結成50周年! 日本最古の現役ロックバンド、センチメンタル・シティ・ロマンス
2023年、センチメンタル・シティ・ロマンスは結成50周年を迎えるとともに、日本最古の現役ロックバンドという称号をさらに更新することになった。
センチメンタル・シティ・ロマンスが結成されたのは1973年のこと。名古屋で活動していたシアンクレールというバンドに、やはり、名古屋出身ながら東京で活動していたギタリストの告井延隆がリーダー的ポジションで加わることでこのバンドとなった。告井以外のメンバーは、中野督夫(ギター)、細井豊(キーボード)、加藤文敏(ベース)、田中毅(ドラムス)だった。
当時、僕はシアンクレールのことは知らなかったけれど、告井延隆は乱魔堂のステージを通して知っていた。乱魔堂はブルースマンバンドを渡り歩いてきたギタリストの洪栄龍、ボーカリストの松吉久雄らによって1971年に東京で結成されたロックバンド。
ブルースロックを基調としながらも、多彩な音楽性を取り込み日本語ロックの可能性にトライした姿勢も面白かったし、ボーカルもカッコよくて好きなバンドのひとつだった。ライブもよく見に行っていたが、バンドの正式メンバーではなかったが、さまざまな楽器を鮮やかに弾きこなす告井延隆のクールなプレイも印象的で、ステージの見どころのひとつになっていた。
乱魔堂は1973年に解散してしまい活動は短命だった。けれど『乱魔堂』というアルバムをはじめ、音源も少しは残ってはいるので、いつか再評価されることがあれば嬉しいと思う。
そんな経緯があったので、センチメンタル・シティ・ロマンスについては告井延隆がいるバンドということで個人的に親しみを感じていた。
名古屋から日本ならではのロックを創出しようとする動き
センチメンタル・シティ・ロマンスは、名古屋ならではのロックシーン創出を目指したバンドだった。そしてそのバックボーンには、1960年代末から70年代初めのカントリーロックやウエストコーストサウンドへのオマージュ、そしてはっぴいえんどなどの日本ならではのロックを創出しようとする動きへのシンパシーが見えると感じられた。
彼らは広々とした濃尾平野にウエストコーストを重ね、大都会名古屋をロサンゼルスになぞらえることで、彼らなりの夢とリアリティを託した日常のファンタジーを描いていった。
彼らは曲の中に名古屋弁を入れ込んだり、地名を入れ込んだりもしていくが、それは単なるローカリズムを主張する表現ではなく、はっぴいえんどが自分たちの住む東京をイマジネーションによって “風街” へと昇華させたように、名古屋に住む彼らならではのアイデンティティを託した新たな表現の試みだったのだと思う。
センチメンタル・シティ・ロマンスの存在は、日本のロックにアプローチしようとしていたミュージシャンや、そうした活動を支持する音楽ファンにはかなり早くから知られていった。もちろんあくまでもマイナーシーンでの出来事ではあったけれど、東京で実績がある告井延隆がメンバーにいることもプラスに働いたのか、彼らを仲間として受け入れようとする動きが自然にあったという気がする。
センチメンタル・シティ・ロマンスも頻繁に名古屋以外でもライブを行い、各地のアーティストとも積極的に交流していく。同じ頃に活動を開始したシュガー・ベイブとも、池袋の小劇場シアターグリーンで開催されたシリーズライブ『ホーボーズコンサート』やライブハウスなどでの対バンスタイルでの共演も多く、ライブ活動を通じて意気投合していった。
余談になるけれど、ファーストアルバム『センチメンタル・シティ・ロマンス』リリース後、ドラムの田中毅がグループを脱退した時に、後任として元シュガー・ベイブの野口明彦が参加しているのも彼らの縁のひとつなのだと思う。
“日本のロック” というテーマをさらにリアリティあるものとして表現
1973年にはっぴいえんどが解散し、彼らが提示した “日本のロックの可能性” をどう発展させていくかという課題を、さまざまなバンドがそれぞれの切り口で引き継いでいった。センチメンタル・シティ・ロマンスは、その “日本のロック” というテーマをさらにリアリティあるものとして表現するために、自分たちの地元におけるライフスタイルに根差した音楽アプローチをおこなっていく。
同じ頃、関西では上田正樹とサウス・トゥ・サウス、ウエストロード・ブルース・バンドなど、ブルース、R&Bが大きなムーブメントとなっていた。さらに、石川県小松市をベースとするめんたんぴん、神戸のアイドルワイルド・サウスなど骨太のサザンロック・テイストをもったバンドも活躍するなど、東京以外で独自のカラーをもったグループがそれぞれの活動を広げていった。
こうした動きに注目した音楽メディアが “地方の時代” と言い始めたのもちょうどこの頃だった。
そのなかで、センチメンタル・シティ・ロマンスは東海地方を代表するバンドとして取り上げられ、名古屋=ウエストコースト的なイメージも生まれていった。
センチメンタル・シティ・ロマンス=ウエストコースト・イメージを裏打ちする作品
1975年にCBSソニーからリリースされたセンチメンタル・シティ・ロマンスのファーストアルバム『センチメンタル・シティ・ロマンス』は、まさにセンチメンタル・シティ・ロマンス=ウエストコーストイメージを裏打ちする作品と言っていいだろう。
アルバム制作にあたってバンド側から細野晴臣にアルバムのプロデュースをして欲しいという要望が出され、実際に細野はレコーディング現場に同席した。しかし、この作品に自分が手を入れるべきではない、との判断から、プロデューサーではなくレコーディングにリスナーとして立ち会った。これによりチーフ・オーディエンスとクレジットされることになった。
まさしく、このアルバムにセンチメンタル・シティ・ロマンスの “志” と “個性” 、そして高い音楽性が込められていることを示すエピソードだと思う。
収められている11曲はほぼ中野督夫が手掛けているが、1970年代の典型的ウエストコーストサウンドを彷彿とさせる曲から、渋いルーツサウンド、カントリーテイストなどを感じさせるバラエティ豊かな演奏は聴きごたえがある。
歌詞もどこか松本隆にも通じる繊細な感情を表現していたり言葉遊び的要素があったりと、パッと聴くと開放感に満ちた心地よさが強調されているようだけれど、実験精神や冒険的アプローチをも散りばめながら、非常に丁寧につくりこまれたアルバムであり、今でも古さを感じさせない。
実は筋金入りの硬派であるという、センチメンタル・シティ・ロマンスの本質
アルバム『センチメンタル・シティ・ロマンス』は、新しい日本のロックシーンをリードしていこうというコンセプトでCBSソニーが打ち出したシリーズの第2作でもあった。
ちなみにシリーズの第1作は同じ年に発表された四人囃子の『ゴールデン・ピクニックス』で、実現しなかったけれどシュガー・ベイブを解散した山下達郎のソロアルバムをこのシリーズでリリースしようという目論見もあったようだ。しかし、このシリーズは良質な作品を残したものの大きなセールスを得ることが出来ずに短期で消滅していくことになる。
その後、センチメンタル・シティ・ロマンスはメンバーチェンジやレコード会社の移籍を重ねながらもコンスタントな活動を続け、大ヒット曲こそないものの良質な音楽を創りつづけたバンドとして音楽仲間の敬意を受ける存在になっていく。
現在、オリジナルメンバーは細井豊のみになっているが、そうした変化を受け入れながらも相変わらずマイペースで活動を続けている。
今も彼らが現役バンドとして存在していることは嬉しいと同時に、その50年に及ぶ唯一無二の足跡自体が、その繊細な音楽性から軟派に見られがちだけれど実は筋金入りの硬派であるという、彼らの本質のなせる業なのだという気もする。
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2023.08.23