女性客が入らないとプロデューサーが危惧したからだった。
そして――ヒロインの夏目雅子が演じたのは鬼龍院花子ではなかった(じゃあ誰なんだ鬼龍院花子⁉)。
ヒロインに抜擢。流行語にもなった「なめたら、なめたらいかんぜよ!」
実のところ、まだ女優歴の浅い夏目雅子をヒロインに抜擢するのは、東映内で不安視する声が多かったという。だが、先の和田勉演出のNHKドラマ『ザ・商社』のヌードシーンを覚えていた五社監督の強い推薦もあり、最終的に岡田茂社長も了承した。
もっとも、公開前、映画『鬼龍院花子の生涯』は東映内でもほとんど期待する声がなかった。しかし―― いざふたを開けると、女性客も大入りの大ヒット。最大の功績は、仲代達也演ずる政五郎の養女・松恵を演じた夏目雅子の迫真の演技だった。ドスのきいた名台詞 “なめたら、なめたらいかんぜよ!” は流行語となり、当初、代役を立てる予定だった濡れ場も自ら志願して、堂々のヌードを披露。かつて “お嬢さん芸" と揶揄された面影はどこにもなかった。
同映画の成功は、関係者に様々な恩恵をもたらした。
東映は “女性任侠・文芸路線” という新たな鉱脈を掘り当て、80年代後半、ドル箱の『極道の妻たちシリーズ』を生み出した。宮尾登美子は一躍流行作家となり、多くの作品が映像化された。五社英雄監督は完全復活し、80年代、大監督への道を歩んだ。仲代達矢は同映画以降、東映作品にも数多く出演するようになり、芸域を広げた。
ⓒ東映
急性骨髄性白血病で早逝「夏目雅子ひまわり基金」に受け継がれた遺志
そして―― 夏目雅子。同映画でブルーリボン賞を受賞した彼女は、一躍トップ女優となった。1984年にはかねてより交際中の作家の伊集院静氏と結婚して、鎌倉に移り住んだ。仕事もプライベートも、彼女は幸せ絶頂の中にあった。
だが、幸福な時間は長くは続かない。翌85年2月、雅子は、渋谷・西武劇場(当時)で公演中の初主演舞台『愚かな女』の会期を折り返した中日の夜、体調を崩して慶応病院に緊急入院する。診断結果は、急性骨髄性白血病。長い闘病生活に入った。
入院中、抗がん剤の副作用で、女優にとって大切な髪が抜けることを心配する家族に、彼女はかつて出演したドラマを引き合いに出して、笑顔でこう返したという。
「私、日本で一番坊主頭が似合う女優って言われてるのよ」
入院から7ヶ月後の1985年9月11日、夏目雅子は27年の生涯を閉じた。デビューから9年。思えば、女優として自身の全てをさらけだすことで、観客を魅了してきたその姿は、彼女が憧れたソフィア・ローレンと、どこか重なる。
夏目雅子が残した4千万円の遺産をもとに、脱毛に悩むがんや白血病患者にウィッグを無償貸与する「夏目雅子ひまわり基金」が設立されたのは、彼女の死から8年後の1993年12月である。
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2024.09.11