今も日本の音楽シーンをリードする矢沢永吉
2022年、デビュー50周年を迎える矢沢永吉。新国立競技場ライブを含むツアーを展開するなど、今も日本の音楽シーンをリードしているパワーは素晴らしいものがある。
矢沢永吉がキャロルでデビューしたのが1972年、リーゼントにスリムな革ジャンというスタイルで1950~60年代のロカビリーや初期ビートルズに通じる楽曲をワイルドに演奏し歌う姿は魅力十分だった。
キャロルがユニークだったのは、この時代のロックバンドとしては珍しく、テレビを効果的に使ったことだと思う。当時、フォークやロックなどの新しい音楽の流れをリードしていったアーティストには、制約が多く思うようなパフォーマンスがやりにくいテレビ出演を嫌う傾向があった。
しかしキャロルは、『リブ・ヤング!』(フジテレビ系)『ぎんざNOW!』(TBS系)など、中高生に人気の生番組に積極的に出演してアピールしていった。キャロルのビジュアルはインパクト十分だったし、その演奏も視聴者には新鮮に映った。そして、彼らのレパートリーのほとんどが2~3分というコンパクトなサイズになっていたことも、テレビとの相性を良くしていたポイントだったんじゃないかと思う。
1970年代に存在した様々なロックスタイル
けれど、キャロルの音楽があの時代において完全に独創的なものだったかというと、必ずしもそうではなかったと思う。1970年代前半は、日本ではフォークの時代とされていて脚光を浴びることは少なかったにせよ、ハードロック、プログレッシブロック、グラムロック、ブルースなど、さまざまなスタイルのロックバンドが名乗りを上げていた時代でもあった。
そうした日本のロックムーブメントのお手本となっていたのが、新しい音楽ムーブメントで時代を切り拓いていったアメリカだったけれど、60年代の終りからアメリカでロックンロールリバイバルともいうべき動きが生まれていた。
その象徴ともなったのが1969年に結成されたシャ・ナ・ナだ。メンバーはニューヨークのコロムビア大学の学生で、1950年代のオールディーズナンバーを主なレパートリーに、ダンスパーティのようなショーアップされたステージを展開した。
彼らはコミックグループと見る人もいたが、1969年のウッドストックフェスティバルにも出演するなど、この時代の音楽シーンの一翼を担う存在として認知されていく。ちなみに、シャ・ナ・ナは長寿グループとして現在も活動している。
オールディーズ… ロックのルーツとしてリスペクトすべき音楽
さらに1971年にはミュージカル『グリース』がヒット、1973年には映画『アメリカン・グラフィティ』がヒットするなど、オールディーズが大きな脚光を浴びることとなった。
この背景には、ベトナム戦争の真っただ中で、いつ徴兵され戦地に送られるかわからないアメリカの若者にとって、青春の輝きの象徴としてオールディーズを見直すという心情があったという気がする。リアルなメッセージソングや感情を刺激するロックとともに、オールディーズもこの時代の若者の心情を託す音楽として存在していたのだと思う。
オールディーズのアメリカでの再評価の動きは日本にも影響を与えていった。少なくともオールディーズは単に古臭いだけではなく、現在のロックのルーツとしてリスペクトすべき音楽だという認識をもっていたアーティストも少なからずいた。はっぴいえんどのような革新的バンドでも、エルヴィス・プレスリーやエヴァリー・ブラザーズの見事なカバーをライブで披露することも珍しくなかった。
だから、キャロルが登場した時に、僕のように違和感を感じることなく受け入れることができた音楽ファンは、けっして少なくなかったんじゃないかと思う。
当時、さまざまなロックグループが自分たちなりのやり方で“同時代”のリアルを表現しようとしていた。キャロルは、オールディーズスタイルのロックンロールという形を選んで同じことを表現しようとしていたのだと感じ、シンパシーも抱いていた。もちろん、彼らに理屈抜きのカッコよさもあったことも言うまでもない。
西のファニ・カン、東のキャロル
当時のミュージックシーンでキャロルが “孤高” の存在ではなかったと僕が感じていたのは、本人たちが意識していたかどうかは別として、ライバルと見なされる存在があったからだ。それがキャロルと同じ年にデビューしたファニー・カンパニーだった。「西のファニ・カン、東のキャロル」と言われたファニー・カンパニーのヴォーカリスト、桑名正博と矢沢永吉のヴォーカルを聴き比べるのもとても興味深かった。
少なくともキャロルは、ナツメロとしてオールディーズを演奏するバンドではなく、あの時代の日本の若者のリアルを真剣に追求するコンテンポラリーなバンドだった。そのリアルをうまく伝えることができていたからこそ、彼らは熱狂的なファンを集めることができたし、社会派ジャーナリズムやメディアに注目されることになったとも言えると思う。
だからこそ、1975年にキャロルが解散して矢沢永吉が最初のソロアルバム『I LOVE YOU,OK』を発表した時に賛否両論が沸き起こったことも理解できる。
自分たちが日常に抱えていた鬱屈した想いをキャロルに託していたファンが、『I LOVE YOU,OK』の矢沢永吉が“軟弱になった”と感じたとしても無理はないと思う。
確かにキャロル時代の荒削りな演奏ではなく、ストリングスまでを駆使した洗練されたアンサンブルに乗せて歌い上げるそのヴォーカルからは、今までとは違う表情を感じることができる。
キャロル解散、矢沢永吉ソロデビューへ
キャロルの解散からソロデビューに際して、矢沢永吉はきわめて慎重にプランを立てたという。“キャロルと同じことをしても意味はない。ソロアーティストとしての自分をいかに打ち出すか”というテーマにそって、あえてレコード会社も移籍し、レコーディングもアメリカで行ったということにも、新たな方向性を打ち出そうとする意欲が感じられる。
けれど、僕はこのアルバムを聴いた時に、アーティストとしての矢沢永吉の本質は変わっていないと思った。18歳の時に書いたという「アイ・ラヴ・ユー、OK」をはじめ全曲が矢沢永吉の作曲ということも、キャロル時代とほとんど変わらない。
変わった点は、キャロルでは作詞の多くをジョニー大倉が手掛けていたのを、まったく新しい3人の作詞家を起用していること。ソロアーティストとしての矢沢永吉のカラーを確立するために、この変化が大きな役割を果たしていたのではないだろうか。
ジョニー大倉と矢沢永吉との共作のベクトルがキャロルという世界をつくりあげるためにあったとすれば、『I LOVE YOU,OK』以降の作品では、作詞家がそれぞれのスタンスから矢沢永吉のイマジネーションにフォーカスしていくことになる。その意味でも、相沢行夫、松本 隆、そして西岡恭蔵という作詞家の人選はとても興味深い。
「セクシー・キャット」「雨のハイウェイ」「アイ・ラヴ・ユー、OK」など7曲を提供している相沢行夫は矢沢のバックバンドメンバーであり、このアルバムが作詞家としてのデビュー作。後にNOBODYを結成し多くのアーティストに楽曲を提供していく。
「安物の時計」「サブウェイ特急」の2曲を提供している松本隆ははっぴいえんどを解散して以降、チューリップの「夏色の思い出」、アグネス・チャンの「ポケットいっぱいの秘密」などで新進作詞家として注目されはじめたタイミングだった。
矢沢永吉最高のプレゼンテーションを果たしたアルバム「I LOVE YOU,OK」
個人的にもっとも興味をそそられたのが、「ライフ・イズ・ヴェイン」「奴はデビル」など3曲の詞を西岡恭蔵が提供していたことだ。
名曲「プカプカ」をはじめとする情感豊かな楽曲で知られるフォーク系シンガーソングライターである西岡恭蔵が、作詞家として矢沢永吉の作品を提供している。この事実だけで、ソロアーティストとして矢沢永吉が目指しているものが、単なるキャロル第二章ではないことが伝わってきた。
事実、矢沢永吉と西岡恭蔵とのコラボレーションはこのアルバムだけにとどまらず、トータルで30曲もの印象的な楽曲を残している。
『I LOVE YOU,OK』を初めて聴いた時、確かにキャロルとは違うと感じた。しかし、それはネガティブな感想ではない。
オールディーズテイストのロックンロールの中に、同時代のリアルを表現するというコンセプトは変わらない。けれど、キャロルという枠を外したことにより、矢沢永吉というアーティストの豊かなロマンティシズム、そしてその声から滲み出てくる色気が、よりピュアで濃厚なものとして伝わってくるという印象で、このアルバムは当時の僕の愛聴盤の一枚になった。
今、改めて聴くと、未熟だなと思える部分もある。けれど、このアルバムから現在まで、確かに一貫して繋がっているものがあると感じられるのだ。
その意味でも『I LOVE YOU,OK』は、ソロアーティスト矢沢永吉の最高のプレゼンテーションと言えるアルバムだったと思う。
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2022.08.27