7月1日

ジャニーズじゃない男性アイドル列伝!竹宏治こと清水宏次朗は竹の子族からデビュー

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“竹の子族” のネーミングの由来は?


このシリーズは、必ずしもメインストリームには属さなかった80年代の男性アイドルの存在をリマインドするものである。

“竹の子族” とは、80年代前期に東京・原宿の歩行者天国で奇抜な衣装を着用し、ラジカセから流れるディスコサウンドなどに合わせて踊っていた集団の総称である。ネーミングの由来には諸説あるが、原宿などに店舗があった「ブティック竹の子」で購入した “ハーレムスーツ” と呼ばれる衣装を着ている場合が多かったから── というのが一般的だ。

“ハーレムスーツ“ とは、袖ぐりが深くゆったりとしたドルマンスリーブの上着と、たっぷりしたシルエットだが足首が締まったパンツとで成り立っている。また、襟元が和服風であるなど、日本的なテイストが盛り込まれているのが大きな特徴だった。

竹の子族からデビューした沖田浩之、そして若き日の清水宏次朗


竹の子族の存在はメディアで一種の社会現象として扱われた。1981年3月には竹の子族出身という経歴を持ったアイドル・沖田浩之が「E気持」という曲でレコードデビューを果たしている。



だが、ここで取り上げたいのは沖田ではない。その3か月後に「舞・舞・舞(まい・まい・まい)」(作詞:山川啓介・作曲:網倉一也・編曲:小笠原寛)という曲でデビューしたもう一人の竹の子族出身アイドルだ。当時17歳、名前を竹宏治(たけ こうじ)といった。のちに俳優として多くの作品に出演する清水宏次朗の若き日の姿である。

沖田は歌手活動に竹の子族の要素をほとんど取り入れなかったのに対し、竹宏治は経歴を前面に押し出した。そもそも芸名の苗字が「竹」なのだ。竹の子族出身だから「竹」。「竹田」「竹村」「竹内」などではなく「竹」。芸名そのものが、実にわかりやすいアイキャッチだった。

レコードジャケットにも注目したい。名前の上には現役竹の子族のリーダーという肩書きが堂々と記されている。その肩書きの “竹の子” の部分は、「ブティック竹の子」のロゴを使用した。さらに「プロデュース 竹の子・生みの親・大竹竹則」というクレジットも入っている。

大竹竹則とは「ブティック竹の子」の創業者であり、ハーレムスーツをデザインした人物だ。つまり、竹宏治は「ブティック竹の子」の公認アイドルという位置づけなのだろう。ジャケット裏面のプロフィール欄によれば、所属事務所は「竹の子プロダクション」とある。何から何まで “竹の子づくし” なのだ。

そして、ジャケットで何より目立つのは、斜めにデザインされた竹の子族ファッションの竹宏治の姿だ。顔にキツめのメイクを施すのも、カンフーシューズを履くのも竹の子族流のスタイルだ。

デビュー曲「舞・舞・舞」は実験的要素にあふれた傑作だったが…


竹宏治のデビュー曲はジャケットのみならず、曲もコンセプトワークが徹底されている。竹の子族は衣装だけではなく、グループ名もジャポネスクなものを好んだ。たとえば「愛羅舞優」「卑弥呼」「異次元」「不恋達」「麗羅」といった漢字表記が圧倒的に多かったのだ。曲名の「舞・舞・舞」は、そことリンクしたものだろう。

そして、歌詞には「熱い渦」「美しい祭り」「うす紅色」など、なんとなく日本的なワードが織り込まれている。80年代なら通常は「ハリケーン」とでも表現されそうな部分には「つむじ風」というワードが用いられる。それらがマイナーコードのディスコ歌謡調のメロディに乗っている。

特筆すべきなのはそのアレンジだ。シンセサイザーによるものと思われる三味線や鼓のような音が随所に挿入されるのだ。

1981年の時点ではかなり実験的なことをやっていたといえる。鼓を思わせる「ポン、ポン、ポン」という音が心地いい。“グレート・ムタの入場テーマ曲を彷彿させる” と表現すればイメージできる人も少なからずいるだろう。

当時は、早朝や深夜までアイドルが出演できるテレビ番組が多かったので、男女各1名のバックダンサーを従えた竹宏治のパフォーマンスを見かける機会はそれなりにあった。荒削りながら低音の押しが強いそのヴォーカルは非凡な才能を感じさせるものだった。歌唱後にバク転を見せて身体能力の高さも披露した。だが、それがブレイクには結びつかなかった。

同年中に2枚のオリジナルアルバム(ほとんど曲が重複していた)と、「I Need You」というセカンドシングルをリリースしただけで竹宏治の活動は終わっている。

あれだけ竹の子を推したのに、明治「たけのこの里」のCMに出演するチャンスもなかった。やがて、竹の子族そのものも下火になっていった。

シティポップ路線で再デビューも不発。しかし、3度目のチャンスをものにする!


短期間で表舞台から姿を消した竹宏治だが、その端正な顔立ちとヴォーカリストとしての才能をエンターテイメント業界は放っておかなかった。2年後、本名の清水宏次朗名義で再デビューとなるのだ。

1984年4月にリリースされた再デビュー曲「ビリー・ジョエルは似合わない」は、林哲司作曲による今なら “シティポップ” と遇されるような都会的な楽曲である。ビジュアルも含め、竹の子族の色はナッシング。秋元康による歌詞には「昔のことなどもう忘れよう」というフレーズがあった。

竹宏治改め清水宏次朗はこの曲を引っ提げ、「第13回東京音楽祭」の国内大会(新人が対象の大会)に出場しグランプリを獲得。次に西城秀樹や吉川晃司とともに日本代表としてローラ・ブラニガンやリマールも出場した世界大会に出場した。

華々しい再デビューだったものの、「ビリー・ジョエルは似合わない」も、その後の数枚のシングルもヒットには至らなかった。



「ビー・バップ・ハイスクール」ヒロシ役で大ブレイク!


ところが、清水はその後、意外なかたちでブレイクを果たす。映画『ビー・バップ・ハイスクール』(1985年12月公開)の主演オーディションに合格し、主人公のひとりであるヒロシ(加藤浩志)役にキャスティングされるのである。これは清水にとって生涯随一のハマり役だ。映画のなかのヒロシはコミックから抜け出てきたようだった。

清水と中間徹(トオル)を演じた新人・仲村トオルの人気は急上昇。『ビー・バップ・ハイスクール』は大ヒットし、シリーズ化されることになった。

2作目の『ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌』(1986年8月公開)の際は、清水、仲村と宮崎ますみ(三原山順子役)が「ビー・バップ・ハイスクール 高校与太郎哀歌」というユニットを結成。シングル「ビー・バップ・パラダイス」は清水にとって初のオリコン週間チャートのトップ10入りとなった。

また、俳優活動による人気の上昇により、シンガーとしてもシングル、アルバムのコンスタントなリリースや、バンドを率いてのライブ活動も可能となる。とくに1987年頃は松本隆、織田哲郎というヒットメーカーによる、「Down Town Alley」「Summer of 1985」「Love Balladeは歌えない」といった代表曲をのこしている。「Love Balladeは歌えない」は氣志團ファンにもおなじみの曲だろう。



2023年5月現在、残念ながら竹宏治のデジタル音源は入手困難である。一方で、「ブティック竹の子」は原宿・竹下通りで営業中である。

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2023.05.31
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