来年2020年、結成40周年を期にあの横浜銀蝿が、「横浜銀蝿40th」として完全復活する。1983年の解散以来バンドを離れていたリードギター Johnny 参加のニュースも含め、9月14日に正式に発表された。全国紙の全段ぶち抜き広告など、華々しいアナウンスを目にした人も多いだろう。
今回の復活発表にあたり、週刊プレイボーイ誌にて4人のインタビュー記事を書いた(取材記事は現在発売中9月14日発売特大合併号に掲載中。WEBでも近日掲載予定)。なんと39年前、横浜銀蝿を初めて取り上げたメディアが1980年9月30日号の同誌だったのだそうだ。
横浜銀蝿と言えば、1980年代前半の不良・ツッパリブームのど真ん中にいたロックンロール・バンドだ。いかにもアウトローという、リーゼント、サングラス、黒の革ジャン、白いドカンという暴走族スタイルなのに、誰もがとっつきやすい人気バンド。
小学生時代、掃除の時間にはホウキを持って真似をしたし、全校お楽しみ会では皆で体育館で「ツッパリHigh School Rock’n Roll」で踊り狂った。強面ビジュアルに反して、音楽性や歌詞がキャッチー、とにかくポジティブなのが人気の秘訣だったのだろう。
彼らのあのスタイルは、果たして大真面目だったのか、作り物だったのか、一体何だったのか!? 子ども時代にはわからなかったことを、今こそ確認するチャンスだと思って取材に臨んだ。横浜銀蝿コラム仏恥義理3連発、今回は80年代当時の横浜銀蝿について書いていきたい。
「バイクとか車とか、ツッパリ文化の言葉って俺達には当たり前。わざわざ歌詞にするもんじゃないと思ってたんですよ」と Johnny は言う。学校もタイマンもしりとりも、電車の中での一服も、なんでもありのままにロックンロールにしてしまった銀蝿。日常密着型ツッパリと言えるが、最初は「ベイビー」とか「サタデーナイト」とか、いわゆるロックンロール定番のカッコいい歌詞ばかり書いていたそうだ。
すると、彼らのレコード会社キングレコードのディレクター、元ジャックスの水橋春夫氏に「君たちは暴走族やってるのになんでその世界の言葉で書かないの? 自分たちにしか歌えない歌はないの?」と問われたという。よくデビューした途端に「お前らはこのスタイルでいけ」と、売るため、マーケティングのためにスタイルを強制されるという話しはあるが、銀蝿は逆だった。
「大人が俺達の世界観を引き出してくれた」のだそうだ。そう語るボーカルの翔の表情は、とても幸せそうだった(目はサングラスで見えないが)。「売りたいとか、売れなきゃいけないとか、誰かにやらされてるんでもなくて、やりたいことをやっていた感じだよ」と Johnny も言う。
実際の彼らの、リアルなツッパリ生活はどんなものだったか。例えば学生時代、翔は中学教師に角材、時には金属バットで殴られ、ドラムでリーダーの嵐にいたっては「毎日喧嘩で血まみれ」で帰宅。タバコも吸えばバイクも乗り回す。それでも彼らは、昨今の「半グレ」みたいなものとはまったく違う、むしろ健康的な生活を送っていたそうだ。
不良はみんな、強くなるために体育会系部活にいそしんでいたというから驚く。太陽の下でカラッと元気、友達がいて、先生がいて、体と心を生でぶつけ合い、絆と根性を深めるツッパリエブリデーだった。そんな日常が、ポジティブで一生懸命、笑っちゃうほどピュアで猪突猛進な横浜銀蝿を生んだのかな、と思った。
「俺らのツッパリは無理に作ってきたスタイルじゃないからさ」と翔は言う。それでもしつこく、戦略はなかったのか? ターゲットは? と聞く私に翔は「背伸びしようとか、わざとどうしようかとかではなく、精一杯。なんでも精一杯。全力でいったら、ああなった」と笑っていた。その笑顔にかぶるように、脳内のカーステが、あの歌を鳴らした。
走り出したら止まらないぜ
土曜の夜の天使さ
うなる直管闇夜をさき
朝まで全開アクセルON
80年代のインタビューで翔は、「青春にウソをつきたくない。これが俺達のツッパリ」と自分たちのスタイルにこだわり理由を語っていた。横浜銀蝿40thでは、大人になったツッパリの、どんな全力疾走を見せてくれるのだろうか。
(続く)歌詞引用:
横浜銀蝿 / ぶっちぎりRock'n Roll
2019.09.21