7月1日

浜田省吾「風を感じて」:スージー鈴木の OSAKA TEENAGE BLUE 1980 vol.15

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OSAKA TEENAGE BLUE 1980~vol.15

■ 浜田省吾『風を感じて Easy to be happy』
作詞:浜田省吾・三浦徳子
作曲:浜田省吾
編曲:水谷公生
1979年7月1日

1979年、通い始めた塾「大日本帝國文華學院」


1979年春。中1になったのを機に、僕は塾に行くことにした。兄貴も通っていた塾だ。

その塾は、近所の商店街にある小さな美容院の2階に教室があり、いや、教室といっても6畳くらいの普通の和室に長テーブルが2つ。そこに生徒6人が3人ずつ分かれて、座布団に座る。塾というより寺子屋とでもいった雰囲気だ。

と、ここまでは、当時の大阪にありがちな普通の塾なのだが、この塾に関しては、少々風変わりなことがいくつかあって――。

まずはその名前――「大日本帝國文華學院」=だいにっぽん・ていこく・ぶんか・がくいん。

といっても、右がかった思想で運営された塾ではなく、単に先生による一種の洒落なのだが、なぜそんな変わった名前にしたのか、その根拠、そのセンスがまず、よく分からない。

自分の塾にそんな名前をつけ、「學長」と自称する先生自身も、もちろん風変わりな人だった。

京都大学を卒業したにもかかわらず、会社員にならず、もちろん実家の美容院も継がず、独身を貫き、この塾と、お寺のお坊さんの仕事で生計を立てているというから、謎が深い。というか、お坊さんというあたりが、いよいよ分からない。

さらには、狭い部屋で中学生6人を相手にしているにもかかわらず、授業中、缶入りピースを吸いまくる。部屋の中は始終モクモクと煙に溢れている。

――と、ここまでを読んで、そんな不穏な塾に、僕が送り込まれることなった理由を疑問に思う人も多いだろうが、我が街でそれなりに長く続いている塾で、意外にも評判もよく、つまりは「変わった塾、変わった先生やけど、そこに通(かよ)たら、勉強ができるようになる」と思われていたのだ。

とにもかくにも、中1になった僕は「大日本帝國文華學院」に通うこととなった。そこで先生、いや「學長」による授業の進め方に、僕はたびたび面食らうことになる。

「This is a pen」をどう訳す?


忘れられないのは、いちばん最初の英語の授業でのことだ。

「This is a penを訳しなさい」

ちょっと前に流行っていたドリフターズのギャグも思い出しながら、僕は答えた――「これはペンです」。

すると先生は問い直す――「正解は……それだけか?」

意味が分からず、僕がモゴモゴしていると、先生がさらに問うてくる――「お前は普通、そんな言葉遣いするんか?」

僕は、とっさに「これはペンや」と返してみた。残りの生徒が一斉に笑った。

「それも正解!」

と先生が言う。笑いながら僕を小馬鹿にしていた生徒たちが驚く。

「何で標準語で答えなあかんねん? 何で英文和訳になると、途端に東京弁になんねん? そんなん差別とちゃうんか?」

僕も残りの生徒も、急激な展開に付いていけない。

「あとな、『This is a pen』っていう状況を考えてみい。『これはペンや』って、どんな状況で言うと思う?」

と先生が問うてくる。調子のいい他の生徒が応える。

「ボールペン2本使(つこ)て、うどん食べ始めようとしてるとき」
「そうそう! って、そんなやつおるかい!(笑)」

先生のツッコミに一同、笑いに包まれる。先生が続ける。

「でも、ペンなんて普通間違えへんけど、箸とペンを間違えるアホが仮におったとして、そんなときに『これはペンや! 箸とちゃう!』って言うんやろな」

今度は一同、納得し始める。先生、さらに続ける。

「だから、ペンであることを強調する言い方が自然やな。ということは、『これはペンです』でもええけど、『これはペンや』も正解。でもいちばんの正解は……『これはペンやがなぁぁ!』」

ここまで来ると、英語の初回授業にもかかわらず、僕も含めた生徒一同は、大爆笑しながら、先生のとりこになり始める。

割り算不要論――「割り算は分数」数学にも表れる塾の個性


さらに数学の授業において、この塾の個性はより濃く発揮された。

先生は、たまに激怒することがある。生徒に、というより、学校で行われている表面的な教え方に。僕が、先生のカミナリを落とすのを初めて見たのは、他の生徒がこう言ったときだ。

「分数の割り算は、割る方の分数を反対にしてかけるんです」
「アホかーーー!!」

教室が静まり返った。

「そういうことを信じてると、いつまでも数字に使われるぞ。ちゃうねん、数字を使いこなす側に立つねん」

と言いながら突然、珍説をぶち始める。

「割り算なんかは、今日を限りに忘れてしまいなさい。俺に言わせれば―― 割り算は分数や」

と言いながら、その「割り算無用論」を、目の前のわら半紙を使って説明し始める。

「そもそも割り算の記号『÷』を見てみい。これ、分数のことやろ?」

確かにそうだ。でも、だからといって、小学校から習い続けてきた割り算を忘れていいものか。

「設問は何や? 2/3÷4/5か。それは、こういうことやろ?」

と言って、わら半紙にこう書いていく。



「ほら、こっちの方が全然分かりやすいやろ。分数を反対にしてかけたのと、たまさか結果は同(おんな)じやけど、そんな覚え方してると、覚え方自体を忘れたら解かれへんようになるで。それは、数字に使われるっちゅうことやねん」

圧巻だった。そして、かなり先走っていえば、あれから40年以上経ったにもかかわらず、今でも僕は、この解法を忘れたことがない。

CMから流れてきた浜田省吾「風を感じて」


塾は月曜と金曜の2回。塾のある月曜の前日=日曜日は、夕方にもなると、明日からの学校のことを思いながら暗くなる。この現象のことが、のちに「サザエさん症候群」と言われるようになるが、当時の僕にとっては「ヤングおー!おー!症候群」だった。

『ヤングおー!おー!』とは、当時、MBS毎日放送の制作で、日曜の夕方に放送されていたバラエティ番組だ。関西制作 / 全国ネットという、令和の世では珍しいかたちの番組。東京に比べての大阪の勢いが、まだ残っていたということなのだろう。

関西制作だけあって、桂三枝(現:文枝)を中心とした、上方の落語家や漫才師が多数登場する。また歌謡曲の歌手やアイドル、バンドやシンガーソングライターなど、幅広い音楽家も出演した。

僕が塾に通い始めた1979年の『ヤングおー!おー!』は、落語家と称するものの、まったく落語家然としてない若者=明石家さんまが頭角を現し始めた時期である。阪神タイガースの小林繁の物まねがたいそう受けていた。

そして、カップヌードルで知られる日清食品が提供していた。なので、番組を見ていると、明日からの学校のことを思って憂鬱になり始めた僕に向けて、カップヌードルのCMが何回も流れる。

中1だった頃のある日曜日。『ヤングおー!おー!』で流れたカップヌードルのCMで、僕は、ある気になる音楽に出会うこととなる。

―― ♪ It's so easy 走り出せよ Easy to be happy 風の青さを

CMの画面は、アメリカの風景の中、若者がいきいきと躍動しているさまを映し出している。そして、そのバックで、何とも陽気で、かつ、どこか新しい耳触りの音楽が流れる。

―― ♪ It's so easy うつろな夢 Easy to be happy ふり切って

この「It's so easy」「Easy to be happy」が、英語を覚えたての少年にとっては、とても新鮮だった。また、粋でかっこいい言い回しに思えた。

しかし、それだけでは終わらない。「It's so easy」「Easy to be happy」にうっとりしている僕に、強烈なフレーズを投げかけてくるのだ。

―― ♪自由に生きてく方法なんて100通りだってあるさ
―― ♪It's so easy Easy to be free

浜田省吾『風を感じて』。

僕を含めた当時の多くの少年少女が、この曲で「浜田省吾」という名前を憶えたはずだ。それから僕は、彼による何十通りもの名曲に溺れることになるのだが、とっかかりは『風を感じて』だ。とっかかりは「自由に生きてく方法なんて100通りだってあるさ」という文字列だ。

具体的な意味など分からないけれど、生き方にはバリエーションがあるんだ、それも何と100通りも、ということを信じ始めた。

僕が実際に知っている大人の生き方なんて、親と、担任と、大日本帝國文華學院の學長の3通りぐらいしかなかったのだが。

自由とはな…… 必然への洞察や


この塾での勉強も役に立ったのだろう。3年後、1982年の春、僕は志望校である府立高校に合格した。学区の中では上から3番目という感じで、超・有名校という感じではないが、それなりの受験校というポジションだ。

お礼方々、先生の下を訪れることにした。授業のない水曜日、美容院の入り口をくぐって、階段を駆け上がり、教室に座る。

「合格おめでとう。よう頑張ったな」

いつもより陽気な先生が声をかけてきた。そう言えば、この3年間、ずっと座り続けたこの位置、この座布団に座ることは、もうなくなってしまうのか。

「まぁまぁ、ええ高校に入ったけど、くれぐれも、ええ会社に入るために、ええ大学に入ろうとか、しょうもないこと考えるなよ」
「え、どういうことですか?」
「ええ会社に入ろうなんて、考えるな、ちゅうことや」

先生は、いつも話が早い。こちらが言葉を噛み締めている間に、次のテーマに進んでいる。今夜は授業ではないので、教室に僕しかいない。教室の上にある屋根裏から、僕のよく知らないジャズが流れている。

「ソニー・ロリンズ。知ってるか? 知らんやろなぁ」

僕は、歌謡曲やニューミュージックばかり聴く中学生だった。中2あたりから、やっとビートルズに目覚めたものの、ストーンズもツェッペリンもよく知らない。ましてやジャズなんかちんぷんかんぷんだ。

「俺は、がんばって勉強して、京大入ったけど、ええ会社に入るためなんかに、勉強したんとちゃうからな」
「先生は、ほな、何で京大に入ったんですか?」
「俺はな、自由になるために勉強したんや」

また、よく分からない唐突な展開。何だ「自由」って?

「英語に使われず、英語を使いこなす。数字に使われず、数字を使いこなす。英語も数字も俺の武器。俺が自由になるための武器や」

さぁ、何だかいよいよ濃くなってきた。先生の最終講義は、今までに増して、とんでもない内容になりそうだ。

ソニー・ロリンズとやらのテナーサックスがうなりを上げる。それに合わせて、沢田研二が『カサブランカ・ダンディ』で持っていたような平たいガラス瓶から、液体を口に含む。先生は、珍しく酒を飲んでいるようだ。

「でも京大入ったら愕然としたわ。不自由な奴ばっかり。あんだけ一緒に色んなことやったのに、入ったころの意志忘れて、みんなスーツ着て、ネクタイ締めて、髪の毛七三にして、就職しよった」

僕は、ピンときた。先生が京大でやった「色んなこと」とは学生運動のことだろう。70年安保闘争のことに違いない。まさにバンバンが歌う『「いちご白書」をもう一度』の世界だ。

酔いのせいか、先生にしては、珍しく感情が昂ぶっているようだった。そして、この学生運動話のあたりから、いつもの勝ち気なトーンが弱まり、どこか悲しげな表情になったのを、僕は見逃さなかった。

これまで先生が見せることのなかった、彼の人生を決定付けた悲しみ――。

「腹立ったから、俺は就職せんと、自分の知識を武器に、塾を開いて食うことにした。勉強で知識があったから、自由に生きれたんや」
「かっこいいやないですか」

先生の悲しげな表情を打ち消すように僕が返した。先生は続ける。

「あとな、みんな長髪をバッサリ落としよるから、じゃあ俺は、と、もっとバッサリ、ツルッパゲにして、坊主になったった。ええやろぉ!(笑)」

笑いでごまかしながら、先生は、もう会うことのない僕に、何か大切なことを言おうとしている気がする。だとしたら、その大切なことを、直接聞いてやろう。これが最終講義なのだから。

「先生、自由って……自由って何ですか?」

ちょっと押し黙った先生は、言葉を思い出すように、選ぶように、こうつぶやいた。

「自由はな、自由とはな…… 必然への洞察や」

僕は、この言い回しを後に、ある有名な哲学者が遺した言葉だと知ることになるのだが、そのときはまったく知らなかった。かつ言葉の意味に至っては、その後もずっと分からないまだった。

「分かるかぁ? 分からんやろなぁ。ワッハッハ(笑)。ところでお前、ジャズなんて聴くか?」
「聴きません。最近聴いてるんは、浜田省吾です」

『風を感じて』以来、浜田省吾を気に入り、この頃になると、レンタルレコード屋で彼のLPを借りて、せっせとダビングしていた。

「ハマダショウゴ? 知らんなぁ。ワッハッハ(笑)」

これが、僕が先生から聴いた最後の言葉になった。

自由に生きてく方法なんて100通りだってあるさ


1989年の夏、大学4年生になった僕は就職活動を始めている。人並みに、スーツを着て、ネクタイ締めて、髪型を七三にはしなかったものの、ビシッと短髪にした。

分数の割り算の解法はずっと忘れなかったのに、先生の最後の言葉は、忘れがちだった。いや、忘れよう忘れようとしていた。それでも何度も、心に蘇ってくる。

「ええ会社に入ろうなんて、考えるな」

就職以外の生き方など、当時の僕には想像つかなかった。だから、ゼミの連中と一緒に雁首揃えて、会社説明会や面接にいそいそと通う。

この年の夏は冷夏と言われたが、就職活動で僕が都内をウロウロする日は、なぜかいつも、うだるように暑かった。先生の言葉を思い出して、どこか悶々としながら、丸の内のあたりを歩いていると、就職活動用に新調した黒いカバンにしのばせたディスクマンから、あの曲が聴こえてきた。

―― ♪自由に生きてく方法なんて100通りだってあるさ

そのときである。僕は、自分の悶々とした気持ちがすーっと浄化される感じがしたのだ。

会社員という生き方。それは、もしかしたら先生が言うように、不自由なものかもしれない。

でも、もし会社員が不自由なのだとしたら、僕には別の自由の生き方が残っているんだ。それも100通りも。そして僕は、その100通りを、後々のためにとっておくという決断をしたのだ。

何と豊かな。何たる余裕。

そう考えると、気持ちがまるで浄化されたように、落ち着いていくのが分かった。そして就職活動に向けて、やっと腹をくくれたのだ。

いつか会社員を辞める日が来るかもしれない。そのとき僕は、100通りの中から、人任せ・運任せの偶然に委ねるのではなく、自分にとって、自由になれる必然的な生き方を1つ、選択することだろう。

「あっ、必然…… これが必然への洞察ということか!」

東京丸の内、日本のビジネスの中心地の舗道の上で、真っ青な空に目を向けながら、僕は思った。

僕に残された自由な生き方は「100/100」、いつかその中から選ぶであろう、必然的な生き方は「1/100」。こんなシンプルな分数は、解法も簡単なはずだ。

僕は、解答欄にこう書くだろう――「It's so easy. Easy to be free」。

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2022.05.28
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2022/05/28 09:45
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