とある夜遅く。プリンスの他人への提供曲のデモテープをまとめたアルバム、『オリジナルズ』が手元に届いた。ライナーや、ブックレットを読みながら、何度となく繰り返し聴いた。
恐らく、周囲のマネージャーやスタッフも、幾らでもこの手のセルフカバーアルバムを作るよう、プリンス本人に進言もしていたろうに、結局彼は首を縦に振らず、自身が還らぬ存在になるまで実現しなかった理由は何だったのだろう?
まず、何よりもプリンスは、提供するアーティストやバンドによって鳴らされる時に、その曲が最高に響くような楽曲制作を徹底していた、ということに尽きる。
もし、プリンスが本気で、自分のアルバムに、これらのナンバーを収録しようとしていたら、アレンジを変え、キーや BPM を調整し、前後の曲順にフィットするようにキッチリ手直ししただろう。まぁ、彼の中の基準に達しなかったがために、お蔵入りになったり、他人に提供した曲も当然あるだろうが。
このアルバムを聴いて、デモを録った当時のプリンスのレコーディング環境を考えたり、ラフスケッチのようなアレンジやガイド・ヴォーカルの力の抜け具合など、聴くたびに新しい発見がある。
プリンス自身のアルバム『アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ』(1985年リリース)に「マニック・マンデー」が収録されてたら、やっぱりA面トップだったのか? とか、「ナッシング・コンペアーズ・トゥ・ユー」は、他人に贈るからこそ書けた歌詞だな… とか、想像の翼は広がる一方になる。そして今後のリスナーが、この稀代のソングライターの創作の秘密の一端にアクセスする、絶好の近道になるのは間違いない。
生前、プリンスは自身の単独のコンサートよりは、いわゆるゲスト出演で、本領を発揮したように思う。
例えば85年のグラミー賞授賞式で、レボリューションや、シーラ・Eをバックに従えてプレイした「ダイ・フォー・ユー(I Would Die 4 U)」「ベイビー・アイム・ア・スター」。そして、ロックンロール・ホール・オブ・フェイムでの、ジョージ・ハリスンへのトリビュート・パフォーマンス「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」だ。
とくに後者では、凄腕揃いの名だたるミュージシャンと揃ってジャムをしてる中で、曲の終盤に強烈なギターソロを披露し、その模様は当時のニュース番組でも紹介されたほどだ。
もし、シーラ・Eや、ザ・タイムのライブにプリンス本人が飛び入り共演していたなら、場合によっては主役の存在感をかき消し、もっと言えばオリジナルを凌駕する印象を残してしまうことだろう。
おそらくそれは、プリンス本人もわかっていて、だからあえて実現させなかった。これは、プリンスが自身の技量を俯瞰で見て、意識的に使い所を見極めることが出来たからだ… と今は思う。
今更ながら惜しまれるのは、不慮にして偶発的な事故とはいえ、鎮痛剤の過剰接種で突然最期を迎えてしまったこと。最後の2枚のアルバム『ヒット・アンド・ラン・フェーズ・ワン』、『ヒット・アンド・ラン・フェーズ・ツー』で、全盛期のアレンジや音に対する感覚が呼び覚まされたように思えた矢先だった。
あれだけ特異で、個性的なキャラクターだっただけに、彼が遺した膨大な傑作群の印象が何よりも強い。これは、ミュージシャンにとって、最大級の賛辞に等しいと思うし、今後も何かにつけて、引き合いに出されることは間違いない。
リアルタイムで、その存在の凄さを感じさせた、稀有な異端児が居なくなってしまったことを心から残念に思う。「ナッシング・コンペアーズ・トゥ・ユー」は、今やファンがプリンスを追憶する静謐な歌へと昇華した。失ったものはあまりにも大きい。
2019.07.24
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