4月25日は尾崎豊の命日である。 もう、あれから25年が経つ。ざっと四半世紀だ。 彼が亡くなった時に2歳だった一人息子の裕哉さんが昨年、親父の年齢を超えたと言っていたから ー そりゃ時も経つというもの。 尾崎豊は26歳でこの世を去った。 俗に、欧米の音楽界には「27クラブ」なるものがある。ロックスターは27歳で死ぬという、まことしやかに囁かれる “法則” を人々はそう呼ぶ。かのローリング・ストーンズの元リーダー、ブライアン・ジョーンズを始め、伝説のギタリスト、ジミ・ヘンドリックスやドアーズのジム・モリスン、ニルヴァーナのカート・コバーンら、確かに27歳で亡くなった大物ミュージシャンは多い。なんでも同クラブには現在、40人ほどが名を連ねるらしい。 尾崎豊は26歳。1歳くらいの誤差なら、入会を認められるかもしれない。 いや、そんなことをしなくても、尾崎は紛うことなきロックスターである。 もはや彼については、色々な人が色々な立場から語り尽くした感がある。そこで僕は今回、あえて “メロディーメーカー・尾崎豊” にスポットライトを当てようと思う。なぜなら、僕が初めて尾崎に興味を持ったのは、そこに新しいメロディを感じたからである。 尾崎豊のデビューは1983年12月1日である。だが、1stアルバム『十七歳の地図』の初回プレス数はわずか1,300枚(後に300万枚を売る大ヒットアルバムがですヨ!)。尾崎自身、朝霞にある自宅近くのレコード店を回るが置いておらず(1,300枚じゃ全国の大きなレコード店に卸したら、ほぼ終わりですもんネ)落胆する。 実は、尾崎のデビュー1年目はほとんど無名だった。僕自身も知らなかった。 尾崎の1年目、彼は青山学院高校を中退したり、新宿ルイードでデビューライブを行なったり、伝説のライブイベント「アトミック・カフェ」で高さ7mのイントレから飛び降りて左足を骨折したりするも ー 世の中的にはほとんど無名だった。 尾崎豊の名が一般に知られるのは、85年1月21日にリリースされた4thシングル「卒業」からである。キッカケは、たまたまその年、同名タイトルの曲が相次いで発売され、注目されたからだ。発売順に尾崎、倉沢淳美、斉藤由貴、菊池桃子。最も売れたのは、当時アイドル2年目の菊池桃子だった。しかし、今も語り継がれるスタンダードナンバーになったのは、斉藤由貴と尾崎豊である。後に2人は特別な関係になるが ー おっと、それはまた別の話。 行儀よくまじめなんて 出来やしなかった 夜の校舎 窓ガラス壊してまわった 逆らい続け あがき続けた 早く自由になりたかった 尾崎の「卒業」が注目を浴びたのは、その過激な歌詞だ。十代の粗削りなロックミュージシャンが歌う、青春の雄叫び ー マスメディア的には描きやすい。 同シングルはオリコンチャートで20位となり、尾崎豊はやっと世間に認知された。僕が尾崎を知ったのもこのタイミングである。「若者の教祖」「十代のカリスマ」ー だが、リアルタイムで接した僕に言わせれば、当時の世間の空気は少し違ったと記憶する。 いわゆる「校内暴力」が吹き荒れたのは、ドラマ「3年B組金八先生」の第2シリーズを起点とする1980~82年だ。85年当時、もはや不良カルチャーはダサくなりかけていた。若者の教祖はビートたけしに移り、むしろ「不良」や「ツッパリ」を茶化して笑う風潮すらあった。 事実、84年秋から85年春にかけて放映されたドラマ「スクール★ウォーズ」が描く不良はもはやノスタルジーの趣すらあり、85年暮れに公開された映画「ビー・バップ・ハイスクール」は一周回ってツッパリをファッションへと昇華していた。85年とはそういう時代であった。 そう、尾崎の歌う青臭い歌詞は、既に時代とズレていたのだ。 同年3月21日、尾崎豊の2ndアルバム『回帰線』がリリースされる。前作に続いて、全ての楽曲を尾崎が作詞作曲した。そして4月1日付けのオリコンチャートで同アルバムは初登場1位を記録する。なんと1位だ。それはちょっとした事件だった。 そのジャケットは、モノクロ写真の尾崎が何やら崖を登っている。横には散文詩のような英文字が綴られている。洒落たアートワークだ。タイトルの英語表記は「TROPIC OF GRADUATION」ー 直訳すると「卒業の回帰線」。なんだかよく分からないが、単純に「TROPIC」としないところが意訳っぽくてカッコいい。そもそも回帰線ってなんだ? 一聴して分かるが、スプリングスティーン色が全開だ。そこに尾崎流の歌詞が見事にマッチしている。佐野元春的な都会の匂いもするし、浜田省吾的な泥臭さもある。ロックではあるけど、どこかフォークっぽくもある。その意味ではジャクソン・ブラウン的でもある。 同年8月25日、観客26,000人を動員した大阪球場のライブ『TROPIC OF GRADUATION(回帰線)ツアー』最終日。「ハイスクールRock'n'Roll」の前に、尾崎はこんなMCを披露している。 それは、まだ俺が高校1年のころのことなんだ。 俺にはあんまり友達がいなくって、いつも休み時間になると、こうやって一人で自分の席に座って…… ウォークマンを聴いていたんだ! テープの中身は、例えばブルース・スプリングスティーンやジャクソン・ブラウンや、佐野元春や浜田省吾なんかを…… 好んで聴いていたんだぜ。 ー そう、まさに尾崎のメロディーメイクは、スプリングスティーンへのオマージュであり、ジャクソン・ブラウンにインスパイアされたものだった。 加えて、アルバム『回帰線』のアレンジは、佐野元春のバックバンドを務める西本明さんと、浜田省吾のサポートメンバーである町支寛二さんが担当した。全ては同アルバムのプロデューサーを務めるCBSソニー(当時)の須藤晃さんの確信犯だった。 須藤さんは、あるインタビューで尾崎のメロディーメイクを「未完成だった」と回想している。実際、尾崎の代表曲の1つ「十七歳の地図」は、最初に尾崎が作ってきた時はカントリー調の曲だったという。それを須藤さんが、アレンジャーの西本さんへ “ブルース・スプリングスティーンの「明日なき暴走」で” という発注をして、現在の形になった。 だが、須藤さんは「未完成だったが――」と前置きしつつも、こうも付け加えている。 「本当に自由に作っていたんだろうね。これは何回も話しているけど、佐野元春くんが “尾崎くんって新しいよね” って言っていた。確かに、いい悪いじゃなくて新しい感じがしたね」 そう、根源的な部分で尾崎のメロディは新しかった。専門的な作曲技法を学んでいないがゆえに、粗削りながらも ー そこには新しさがあった。 思えば、僕が『回帰線』を聴いて最初に感じたのが、まさに未完成ゆえの “新しさ” だった。「Scrap Alley」のポップ感、「卒業」のグルーヴ感、「存在」の突き抜けた明るさに、「群衆の中の猫」に垣間見えるフォーク・テイスト ー 。 正直、歌詞などどうでもよかった。 皆さんにお願いしたい。 今度、尾崎の曲を聴く機会があったら、一旦歌詞は脇に置いて、ぜひ、そのメロディに耳を傾けてほしい。 きっと、あなたはこう思うに違いない。 「 ー あれ? なんか新しい」
2017.04.25
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YouTube / Leonardo Park
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