リレー連載【1984年の革命】vol.1
マイケル・ジャクソン「スリラー」世界中の度肝を抜いた音楽ビデオ!
”近未来” はまだまだ先の話だった1984年
世紀末のカタルシスをあおって世を騒然とさせた『ノストラダムスの大予言』がピークを迎えた1999年よりも15年前、近未来の統治国家による恐怖を描いたジョージ・オーウェルのSF名著『1984』が映画化された。同じく近未来のエレクトリックな統治に警鐘を鳴らした映画『ブレードランナー』(1982年)がヒットしたころ、小説『1984』を読んだ筆者は、間もなくやってくる1984年を内心ドキドキして迎えたのを覚えている。
世界各国ではそんな気持ちで1984年を迎えた人は、案外多かったのではないだろうか。もちろん小説や映画で描かれたような統治国家になることもなく、”近未来” はまだまだ先の話なのかと、1984年を迎えたころには痛感・安堵するわけだが…。
ピークを迎えた第2次ブリティッシュ・インベイジョン
映画『1984』の主題歌「Sex Crime(1984)」を歌っていたのはイギリスの大人気新進グループ、ユーリズミックスだった。前年1983年に「スウィート・ドリームス」をもってして全米ナンバーワンを筆頭に世界的ブレイクを果たし、いわば1983~1984年にピークを迎えた第2次ブリティッシュ・インベイジョンの、デュラン・デュラン、カルチャー・クラブ、ワム!らと並んで中心的存在だったグループだ。
そう、1984年を迎えるころ、世の中はアンドロイドやコンピューターといったエレクトリックに統治されることはなかったが、大衆音楽界はエレクトリック(広い意味でのエレポップ)化を纏った第2次ブリティッシュ・インベイジョンに支配されていた。それほどニューウェーブを通過した新進イギリス勢によるエレポップ旋風は、それはそれは大きなものだったと言えよう。
もちろん1970~1980年代の大衆音楽界は、新しいジャンルや現象が同時多発的に勃発しては大爆発~定着、あるいは退廃… という繰り返しによって歴史が作られており、この時期も第2次ブリティッシュ・インベイジョン一辺倒だったわけではない。しかし見えるラジオを標榜した1981年のMTV開局を追い風として、ビジュアル戦略に長けていたイギリス勢によるビジュアル弾の連発が、第2次ブリティッシュ・インベイジョン一辺倒というイメージの刷り込みにひと役買っていたのは、紛れもない事実であろう。
1983年が終わる時点で「スリラー」から6枚のシングルがトップテン入り
さて、第2次ブリティッシュ・インベイジョン元年ともいうべき1983年、ビルボードチャートの本国たるアメリカ勢は、ただただ英国台風が過ぎ去るのを指をくわえて待っていたのだろうか。もちろん決してそんなことはなかった。前年1982年末にアルバム『スリラー』をリリースしたマイケル・ジャクソンは、82〜83年にかけてアルバムから6枚のシングルをトップテンに送り込んでいた。
コモドアーズから満を持してソロデビューしたライオネル・リッチーは、83〜84年だけでも7作ものトップテン・ヒットを放っていた。アメリカを代表するシンガーとして君臨したビリー・ジョエルは、名作『イノセント・マン』(83年)をリリース。アルバムからトップ40ヒットを連発した。彼らは既にベテランシンガーと言っていいような立ち位置にいたが、新進アーティストとしてはいよいよプリンスがアルバム『1999』(1982年)でブレイク、大いに気を吐いていた。
マイケル・ジャクソン世界的スーパースター化
しかしシーンを俯瞰して見れば、次から次へとフレッシュなアーティストを輩出してきた第2次ブリティッシュ・インベイジョン旋風には、どうしても押され気味なアメリカ勢というイメージは日に日に蓄積されていったというのは否めない。それは英国勢による派手なビジュアル戦略、MV(ミュージックビデオ)攻勢がとにかく束になってかかってきたわけで、チャート実績としては申し分のなかったマイケル・ジャクソン陣営でさえも、ことに1983年のビジュアル関連に関しては英国勢に追いつけていなかったと認めざるをえなかったのだろう。
しかしアメリカ勢、というかマイケル・ジャクソンは諦めていなかった。マイケル陣営が総力をあげて “マイケル・ジャクソン世界的スーパースター化” を明確に目論むにあたり、打倒英国勢は必須だと感じたに違いない。
世界同時解禁!「スリラー」ミュージックビデオ
1983年も終わりに近づくころ、マイケル陣営はビジュアル戦略に本腰を入れたのだ!そう、それこそが世界の度肝を抜いた「スリラー」のMVだ。アルバムから7枚目のシングル「スリラー」を、なんと前代未聞の映画仕立ての長尺ミュージックビデオを作成する。
しかもそれを1983年12月2日に世界同時解禁。米はMTV、日本は『ベストヒットUSA』だった。さらにアルバムチャートの1位週数をまだ伸ばす(この時点でアルバムチャートのトップ10にほぼ1年エントリー)等々、すべて規格外の施策を打ち出してきた。
これはもう真正面から英国勢へのビジュアル面での宣戦布告ともいえるもので、エンターテイメント界のナンバーワンはアメリカであるべきという自負が見え隠れするものだった。第2次ブリティッシュ・インベイジョン最盛期に投下されたアメリカからのビジュアル爆弾、これはもう世界の音楽ファンが固唾をのんで見守っていたのは言うまでもない。
大成功をおさめた「スリラー」はアメリカを鼓舞する火付け役に
歴史が証明しているが、結論から言うとミュージックビデオ「スリラー」は世界を震撼させたと同時に大成功をおさめた。マイケル陣営の目論見は見事にあたったのだ。「スリラー」は翌1984年3月にはビルボード “Hot 100” にて最高位4位を記録、それに引っ張られたかのようにMV戦略に重きを置いた新旧アメリカ勢がヒットチャート上位を賑わせ始めた。
第2次ブリティッシュ・インベイジョン一辺倒のようにみえた1983年から一転、1984年は英米勢の華麗なる拮抗という構図が常に見られるようになったのだ。特に80年代を代表する2大女性アーティスト、シンディ・ローパーとマドンナが一般的なブレイクを果たしたのは大きかったし、アメリカ勢のビジュアル戦力に弾みをつけたのは間違いない。
1984年… 第2次ブリティッシュ・インベイジョンが引き続き隆盛であったものの、“アメリカからの逆襲” が世の中に刷り込まれていった年だった。それはとにもかくにもマイケル・ジャクソン「スリラー」が、アメリカを鼓舞する火付け役になっていたのではないだろうか。それはまさに革命であった。
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2024.01.23