9月12日

ライブを演らないロックバンド “XTC” とアンディ・パートリッジの不幸とは?

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XTC / Black Sea


ライブをやめたバンドたち


レコード制作とライブ活動はプロミュージシャンの2大メインワークです。レコード、CD、配信の売上がレーベルの主な収入であり、アーティストやソングライターに印税をもたらします。コンサートはアーティストおよびそのマネージメントの直接の収入、そしてレコードを宣伝するための大きな手段でもあります。レコードが売れれば、ライブの集客も増えるし、当然その逆もある、ということでアーティスト業にとっての言わば両輪なわけですが、たまに、ライブをやらず音源制作に専念する人たちもいますね。すぐに思い浮かぶのが、“The Beatles” と “Steely Dan”、そして “XTC”。

いずれも初めの内は当たり前のようにライブをしていたけれど、ある時期に撤退しました。理由はそれぞれです。ビートルズは、まだPAも貧弱だった時代、演奏よりも観客の、特に黄色い歓声のほうが大きく、誰もまともに音楽を聴いてやしない、とライブに嫌気がさし、一方、音楽制作面では試してみたいアイデアが泉のようにあふれ、新しい音楽づくりにもっと時間をかけたいと、ライブ撤退を決めました。その結果として生まれたアルバム『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』は世界中から絶賛を浴びましたね。

スティーリー・ダンは元々ドナルド・フェイゲンとウォルター・ベッカーのソングライティングユニットだったのが、レコードを出そうということになり、それならばライブの必要もあるからと、ドラマー、ギタリスト2人にシンガーまで加えて、6人組のバンドとして出発しましたが、とにかく、ライブより一分の隙もない音づくりのほうに強い興味があった二人は、バンドメンバーの意向などおかまいなく、外部の一流ミュージシャンを使ってレコーディングするようになります。不満が昂じたギターのジェフ・バクスター(Jeff Baxter)とドラムのジム・ホッダー(Jim Hodder)は3rdアルバム『Pretzel Logic』(1974)の後のツアーが終わると、バンドを辞めてしまいました。それを理由にフェイゲンたちはライブ活動を放棄し、ますます理想の音楽追求の道を邁進したのでした。

XTCとマネージャーとVirginの悲惨な関係


ビートルズやスティーリー・ダンは円満撤退と言うか、当人たちの意志ははっきりしていたし、周りも一応は納得しました。何より、ビートルズはライブなどしなくてもレコードは売れまくっていたし、それには遠く及ばないまでも、スティーリー・ダンも充分に売れていたので、納得を得られたというわけです。

ところが、XTCの場合は違っていました。リーダー格のアンディ・パートリッジ(Andy Partridge)の精神的な病によってツアーを途中で取り止めるという事態が発生したのです。

4枚目のアルバム『Black Sea』リリース後のツアー中にパートリッジは、時に自分が誰だか解らなくなるような症状に襲われ、ツアーの中断を求めたのですが、レーベルのVirginとマネージメント、他のメンバーにも反対され、なんとか続行しました。それまではパートリッジの激しいライブパフォーマンスがバンドの売りでもあったので、メンバーにはその不調は一時的なものとしか思えなかったのです。しかし次作『English Settlement』(1982)後の米国ツアー中、1982年4月4日の朝、パートリッジは身体がまったく動かず、吐き気が止まらないという状態にまで至り、当日のLA、ハリウッド・パラディアム以降のスケジュールはキャンセルするしかありませんでした。

以後、XTCはライブ活動から撤退したのですが、こういう経緯ですから円満どころではありません。まずキャンセルによる赤字が20,000ポンド、今の金額で1000万円くらいですが、今までの蓄えがあるだろうから、とマネージャーのイアン・レイド(Ian Reid)に相談すると、彼は「君たちが私に負債がある」と一切の協力を拒否しました。バンドはVirginと交渉し、さらに6枚の新作アルバムの制作義務と、その印税で相殺することを条件に、借金を肩代りしてもらいました。ところが、その印税率が最低レベルのままだったのです。

実はレイドはとんでもない男で、Virginとの契約では、バンドの利益は全く顧みず、その分自分に有利なものとしていました。しかも印税を担保に、私的用途のために、Virginから多額の借金もしていたのです。さらには、これまでの収益に対する付加価値税(消費税のようなもの)の処理を誤り、その膨大な金額(パートリッジ曰く30万ポンド)をバンドの負債にしていたことが発覚するにおよんで、パートリッジたちは迷わずレイドを訴えました。ふてぶてしくも、レイドは「マネージメント手数料が払われていない」と逆訴訟。結局その後10年間、バンドの稼ぎはほぼ訴訟費用に消えていきました。

やっとそれが決着したあともまだ、レイドのVirginからの借金が残っており、契約書によれば、それもバンドに返済の責任がありました。Virginとの契約は20年以上もの長きに渡り、何枚かのアルバムはゴールドやプラチナを獲得したにも関わらず、XTCにはレコードの印税はほとんど入らなかったと言われています。

とんでもない悲惨な状況の中、彼らはあんなに良質なアルバムをつくり続けていたわけですが、ツアー撤退の影響はもちろん音楽内容にも及んでいます。

撤退が決定したのは、前述の通り、『English Settlement』のリリース後なのですが、その前のツアーでの経験から、パートリッジには予感があったんでしょう。『Black Sea』まではライブでできないアレンジは持ち込まないという原則を自分たちに課していたのですが、『English Settlement』にはアコースティックギターやシンセ類が多用され、ぐっとカラフルなサウンドに様変わりしています。

ライブ放棄に強く異を唱えたのはドラマーのテリー・チェンバース(Terry Chambers)でした。チェンバースは曲をつくらないので著作権収入もありませんし、前述のようにレコードの印税は相殺されてしまいますから、当然でしょうね(ギター&キーボードのデイヴ・グレゴリー(Dave Gregory)も曲はつくらなかったので条件は同じですが…)。その次の6thアルバム『Mummer』のレコーディング途中で、彼はバンドを去っていきました。

アルバム「Black Sea」の位置


遡ると、最初2枚のアルバムではグレゴリーがいなくて、キーボードのバリー・アンドリュース(Barry Andrews)がメンバーでした。彼は自分の曲をほとんど採用してくれないことに腹を立て、早々と脱退を決めました。

その後任に、キーボードよりもギターがメインのグレゴリーが参加します。ところで、アンドリュースはロンドン出身ですが、それ以外の3人はスウィンドンというロンドンから100kmあまり西にある町の出身で、グレゴリーもその町なんです。実はパートリッジとグレゴリーは少年時代からの知り合い。1975年には一度参加も検討しましたが、なぜかやめています(デビューは1978年)。

そんなわけで、グレゴリーの加入で、同郷の、3年以内の年齢差の若者たちという、気のおけない4人の集団になりました。意思の疎通や結束力の高さにおいてはこれ以上は望めないという関係が生まれたのです。

そして、スティーヴ・リリーホワイト(Steve Lilywhite)、ヒュー・パジャム(Hugh padgham)という当時新進気鋭のプロデューサーとエンジニアを招き、3rdアルバム『Drums and Wires』(1979)を制作します。

XTCの音楽はよく「ひねくれポップ」などと言われます。最初のアルバムからけっこう “ひねくれた” 音でしたが、『Drums and Wires』からはポップ度がグッと上がります。加えて、サウンドが実に生き生きしている。グレゴリー加入による結束力アップや、それまでのライブ稼業で鍛え上げられたスキル、前述の「ライブを前提にした音づくり」、もちろんリリーホワイトとパジャムのノウハウなどが、相俟っての結果だと思います。

その延長上にあるのが、4thアルバムの『Black Sea』です。同じくリリーホワイトとパジャムが関わっているので、同じ路線なのはもっともなのですが、「Making Plans for Nigel」ほどのポップな曲がないので、やや地味ではあるものの、ひねくれ / ポップ / グルーヴの3拍子の充実度で言えば、こちらのほうがいいかもしれません。いずれにせよ、このアルバムのあと、前述のような状況により、バンドとしてのグルーヴはやはり低下していきますし、音楽の深さや広がりといった面では進化していくとは言え、ハツラツとした感じやロックっぽい楽しさという、バンドとしてだいじな、だけど得難いものが、しっかりあるこの2アルバムが、XTCの最盛期と言ってもいいんじゃないでしょうか。

裏でいろんなことが始まっていた「Black Sea」


ただその2つの微妙な違いも興味深いです。『Drums and Wires』からのシングルカット「Making Plans for Nigel」と、その一つ前のシングル「Life Begins at the Hop」(1979年4月)はXTCにとってようやく出たヒットですが、いずれもベースのコリン・ムールディング(Colin Moulding)の曲で、歌も彼が歌っています。いつも1アルバムにつき3曲くらいがムールディング、あとはすべてパートリッジがつくるのですが、それなのに、ムールディングの曲のほうがヒットポテンシャルが高い。『Black Sea』からの第1弾シングル「Generals and Majors」もムールディングの曲です。パートリッジはちょっと焦って、『Drums and Wires』のあと、シングル企画で「Wait Till Your Boat Goes Down」を書き、これはXTCの「Hey Jude」だと、自信を持ってリリースしたのですが、チャートインもできませんでした。

なので、『Black Sea』ではもっとポップな、ヒット性のある曲をつくろうと、パートリッジはがんばっていたんじゃないでしょうかね。「Towers of London」が2枚目のシングルとしてカットされましたが、パートリッジが売ろうとして力を入れ過ぎたらこうなるんだろうなと思えるような、イマイチな曲です。そして、ほんとは自分たち(つまり自分)でプロデュースしたかったんだけど、Virginがそれを許さず、リリーホワイトの続投となった、という話もあります。パートリッジ自身は『Drums and Wires』の時ほどの楽しい気分じゃなかったかもしれません。

かなり神経質なんだろうな、と思われるパートリッジにとっては、そういう小さなストレスの積み重ねが、ライブステージに立てないほどの精神的ダメージにつながっていったんじゃないでしょうか。彼とXTCの不幸はこの『Black Sea』あたりから始まっていたと言えそうです。

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2022.04.07
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カタリベ
1954年生まれ
ふくおかとも彦
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