伊藤銀次の音楽活動の転機となったアルバム「BABY BLUE」
1982年の『BABY BLUE』がなければ、その後の僕のすべての音楽活動はなかったと断言してもいいだろう。
1977年のファーストアルバム『DEADLY DRIVE』が不発に終わったその後の5年間は、CMソング制作やギターの教則本などでしのぎながら、じっと次のチャンスを待っていた。
僕にとって音楽人生最初のチャンスは、70年代初頭に大瀧詠一さんに出会えて東京に出てくることができたこと。そんなに楽天的な性格ではないのだけど、その時は、もう一度ぐらいチャンスはあるのではと思えた。ただしその次が来た時に、それに応えられる音楽家としてのチカラをつけていなければという覚悟付きでね。
感性だけでやって来た僕は、大滝さんや山下達郎君たちに会ったことで刺激を受け、もっと抜本的に音楽を勉強しながら次の機会を待つことに決めたのだ。
音楽の神はそれを見てくれてたのだろうか。まもなく松原みきさんのバンドリーダーの仕事の依頼を受け、それがきっかけで佐野元春と出会う。彼のファーストアルバム『BACK TO THE STREET』の曲を編曲したら、それを聞いた沢田研二さんのディレクターから、彼のアルバム全曲をアレンジしてほしいという仕事が舞い込んできた。
音楽の神様は見てくれていた! 音楽プロデューサー木﨑賢治との出会い
そのアルバム『G.S.I LOVE YOU』が好評で、次の『STRIPPER』というアルバムも編曲をさせていただくことに。できたてほやほやのエキゾティックスという彼のバンドとのロンドン・レコーディングのためのリハーサルに入ったが、沢田さんが『魔界転生』で天草四郎役をやるために京都太秦に缶詰になっているので、僕が仮歌を歌いメンバーと録った音を沢田さんに送ることに。
その仮歌を聞いた沢田さんのディレクターが僕の声を気に入ってレコード会社を探してくれ、ポリスター・レコードが手をあげてくれたことが『BABY BLUE』制作のきっかけになったのだから、ほんとすごい話。音楽の神様は見てくれてたのだよ。
そのディレクターというのが誰あろう―― その後、吉川晃司、大沢誉志幸、山下久美子、槇原敬之、バンプ・オブ・チキン、トライセラトップスなどを育て世に出した音楽プロデューサーの木﨑賢治さん。彼こそが今日ある銀次を形作ってくれたキーパーソンの一人なのであった。
『BABY BLUE』のクレジットに「プロデューサー笠原じゅん」とあるのは、彼のことで、木﨑さんはこのアルバムを見事にプロデュースしてくれただけでなく、シンガーソングライターとしての銀次の育ての親でもあるのでした。
ソングライター伊藤銀次、開眼。「雨のステラ」は、こうしてできあがった
木﨑さんに会うまでは、メロディのアイデアがいくつも浮かんではきても、そこから先へどう進んでいいのか迷ってしまいどれも未完に終わっていた銀次。
『BABY BLUE』の曲締め切り日になっても、僕の手元には4小節や2小節のメロディのピースばかりが20タイプほど。完成した曲は一つとしてなかった。
そんな断片を聴きながら、諭すように方向性を示し見事に木﨑さんがナビゲートしてくれたおかげで、みるみる曲が形をなしていった。その中でも「雨のステラ」ができたときのことは今でも忘れられないね。
ギタリストの僕はどうしても曲作りの指標にメロよりもコード進行を置くところがある。サビはデイヴ・クラーク・ファイヴの「Because」のコード進行にヒントを得てできていたが、Aメロがまだだったので、神田広美さんの書いた詩を前にして、その日もああでもないこうでもないとコード進行を考えてばかりで進まない僕を見た木﨑さんが、「銀次さんはコードのことばかり考えてるね」と、なんと僕からギターを取り上げてしまった。
ギターなしで曲を作ったことがないので一瞬うろたえたけれど、木﨑さんは黙ってカセットデッキの録音ボタンを押さんと待機している。しょうがないと腹をくくって、「ステラ」の詩を手にとると「♪街はさめたグレイ…」から始まるAメロを無心で歌い出し、一気にサビ前まで歌いきってしまった。次の瞬間、カセットデッキのストップボタンを押した木﨑さんが「いいじゃない。いいメロだよ」と言ってくれたときは奇跡が起きたと思った。
ずっとポップスばかり聴き続けてきた自分の無意識の領域にこんなメロディがひそんでいることを知った貴重な体験。この出来事でソングライター銀次が開眼し、ここからメロディーが形をなしはじめ、アルバム『BABY BLUE』の各曲ができあがっていったのだった。
※2019年6月23日に掲載された記事をアップデート
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2022.11.22