8月8日

80年代は洋楽黄金時代!ビリー・ジョエル「アップタウン・ガール」と「愛は勝つ」の関係

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ユニット名「指南役」の由来とは?


手前味噌で恐縮だが、僕のハンドルネームの「指南役」とは、ユニット名である。元々は、福岡市にある福岡県立城南高校の水泳部の中に作られた、いわゆる “部活内部活”―― サークルの名前だった。

更に言えば、指南役にはオマージュする元ネタがあった。同水泳部内にかつて存在した伝説の部活内部活――「第二水泳部」がそう。

時に1978年――『ザ・ベストテン』が始まり、サザンオールスターズがデビューする「黄金の6年間」が幕明けた年に結成されたと聞く。その中心人物が、僕らの5コ上の先輩の木村和(きむら・かん)さん。後の―― ミュージシャンのKANである。第二水泳部は、水中プロレスや水中サッカーなど、要はプールで遊ぶことを目的とした軟派なサークルだった。

第二水泳部には、もう一つの顔があった。―― 音楽好きである。もはや水泳とは何の関係もない。当時、彼らは発売されたばかりのビリー・ジョエルのアルバム『ニューヨーク52番街』を愛聴していたという。KANさんのビリー・ジョエル好きは、ここに始まる。ちなみに、彼がビリーの「アップタウン・ガール」をオマージュした「愛は勝つ」を発表するのは、この12年後である。

ビリー・ジョエル9枚目のスタジオアルバム「イノセント・マン」


今回はそんな「アップタウン・ガール」が収められた、ビリー・ジョエルの9枚目のスタジオアルバム『イノセント・マン』の話である。リリースは、今から40年前の1983年8月8日。かの東京ディズニーランドが開園し、「黄金の6年間」がフィナーレを飾った年にあたる。

アルバムを語る前に、少しばかり、ビリーの話をしておこう。

本名、ウィリアム・マーティン・ジョエル。「ビリー」は英語圏における「ウィリアム」のニックネームだ。生まれは1949年、ニューヨークはブロンクスである。幼少のころからピアノを習い、天賦の音楽の才も手伝って、その腕はめきめきと上達する。尊敬する音楽家はベートーヴェン。だが、両親が離婚し、ビリーは女手一つの貧しい暮らしを強いられる。そんなビリー少年を慰めたのもまた、音楽だった。

彼が10代の頃に影響を受けたミュージシャンは、エルヴィス・プレスリーを始め、レイ・チャールズ、ベン・E・キング、ザ・タイムス、シュープリームス、フォー・シーズンズ、ジェームス・ブラウン、そして―― ビートルズだった。

「俺はコロンビア大学に行くんじゃない。コロムビア・レコードに行くんだ」

―― それが、10代のビリーの口ぐせだった。事実、彼は高校を中退すると、音楽の道を志す。そして複数のバンドを経て、ソロデビューを果たしたのが、1971年―― 22歳の時だった。しかし、所属レコード会社の不手際やプロデューサーとの不和もあって、このデビュー作は不発に終わる。ビリーはロサンゼルスに移住し、生活のためにクラブでピアノの弾き語りを始めた。すると―― 本当にコロムビア・レコード(!)の目に留まり、スカウトされる。高校時代の予言が当たった。

1973年、ビリーはコロムビア・レコードからアルバム『ピアノ・マン』をリリース。ご承知の通り、同名タイトルのシングルが大ヒットして、ビリーは一躍、その名を全米に轟かせた。

ディスコの定番曲として人気を博した「ストレンジャー」


そして、次なるブレイクは、4年後の77年―― 米音楽界のカリスマプロデューサーのフィル・ラモーンを招いて、共同作業で仕上げた5枚目のアルバム『ストレンジャー』だった。全米アルバムチャート2位。リード曲の「素顔のままで」はグラミー賞を受賞し、同名シングルの「ストレンジャー」は翌78年に、日本でシングルカット。ソニーのCMソング効果もあり、オリコン2位と大ヒットした。一般に、日本人がビリーを知るのは、このタイミングである。

思えば、当時の日本は、サーファーディスコ全盛。東京・六本木には「キサナドゥ」があり、スクエアビルは全階ディスコだった。「ストレンジャー」はディスコの定番曲として、よくかかっていたという。口笛の静かなイントロから一転、軽快なロックに転調する歌い出しが人気で、たまに分かっていないDJがイントロを省いて、いきなりロックパートから始めると、フロアにいた客たちは一斉にブーイングした。

そう、1978年の「黄金の6年間」の幕明けと共に、日本におけるビリー人気は沸騰した。そして、次のアルバム『ニューヨーク52番街』、更に80年の『グラス・ハウス』と、3作連続でビリーは全米で700万枚以上を売上げ、グラミー賞を3年連続で受賞する。ちなみに、彼が最後にスタジオアルバムを700万枚以上売るのは、83年の『イノセント・マン』である。まさに、黄金の6年間の申し子、ビリー・ジョエル――。

ビリーからクリスティへの恋文、「イノセントマン」


少々前置きが長くなったが、いよいよ本題である。実は、当リマインダーの書き手には、元 CBS・ソニーの洋楽ディレクターで、80年代にビリー・ジョエルを担当した喜久野俊和サンがいる。アルバムで言えば、1982年の『ナイロン・カーテン』から、89年の『ストーム・フロント』まで。もちろん、『イノセント・マン』も――。掛け値なしに、80年代のビリーに最も近かった日本人だ。ビリーに関する制作サイドのコアな話は、ぜひ、リマインダーの喜久野サンのコラムを読んでほしい。

そんな次第で―― 僕の方からは、主にリスナー目線で、かのアルバムにまつわるアウトラインや、楽曲の分析にフォーカスしたいと思う。

さて、アルバム『イノセント・マン』―― 有名な話だが、その誕生の背景には、劇的な物語があった。プロローグは、ビリーにとって最悪な1年と言われた1982年である。その年、ビリーはバイク事故で瀕死の重傷を負い、妻のエリザベス・ウェーバーと離婚し、財産の半分を失った。9月にリリースされた8枚目のアルバム『ナイロン・カーテン』は強いメッセージ性ゆえに、前作から大きく落ち込む200万枚のセールスに終わった。とはいえ、それでもダブルミリオンだが――。



傷心のビリーは同年11月、心と体を休めるために、カリブ海のサン・バルテルミー島を訪れた。そして―― かの地で、当時「アメリカの恋人」と謳われたスーパーモデルのクリスティ・ブリンクリーと出会い、一瞬で恋に落ちたのである。俗に言う、「物語は常に最悪のタイミングで始まる」とは、こういうことだ。

翌1983年1月、帰国したビリーは早速、9枚目のアルバムの制作に取り掛かった。もう、アタマの中は恋人のクリスティでいっぱい。そして、驚異の早さで10曲を書き上げたのが、アルバム『イノセント・マン』である。前述の喜久野サン曰く「ビリー・ジョエルほどのスーパーアーティストが、1年以内に新譜を発表する事は、奇跡にも近いほど稀な出来事でした」(『ビリー・ジョエルの新しいキャリア、アルバム「イノセント・マン」は緊急発売!』を参照)――。

まぁ、恋のなせる技である。そのアルバムは、いわばビリーからクリスティへの恋文だった。タイトルを直訳すると “無垢な男”――「少年のような僕を見て!」ということだろう。事実、同アルバムには、ビリーが少年時代に愛聴した、50年代から60年代にかけてのR&Bやドゥーワップ、モータウンサウンド、アメリカンポップスなどのオールディーズの空気であふれていた。

恋人のクリスティ・ブリンクリーが登場する「アップタウン・ガール」


俗に、エンタテインメントにおけるクリエイティブとは、0から1を生み出すものではなく、1を2や3にアップグレードする作業である。例えば、映画界でルーカスやスピルバーグが、かつて少年時代に愛読したパルプマガジンにオマージュされて、『スター・ウォーズ』や『インディ・ジョーンズ』シリーズを作ったのは有名な話だ。

同様に、『イノセント・マン』も、その根底にあるのは、先人たちへのオマージュだった。先行シングルで全米1位を獲得した「あの娘にアタック」はシュープリームスへの――、同名シングルの「イノセント・マン」はベン・E・キング、「アップタウン・ガール」はフォー・シーズンズ、ビリーが一人で多重録音をこなした「ロンゲスト・タイム」はザ・タイムスへのオマージュだ。そして、「今宵はフォーエバー」に至っては、サビはベートーヴェンのピアノソナタ「悲壮」からの引用だった。

正直、どれも甲乙つけがたい名曲ばかりだ。ただ、個人的には、やはりミュージックビデオにビリーの恋人、クリスティ・ブリンクリー本人が登場する「アップタウン・ガール」を推したい。

 Uptown girl
(アップタウン・ガール)
 She's been living in her uptown world
(あの娘は山の手に暮らすお嬢様)
 I bet she's never had a backstreet guy
(裏通りの男とは、まるで縁がない)
 I bet her momma never told her why
(ママから、その存在すら教わってないんだ)

ビデオの舞台は、うらぶれた下町のガソリンスタンドである。ビリーを始め、油まみれの男たちが働いている。と、そこへ場違いな1台の高級車―― ロールス・ロイス・ファントムVがやってくる。後部座席には、美しく着飾ったスーパーモデルのクリスティ・ブリンクリー。一気にテンションが上がるビリー。

 I'm gonna try for an uptown girl
(あの娘にアタックしてみるよ)
 She's been living in her white bread world
(彼女は退屈な世界にいるんだ)
 As long as anyone with hot blood can
(情熱あふれる誰かが現れるまでは――)
 And now she's looking for a downtown man
(そう、彼女は今、下町の男を探している)
 That's what I am
(それが、僕さ)

“それが僕さ”―― 手に持ったスパナで自分を指すビリー。凄い自信だ。実際、ビデオの中でもビリーは彼女を口説き落とし、一緒にダンスまで踊り、最後はバイクの後ろに乗せて、タンデムで街へと繰り出す。私生活で2人が結婚するのは、同アルバムのリリースから1年半後の1985年3月である。



余談だが、それから数年が過ぎた1990年晩秋―― フジテレビの『邦ちゃんのやまだかつてないテレビ』に、KANの「愛は勝つ」が起用される。同曲は間もなく火が着き、翌91年にかけてセールスを伸ばし、遂には200万枚を突破。その年の日本レコード大賞を受賞し、KANは『NHK紅白歌合戦』にも出場した。

当時、僕ら城南高校水泳部の後輩たちの驚きと言ったらなかった。木村和先輩がプロのミュージシャンになった話は聞いていたが、正直、この展開は予想外だった。何より、曲が最高に素晴らしかった。それは、KANさんが公言する通り、ビリー・ジョエルの「アップタウン・ガール」をオマージュしたものだった。



そう、エンタテインメントにおけるクリエイティブとは、0から1を生み出すものではなく、1を2や3にアップグレードする作業である。


2018年8月8日に掲載された記事をアップデート

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2023.08.08
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1967年生まれ
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