ビリー・ジョエルを担当した洋楽黄金の80年代
ビリー・ジョエルが日本で一世を風靡していたのは、1970年代末から1980年代前半。彼の素晴らしい楽曲は、まさに現在60歳前後の方々の青春時代を彩っていたはずです。そして私が、当時のCBSソニーでビリー・ジョエルを担当していたのは “洋楽黄金の80年代” と呼ばれる、1982年の『ナイロン・カーテン』から1989年の『ストーム・フロント』まで。
ビリーのアルバムは1993年の『リヴァー・オブ・ドリームス』以降、発表されていないのですが(2001年に新譜が発売されていますが、企画型のピアノ曲集)、決して音楽シーンから引退したというわけではなく、いまだライブアクトとして現役バリバリで頑張っています。
そこで今回は、ビリー・ジョエルのことをよく知らない若い音楽ユーザーの方に、彼自身のこと、彼の音楽のことを知っていただきたく、私から『ビリー・ジョエル 名曲ランキング』を紹介させてもらいます。
第10位:ハートにファイア(We Didn't Start the Fire)
1989年『ストーム・フロント』収録。この曲の何に驚き感動したかと言うと、それは “歌詞” です。ネットで検索できるので是非ググってもらいたいのですが、サビ以外の歌詞全てが1949年から1989年までの世界的かつ政治的、社会的、文化的な事象や出来事や人名のみで作られているのです。
しっかりと韻も踏んでいるし、画期的な歌詞に驚きました。つまり1949年生まれのビリーが40歳となり、自分の40年の間に起きた出来事や人名で綴られているのです。アメリカのある州では小学生の歴史の教材に使われたこともあります。このアルバムは、モデルのクリスティ・ブリンクリーと再婚し娘も生まれ、幸せな家庭をもつ父親としての決意があらわれた作品でした。作詞アイデアとしては、他に類をみないものであり、若い方々に知って欲しかった曲です。
第9位:グッドナイト・サイゴン
1982年『ナイロン・カーテン』収録。この作品では、当時のアメリカ社会が抱える一番の問題、ベトナム戦争の後遺症を取り上げています。建国以来初めてベトナムで敗北を喫し、国力も低下。経済も破綻し不況にあえぐ社会。東西冷戦で東欧には鉄のカーテン。夢と希望に溢れていたアメリカなのに、将来が見えづらくなった、まさに “ナイロンのカーテン” の向こう側のように。
イントロのヘリコプターの音はべトナム戦争関連映画、『地獄の黙示録』『帰郷』『ディア・ハンター』などを彷彿とさせますが、メロディーは荘厳で、まさに戦争で亡くなった人々に対するレクイエムとして仕上がっています。日本のアーティストが政治的な動きをしたり社会的なメッセージを発すると、なにかとストレートな評価にはつながりにくいですが、アメリカでは違います。
ビリー的には人生で一番ネガティブな心の状態にあった時に制作されたアルバムですが、このアルバムを発表したことによって、単なる人気ポップスターから、格上の文化人的な立ち位置にあがったと思われます。
第8位:プレッシャー
これも1982年のアルバム『ナイロン・カーテン』収録。アルバムから最初のシングル。ビリー・ジョエルの担当になって初めてのシングル曲だったので、強い思い入れがあります。アルバムの内容に戸惑い一瞬ひるんだものの、ピアノ系バラードシンガーでしかビリーを理解してくれないユーザーのことは忘れて、この作品で新しいユーザーを獲得することだけに集中してました。
余談ですが、IPS細胞でノーベル賞を受賞した山中伸弥教授は、ジョギングしながらこの曲を聴いて研究漬けからのストレス解消したとのこと。つまりノーベル賞を生んだ名曲なので、若い音楽ファンに聴いて欲しいのです。
第7位:レイナ(All for Leyna)
1980年『グラス・ハウス』収録。個人的にはこのアルバムが一番好きなので、今回3曲もピックアップしています。ピアノのイントロで始まる曲だけに従来型のピアノ中心ビリーファンには違和感なく受け入れられるし、ドラマティックなメロディ展開は、ロックンローラーとしての顔もみせてくれる名曲です。
宣伝マンだった当時は、社内外でこの曲に対する期待感が一番高かったことを記憶しています。ついでながら、このシングルの販促物としてラジオ用に高級革の名刺入れを配布。理由はしょーもなく “名入れ”。レイナをひっくり返しただけでした。
第6位:ロックンロールが最高さ(It's Still Rock and Roll to Me)
1980年『グラス・ハウス』収録。「ガラスのニューヨーク」に次いで2枚目のシングル盤として発売されました。アルバムはミリオンを連発していましたが、実はシングルチャートとして初めての全米No.1ソングがこの曲。ロックアルバム『グラス・ハウス』を代表するタイトルですし、ライブでやる時は、スタンドマイクを振りかざしてステージ上で暴れます。どんな音楽やファッションが流行ってもロックンロールが最高さ、という歌ですが、“俺はバラードシンガーじゃないぞ” と叫んでいるようです。
第5位:ガラスのニューヨーク(You May Be Right)
1980年『グラス・ハウス』収録。ビリー・ジョエルと言えば、70年代末の「素顔のままで」や「オネスティ」に代表される、ピアノ・オリエンテッドなバラード系シンガーソングライターのイメージがあり、ピアニストとしても最上級のテクニックをもっていますが、そんなビリーの本質は、実はロックンローラー。ギター抱えて革ジャンだけがロックではありません。
この「ガラスのニューヨーク」は『グラス・ハウス』からのファーストシングルで、アルバムの冒頭を飾っています。1977年、1978年と2年連続でグラミー賞を受賞した後にアルバムジャケットを見ると納得ですが、世間が抱いている自分へのイメージをぶち壊すかのように、成功者のシンボル的なガラスの家に向かって、まさに石を投げつけようとするビリーの姿があります。このあたりもロックで、へそ曲がりのビリーの真骨頂ではないでしょうか。
この絵柄を受け、ガラスの割れる音から始まるこの曲は、アップテンポのロックナンバー。歌詞を読み解くと、壊れかけていく夫婦関係の模様も浮かび上がります。実際、次のアルバム『ナイロン・カーテン』制作時だった1982年に離婚するのですが。
第4位:ジス・ナイト~今宵はフォエバー(This Night)
1983年『イノセント・マン』収録。自分のルーツへの回顧と言う意味では、60年代ポップス同様に、幼いころからピアノを習い、慣れ親しんだクラシック音楽もそうです。この曲は、彼のクラシック音楽への造詣と素養なしには成立しなかった楽曲です。
ベートーベン「ピアノソナタ8番悲愴」を見事なまでに自分のメロディと融和させ、20世紀のヒットメーカーが18〜19世紀のヒットメーカーと最高のコラボレーションをつくりあげました。ポップなメロディの中で輝く悲愴の旋律。イントロが流れた瞬間にNYの夜景が浮かぶほど。このアイデアと品格あるアレンジは是非若い人に聴いて欲しいものです。
第3位:アップタウン・ガール
1983年『イノセント・マン』収録。前年に発表され『ナイロン・カーテン』の歌詞のメッセージ性やサウンドの重厚さとはうって変わって、このアルバムは全編明るいポップソング集。いわゆるドーナツ盤時代を想い出させる仕上がりで、特にこの曲は、60年代のヒットアーティスト、フォーシーズンズへのオマージュとなってます。
『ナイロン・カーテン』制作時にオートバイ事故で入院し、糟糠の妻とも離婚。数か月間、落ち込みまくっていたビリーですが、スーパーモデル、クリスティ・ブリンクリーと出会ったことで人生が一変します。この曲のMVに彼女を登場させるほどの惚れこみ状態で、ビリーは非常にへそ曲がりな性格ですが、作品にはその時の自分の気持ちに忠実で分かり易いものがあります。1人の女性が落ち込んだ男を救い出し、楽しいアルバムをつくらせた、そういう女性パワーを証明する記念碑的な位置づけとも呼べるかも知れません。
第2位:さよならハリウッド(Say Goodbye to Hollywood)
1976年『ニューヨーク物語(Turnstiles)』収録。後に1981年のライブアルバム『ソングス・イン・ジ・アティック』で収録し直しています。このライブアルバムの企画自体が、ブレイクする前に発表した作品の中で、もう一度エネルギーを込めて出し直したいというものでした。
テーマは、人生はさよならと出会いの繰り返し。人生のやり直しでNYへ戻ることを決心し、LA生活に別れを告げる曲です。まさに彼自身が人生の岐路に立っていたころの作品ですが、メロディーの素晴らしさもさることながら、アレンジが最高。彼が敬愛するフィル・スペクターの “ウォール・オブ・サウンド” を意識して、ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」へのオマージュとしているところが聴きどころです。
しかも、翌年の1977年に、今度はそのロネッツのメンバーである、ロニー・スペクター、つまりフィル・スペクターの元妻がこれをカバーしているのが面白いです。しかも、このバック演奏がEストリートバンドとなると、ビリーと同時期にブルース・スプリングスティーンも担当していた私としては、この曲を推すしかありません。機会があれば、このロニー・スペクター&Eストリートバンドのバージョンも聴いて欲しいです。
第1位:マイ・ライフ
1978年『ニューヨーク52番街』収録。制作ディレクターとして私は、1982年の『ナイロン・カーテン』からビリーを担当しましたが、あらためて彼の考えや彼の住むアメリカ文化を理解するため、4年前に制作されたこの曲「マイ・ライフ」を何度も繰り返し聴き、歌詞も熟読しました。“アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ” を教えてくれた、私にとっては、ビリーを理解するための、メンター的な役割を果たした曲です。
東海岸での生活に疲れて西海岸に移り住んだ友人のことをテーマにしていますが、彼自身も最初の妻とNYの生活からLAへ逃れ、ラウンジのピアノ弾きで生計を立てていたこともあり、自分自身をオーバーラップさせています。ビリー自身も自分のテーマ曲と言ってますし、今でも愛聴している曲です。ちなみに、制作時の時系列には整合性がありませんが、2位曲「さよならハリウッド」との対比として聴いて欲しいです。
このころ、私は宣伝マンとしてテレビ局や新聞社、FM局にビリーの新譜を届けていました。前作2枚連続でセールスも100万枚を超え、当代きっての洋楽No.1アーティストでしたが、インタビューはやらないし、アーティスト写真も少なく、プロモ素材がないのでメディア担当者の私は苦労しっぱなしでした。
―― ビリー・ジョエルは20世紀のスーパースターの1人であることには間違いありませんし、21世紀のいまでも、つまり74歳のいまも積極的なライブ活動を行っています。いまやNYのブロードウェイミュージカル並みに名物になった月1回のマディソン・スクエア・ガーデン(MSG)でのライブがそれです。毎回1万8,000席がソールドアウトで、数年前のコロナ禍でキャンセルになるまでは74か月連続で行っていました。彼が過去に行ったMSGでの通算回数も120回になるといいます。
私が紹介したベスト10の順番には、さほどの意味はありませんが、この機会に1人でも多くの10代の皆さんに、ビリー・ジョエル自身や彼の音楽に興味を覚えられ、どこかで聴いて頂ければ嬉しく思います。
※2021年11月5日に掲載された記事をアップデート
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2023.11.16