リ・リ・リリッスン・エイティーズ~ 80年代を聴き返す~ Vol.26
U2 / BOY世界最強バンドにしてはつまらなすぎるデビューアルバム? U2「Boy」
どんなアーティストもデビューアルバムはだいたい充実しているものです。それまでの蓄積をそこで一度に放出しますからね。何作も残したけど結局デビューアルバムを超えられなかった、というアーティストも少なからずいます。
でも、彼らはそれには当てはまらない。…“U2”です。
3rdアルバム『WAR(闘)』(1983)、そこに収録された「Sunday Bloody Sunday」、「New Year's Day」を聴いて、好きになったから、デビューアルバム『Boy』(あるいは2nd『アイリッシュ・オクトーバー(OCTOBER)』)に遡ったという人が多いんじゃないでしょうか? 私もその一人でした。で、『Boy』を聴いてみたけど、全然面白くなかった。CDを買ったけど、1回聴いただけで、棚の飾り物になってしまいました。
そして彼らは、『War』以降は、『The Unforgettable Fire(焔)』(1984)、『The Joshua Tree』(1987)、『Achtung Baby』(1991)… 出せば必ず話題になる力作をつくり続け、なんとグラミー賞受賞22回という世界最強のロックバンドに成り上がってしまったので、今更、『Boy』について云々する人もなく、あのU2のデビュー作なんだから、とよく考えもせず崇められているような気がします。
だけどここでは、「80年代を聴き返す」がテーマですから、1980年発売のこの『Boy』をやはりちゃんと聴き返そうと思い、改めて棚から引っ張りだし、久々に再生してみました。… うーん、やはり最初の印象と変わりません。よいと思う曲が1曲もない。サウンドは『War』と共通する、張りつめたような緊迫感… 私は雪や氷の冷たさを感じるのですが… があって、悪くないんですが、これはプロデューサーのスティーヴ・リリーホワイト(Steve Lillywhite)のなせる技でしょう。でもメロディに光るものはなく、アレンジに工夫もありません。
常識的に佳作が多いはずのデビューアルバムなのに、あのU2なのに、なんでこんなにつまらないんだろう? とっても不思議に思いました。
私は音楽には好き嫌いが激しくて、嫌いなものは、どんなに売れていようと興味ありませんし、自信を持って「嫌い」と言えるのですが、U2は好きですから、逆に、『Boy』をよいと思わない自分が気になってしかたない…。
日英でまっぷたつだった当時の評価、その温度差はなぜ?
まあ、時代の感覚というものもあるでしょう。後追いで聴いたから分からないこともあるのかもしれない。当時の受け止め方はどうだったんだろう、と『ミュージック・マガジン』のバックナンバーを調べてみる。…なかなか見つからない… と思ったら国内盤の発売は1981年1月21日だったみたい。
この頃はこれくらいの時間差はよくありましたね。81年2月号の「アルバム・ピックアップ」コーナーで、1ページ、鈴木慶一さんが書いていました。ここにピックアップされるということは一応注目作品ということでしょうが、慶一さんの評価は一言で言えば「暗い」。米軍の特殊偵察機「U2」に例えて、ぶきみな黒い影のような暗さだと。褒めているのはプロデューサーのスティーヴ・リリーホワイトのセンスばかりで、U2については「彼等が今後ジャパンのような発達をするかどうかとなると、疑問だ」と完全に突き放しています。
おー、これは私の感じ方に近い。(少なくとも日本での)時代の空気による感覚の相違はあまり関係なさそうです。
ただ、『Boy』は日本では売れませんでしたが、アイルランドで13位、全英52位、全米63位と、悪くはないのです。評価も高かったようで、英国の音楽誌『メロディ・メイカー』など「その強力なライブパフォーマンスの上を行った」と褒めちぎっています。この違いはなんなのか。
考えられる可能性は2つ。ライブによって既に高い評価があった。レコードを聴くとそのライブが蘇るので、実際よりもよく聴こえたということ。もうひとつは歌詞がよかったこと。私には英語の歌詞の良し悪しは分かりません。
「Boy」制作までのU2の歩み
それを確かめるために、U2の伝記を読んでみました。『U2ストーリー』(原題『Unforgettable Fire: The Story of U2』)。イーモン・ダンフィ(Eamon Dunphy)という人が書いて野間けい子訳。1988年発行の古い本ですけど。
1976年の秋、ダブリンの中高一貫の学校「マウント・テンプル」に通う、当時15、6歳の少年たちが、ラリー・マレン・Jr. (Larry Mullen, Jr.)の呼びかけに応じて結成したバンドが、二度名前を変えて“U2”となります。当初、まともに楽器を演奏できたのはドラムのラリーのみで、のちに“ジ・エッジ(The Edge)”と呼ばれるデイヴ・エヴァンズ(David Evans)はギターの演奏よりも音づくりが得意、アダム・クレイトン(Adam Clayton)はなぜかアンプを持っていたが、ベースは初心者、のちに“ボノ(Bono)”と呼ばれるポール・ヒュースン(Paul Hewson)は肝っ玉は大きいけど、楽器ができないどころか歌も下手だったそうです。
1976年にパンクが登場したから、楽器ができなくても音楽はできると思ったんですね。少年たちは裕福ではなかったし、傷つきやすく、世の中に怒り、不安を抱えていました。ボノは74年に母を亡くし、ラリーも78年に母を亡くし、深い悲しみを味わいました。彼らはそんな心の鬱屈を音楽に昇華しようとしました。
ただ、ライブで、怒りをぶつけ、鬱憤を晴らすだけのパンクと違って、最初からU2は、特にボノは、観客との心のつながりを目指しました。「祈り」のような気持ちを音楽に変え、それを聴いて踊る人たちの意識を高揚させる。それが果たせないこともあったけど、演奏はまだまだ稚拙だったけれど、彼らは自分たちのめいっぱいの熱量をライブに注ぎ込みました。そして、うまく成功した時は、自分たちの魂が深く浄化されるのを感じたのです。
その歌詞も、それまでのロックやポップスからの借り物じゃなかった。技量のほどは分からないけど、自分たちの経験や思いから生まれた言葉でした。だからそこには真実があったのです。
彼らには、ヒット曲をつくるつもりも、その才覚もまだなかったけど、その若さで既に、音楽は自分たちの「生きざま」でした。
ふたりのキーマン、ポール・マクギネス、スティーヴ・リリーホワイト
そんな彼らのピュアそのものの生きざまに惹きつけられる人が少しずつ増えていきます。1978年5月、ポール・マクギネス(Paul McGuinness)という人が彼らのライブを観ました。名門トリニティ大学を卒業し、映画会社に務め、結婚したばかりの26歳。フォークロックバンドのマネージメントを1年務めた経験があったので、友人のジャーナリストからU2のマネージャーをやらないかともちかけられたのです。
ライブでの存在感に惹かれ、ルックスのよさに強みを感じましたが、マクギネスは、改めて前途の苦難を考え、躊躇します。だけどライブ後、メンバーと話す内、「いいかい、きみたち」… ここで“きみらが”と言うところを「“ぼくらが”入ろうとしているのはタフな商売の世界なんだよ…」とやってしまいます。
結局マクギネスがマネージャーになり、U2は彼のおかげで売れたようなものなのですが、個人というのがすごいですね。マネージメント会社なら会社の金である程度の先行投資はできるし、それがパーになってもスタッフの懐が痛むわけではありませんが、彼は蓄えもなかった。無謀としか思えませんが、彼は踏み出しました。
あのビートルズでさえ、Capitolがなかなかリリースしてくれなかったくらい、英国から米国に進出するのは簡単ではないのですが、U2はアイルランドですから、まず英国市場に参入するのも一苦労でした。EMIを初め、インターナショナルにネットワークを持つレコード会社には次々と断られ、最後の望みがアイランド・レコードでした。アイランドの社長、クリス・ブラックウェル(Chris Blackwell)は、「やる気のあるアーティストを長い目で応援する」という考え方の持ち主でした。ブラックウェルが直接ライブを観て契約を決めたのではありませんが、もしアイランドでなければ、『Boy』はヒット性の曲がないと文句を言われたり、プッシュをしてくれなくて、尻すぼみになっていったかもしれません。
もう一人の重要人物がプロデューサーのスティーヴ・リリーホワイト。実は、U2のアイランドでの最初のシングル「11 O'Clock Tick Tock」をプロデュースしたマーティン・ハネット(Martin Hannett)がアルバムをプロデュースする予定だったのですが、U2のメンバーは彼とはうまくいかず、替わってアイランドが指名したリリーホワイトとはハモったのです。彼はメンバーより5つくらい上。レコーディングをした1980年には25歳です。登場人物たちの若さに改めて驚きます。今やビッグネームなので、優秀なプロデューサーが新人バンドを引き受けたというイメージになってしまいがちですが、当時の彼は“Siouxsie and The Banshees”での小ヒットがあったくらいで、U2とともに名声を得たようなものです。
ラリーのドラムをスタジオの階段吹き抜けの下で叩かせて、あの残響感を出し、エッジには思う存分ギターの音の実験をさせ、アダムは自信がなさそうだったので、勇気づけ、特訓した… そうです。メンバーの長所を活かしつつ、リリーホワイトがつくり上げたあの独特のサウンドによって、『Boy』はヒット曲がなくても闘えるアルバムになったのかもしれません。
巨大なのびしろだった? 「Boy」の物足りなさ
ということで、『Boy』とは、演奏力はまだまだで、ヒット曲のつくり方も分からないけれど、音楽に対する純粋でひたむきな情熱のみは誰にも負けないU2のメンバーが、同等あるいはそれ以上の情熱を持って、彼らを支えることを決めた大人の… と言っても若い… 人たちとともにつくり上げた最初の作品でした。大人たちがいなければ世に出すことはできなかったけれど、その大人たちを魅了したのは彼らの生きざま(=LIVES)でした。
そしてそこにあるのは巨大な“のびしろ”。その巨大さは、おそらくマネージャーのポール・マクギネスも、この時点では想像もしていなかったレベルなんですが。
… で、ここでもう一度、『Boy』を聴いています。こないだよりちょっとだけ好きになりました。
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2022.03.02