9月27日

スプリングスティーンが参加、アムネスティのヒューマン・ライツ・ナウ!

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アムネスティ・インターナショナル主催の「ヒューマン・ライツ・ナウ!」が東京ドームで開催された日
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ブルース・スプリングスティーンが初めて日本にやって来たのは、1985年4月、僕が15歳の時だった。しかし、チケットの発売日に電話がちっとも繋がらず、ライヴを観ることはできなかった。初来日のニュースに舞い上がっていた僕にとっては、まさに青天の霹靂で、この時の悔しさたるや到底言葉にできるものではない。

1986年11月10日、初めてのライヴ盤となる『THE “LIVE” 1975-1985』が、5枚組というとんでもないボリュームでリリースされた。そして、僕はその圧倒的な素晴らしさに、完全に打ちのめされることとなった。

ブルースは観客の熱狂をすべて受け止めると、会場の一番後ろの席にいるファンまで、軽々とロックンロールの感動を届けていた。それは心と心を繋ぐもの。深遠なコミュニケーションであり、希望と可能性のメッセージだった。僕は毎晩のようにレコードをターンテーブルに乗せ、飽きることなく聴き続けた。そして、ブルースのライブアクトとしての力量に益々ほだされていったのだ。

1987年10月9日、ニューアルバム『トンネル・オブ・ラヴ』がリリースされ、当然のように全米1位の大ヒットを記録する。翌年の1988年2月には、この新作を引っ提げてのツアーがスタート。その中の7月3日ストックホルム公演が、90分のみではあったが、世界中のラジオで中継されている。

オープニングの「トンネル・オブ・ラヴ」から、僕はEストリート・バンドが生み出す強靭なグルーヴに、文字通りのけぞった。血がたぎるとはこういうことを言うのだろうか。もう大沸騰である。気がつくと僕は興奮のあまり「すげー!すげー!」と連呼していた。ストックホルムの会場に渦巻く “これから特別なことが始まるのだ” という高揚感が、電波に乗って海を越え、火の玉となって僕の心を直撃したのだった。

記憶が定かではないのだが、ブルース・スプリングスティーン2度目の来日が発表されたのは、このすぐ後だったと思う。ただし、単独公演ではなく、アムネスティ・インターナショナルの活動をサポートすることを目的とした複数のアーティストが出演するツアー『ヒューマン・ライツ・ナウ!』の一員としてだった。

単独公演でないことを嘆く声もあったが、僕は少しも気にならなかった。やっと巡ってきたこのチャンスだけは、絶対に逃すわけにはいかない。浪人中だったが知るものか。ブルース・スプリングスティーンのライヴを観たいという僕の気持ちは、もはや爆発寸前のところまできていた。

1988年9月27日、遂にその日はやって来た。会場は東京ドーム。僕の席はアリーナの一番後ろのブロックだった。着席するとすぐにライヴが始まった。ボブ・マーリーの「ゲット・アップ、スタンド・アップ」が演奏され、複数のアーティストがヴォーカルを分け合っている。「もしや?」と思って遠いステージに目をこらすと、聴きなれた歌声が耳に届いた。

ブルース・スプリングスティーンだ!

ほんのワンフレーズだったけど、体が震えた。僕は視界にブルースの姿を見つけると、あとはひたすら凝視しつづけた。そして曲が終わり、彼が手を振ってステージの袖へ消えた途端、へたりこむように椅子に腰をおろしたのだった。

ここからブルースの出番までは、とにかく長かった。一日千秋の思いとは、こういう時に使うべきだろう。他の出演者が悪かったと言っているのではない。ただ物理的に長かったのだ。それに、この日は僕にとって本当に特別な日で、目的はひとつだったから尚更である。観客の多くもブルースが目当てだったようで、会場には相当フラストレーションがたまっていたと思う。その証拠に、ピーター・ガブリエルのステージが終わるや、それまでどちらかというと白けた空気が漂っていた会場がにわかに活気づき、流れる BGM にさえ歓声が上がるようになった。そのたびに心臓の鼓動が早まる。待ちに待った瞬間は、すぐそこまで迫っていた。

会場が暗転し、オープニングナンバー「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」のイントロが高らかに鳴り響いた時のことを、僕は一生忘れないだろう。あれは間違いなく音楽の神様からのギフトだった。そして、2曲目の「プロミスト・ランド」でブルースがうつむきながらハーモニカを吹き始めた時、僕がどんな気持ちだったかなんて、誰にもわかるはずがない。絶対に。

そこからは、まさに怒涛の90分だった。いつもなら3~4時間のステージの中で自在に緩急をつけながら、最高のカタルシスへと昇華させていくところを、押し引きなしのストレート一本勝負である。ブルドーザーの突進か、はたまた横綱のがぶり寄りか、その巨大なエネルギーといったら…。アリーナの一番後ろのブロックにいた僕でさえ、音圧に押し飛ばされると思うほどだった。

MC らしい MC もなく進行していくライヴの中で、唯一ブルースが観客に語りかける印象的な場面があった。

「日本語は話せないんだけど、ちょっとやってみるよ(注:ここまでは英語)。子供の頃にロックンロールを聴いて、とても自由な気持ちになりました。アムネスティ・インターナショナルに参加することで、自由でいられるあなた達が、世界中の人を自由にすることができます。我々と共に自由の声をより高く響かせよう」

ツアーの趣旨を伝えたいというブルースの真摯な気持ちが伝わってきて、とても感動したのを覚えている。この後に歌われた「マイ・ホームタウン」は、胸に深く沁み入るものがあった。

--31年がたった今でも、あの日のことを忘れたりはしない。これまで数えきれないほどのライヴを観てきたし、ブルースのライヴも東京、シカゴ、ニューヨークで観る機会に恵まれた。でも、あの日のライヴには格別な思いがある。

「涙のサンダー・ロード」のイントロでロイ・ビタンが弾いたあのピアノのフレーズ。ブルースが吹いたハーモニカの音色。そして、夢にまで見たコール&レスポンス。忘れたりなんかしない。遠いはずのステージが、少しも気にならなかった。まるで目の前にブルース・スプリングスティーンがいるみたいだった。31年がたった今でも思い出す。あれは魔法だったのだろうか?

2019.09.27
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  YouTube / Bruce Springsteen
 

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カタリベ
1970年生まれ
宮井章裕
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