連載【佐橋佳幸の40曲】vol.34
人力飛行機 / 山下達郎
作詞:山下達郎
作曲:山下達郎
編曲:山下達郎
山下達郎バンドの一員として正式にデビューを飾った佐橋佳幸
1994年。佐橋佳幸はソロデビュー・アルバム『TRUST ME』をリリースした。とともに、このアルバムのエグゼクティブ・プロデューサーを務めた山下達郎がシュガー・ベイブ時代の曲を歌う、スペシャルライブ『TATSURO YAMASHITA Sings SUGAR BABE』(東京・中野サンプラザ、全4公演)にもギタリストとして参加。達郎バンドの一員として正式にデビューを飾った。
「その前の92年。僕のソロプロジェクトの相談をしていた頃、達郎さんが誘ってくれたので『ARTISAN』の時のツアーを観に行ったんです。ちょうどギターの椎名和夫さんが戻ってきていたツアーで、椎名さんがものすごく今っぽい、いわゆるフュージョンぽい音色で「DOWN TOWN」のイントロを弾いてるのを聴いた瞬間、“オレだったら、絶対にこの音色じゃない!” と思ったのをすごくよく覚えてるんだけど。まさかその後、『Sings SUGAR BABE』に参加して、本当に「DOWN TOWN」のイントロを弾くことになるとは夢にも思っていなかった。でも、あの時決意した通り、そこでは僕、もう、完璧な村松(邦男。シュガー・ベイブのリードギタリスト)さんマナーで、シュガーベイブそのままの音色で弾きましたからね(笑)」
と、初参加ながら、中学時代からの筋金入りのシュガー・ベイブ オタクぶりをいきなり発揮。リハーサルの時から、シュガー・ベイブのレパートリーはすべてソラで完璧に弾いてみせた。用意された譜面も、“いらないです。譜面見ると逆に間違えちゃうんで” と固辞しつつ村松邦男をほうふつさせるプレイを弾きこなす佐橋に、さすがの山下も大笑いしていたという。
佐橋に “村松2世” の称号を与えた大滝詠一
結果、『Sings SUGAR BABE』コンサートを客席で見ていた大滝詠一が、そのプレイといい、小柄な体型でギターを抱える姿のそっくりぶりといい、“村松かと思った” と驚くことになる。そして97年、大滝は本格的カムバックに向けた通称 “リハビリ・セッション” に村松とともに佐橋を呼び、佐橋に “村松2世” の称号を与えたのだった。また、以前にも紹介したエピソードだが、後に
佐橋が坂本龍一のツアーに参加することになるきっかけも『Sings SUGAR BABE』コンサートの楽屋で坂本龍一が山下に “あのギタリスト紹介して” と頼んだことから始まっている。人生のあちこちに散らばっていた “点” が、この頃から一気に “線” になり始めた。
「なんだか不思議な時期だったね。ほんと、ある意味どんどん “落とし前” がつくような感じではあった。何の落とし前なのかはわからないけど」
98年、山下達郎の全国ツアーに参加
『Sings SUGAR BABE』 の4年後、98年秋。アルバム『COZY』のリリースに合わせて7年ぶりの全国ツアー『PERFORMANCE '98-'99』が行われた。ここから、山下バンドの一員としての佐橋の活動が本格的にスタートすることになる。
「94年の段階で、いちおう “今後のライブでも弾いてね” ということにはなったものの。その後は、達郎さんのFM番組のイベントでのアコースティックライブと、福岡でのイベントに出演しただけ。だから、全国ツアーに参加したのはこの98年のツアーが初。その間に僕は佐野元春さんとのホーボーキング・バンドも始まっているんです。けっこう忙しくしていましたね。結局、90年代末まではホーボーキングと達郎さんと両方やってたしね」
『COZY』ツアーの次は、山下がRCA/AIRレーベルに在籍していた時代のレパートリーで構成された『PERFORMANCE 2002 RCA/AIR YEARS SPECIAL』全33公演 。その次が佐橋の全国ツアー初参加からちょうど10年後の2008年に行われた『PERFORMANCE 2008-2009』。しばしのブランクを経て行われたこのツアーから、バンドメンバーが再編された。長年山下バンドのグルーヴを支えてきたドラマー、青山純に代わり、新人の小笠原拓海が参加。そしてキーボードには佐橋の盟友・柴田俊文が抜擢された。
「途中、青山さんの病気療養があったり、98年にはコーラスのCandee(高尾のぞみ)が亡くなったり…。他にもいろんな要因が重なってなかなかツアーができない大変な時期も長かったけど、メンバーを代えながらなんとか続けていた時代。結果的に僕もずっと立ち会ってきたことになりますよね。小笠原くんに決まるまでドラマー探しをしていた期間も長かったしね。あと、重実(徹)さんが抜けた後、もうひとりキーボードいないかって探してて。そしたら達郎さんが連れてきたのがたまたま柴田だったという(笑)」
「僕が友達の柴田を連れてきて達郎さんに紹介したんだろうと思っている人が多いんだけど、違うんだよ。あれには驚いた。うーん、なんかいろいろと思い出すねぇ。さすがに29年もやってると、何から話していいかわからないくらいの歴史になってます。達郎さんのツアーの間に、まりやさんのライブとかレコーディングにも参加することになって。それもまた楽しかったしね」
バンドは山下、佐橋のツインギター体制
ご存じの通り、山下達郎も躍動的なコードカッティングにかけては定評があるギタリスト。つまりバンドは山下、佐橋のツインギター体制だった。
「基本、達郎さんはテレキャスターで僕はストラトキャスター。どっちもフェンダー。それはもう、ずっとそう。最初の頃は何か急に必要になった時のためにいろいろなギターを持って行ってはいたんだけど。そのうち達郎さんに “もう、全部ストラトでいいよ” って言われて。(伊藤)広規さんのベースもフェンダーでしょ。フェンダー・ジャズベース。達郎さんいわく、このフェンダーサウンドが気に入っているんだ、オレたちのアンサンブルはテレキャスにジャズべにストラトというこの響きがいいんだ、と」
「だから他の楽器は持ってこなくていいって。それでもけっこうアコギの曲もあるしさ、最初のうちはアコギも持って行ってたんだけど。そのうち “サハリン、もうさ、このアコギのとこも何か工夫してエレキで弾けるように考えてよ” って(笑)。だからステージ上にメインのストラトと、予備のやつと、2本しか並んでいないというスッキリした状況で。僕のギター担当のスタッフ、すごい楽だったはず(笑)」
同じフェンダーを愛用しているとはいえ、山下と佐橋はまるでタイプの違うギタリストだ。ある意味、正反対。しかし、それだからこそ必要とされた。
「だいたいね、おいしいとこは達郎さんが弾く(笑)。たとえば「PAPER DOLL」のソロとか。松木(恒秀)さん譲りの、ああいうソロは僕なんかより断然達郎さんだよね。何がいいって、すごく “間” がいいんです。僕、ツアーであの曲をやる時にはいつも、ステージ上で “今日の達郎さんのソロ、どう来るかなー” って楽しみにしてたんです。達郎さんのソロはだいたい、あらかじめ組み立てておくタイプですよね。いきなり瞬時に考えてインプロヴィゼーションするってタイプじゃない。で、なんか、すっごい緻密なソロとかが来たりするんですよ」
「僕の場合は反対で、オープンのいろんなソロを弾く時、まったく本番まで決めないタイプ。ただ、終わり方だけはメンバーみんながわかりやすいように決めて、こんなフレーズ弾き始めたら終わると思ってくださいって伝えてある。まぁ、長く同じメンバーでやってると呼吸が合ってきて、合図出さなくてもわかるようにはなるんだけどね。ただね、達郎さん、時々とんでもないところで歌に戻ったりして、僕がまだ “♪グイーン”ってやってるのに歌に持ってかれたりしてビックリすることもあった。終わってから “あれ、何だったんすか!?” みたいな(笑)。そういうのも、長くやっている中では楽しかったりするんだけどね」
最終的にはバンドで3番手の古株に
当初は “ヤング村松邦男” 的なポジションでバンドに参加して。歳月とともに若手メンバーが加わって先輩となり。年長組と若手、両世代をつなぐ役割も担いつつ、最終的にはバンドで3番手の古株にまでなった。今や山下バンドでは、主役と世代が2つも3つも違う若手メンバーたちが大活躍。ライブ常連客の中にも、還暦を過ぎた佐橋が最年少だった時代を知らない人も多いに違いない。
「でも、僕、最年少メンバーだった頃から、達郎さんにも “ここ、こうしたほうが良くないですか” とか、わりと言ってたなぁ。自分のプレイに関しても、達郎さんが決めたところを “これ、違うパターンやってみてもいいですか?” とか言いだすので、最初の頃は “こいつ、若いのにずけずけ言うなぁ。大丈夫かな” と思っていたスタッフもいたみたい。でも、別にナマイキとか、空気読まないとかいうことじゃなくてね。僕が今まで他の現場でもやってきたのと同じことをやってただけなんだよね」
「この連載でもよく話してきたことだけど、スタジオセッションで呼ばれた時に “こうしたほうがカッコよくない?” とか “
このイントロ、ちょっとスライドギター入れてみてもいいかな?” とか、アイディアが浮べば提案するし、自分が思ったことはちゃんと言うタイプだからね。まぁ、それがいやだっていう人もいるだろうけど。僕はそういうふうにやってきたから、達郎さんのバンドでも “こうしてみようよ” と言ってみたり、他の人が出してる音がちょっと違うと思えば口を出したし。で、いろいろ言ってるとそれがフツーになってくるからさ。そうすると達郎さんからも、“ここ、なんかいい方法ないかな?” とか相談されるようにもなったり。だから、バックバンドの一員としてやってきたけれど、ある部分では一緒にいろんなことを考えてきた、という思いはあります」
長年在籍した山下達郎バンドから脱退
そして2023年3月31日、コロナ禍を超え3年ぶりに行われた『PERFORMANCE 2022』ツアー最終日(2024年2月22日、仙台公演)を最後に、佐橋は長年在籍した山下達郎バンドから脱退したことを公式に発表した。時が満ちた、ということかもしれない。ずっと続いてきたことにもいつかは終わりがくる。が、終わりがくれば始まりがくる。かつて佐橋が “今だ” と感じて、ソロアルバムを作ることを相談するために山下の家を訪ねた時と同じだ。デビュー40周年を目前に控えた佐橋にとって、これは次へと進む絶好のタイミングでの決断だったのだろう。
「結局、29年間やりましたからね。本当は28年目で終わるはずだったんだけど、コロナ禍の都合でちょっと伸びてしまった。最初に卒業させてほしいって言ったのはコロナ禍が始まる前の年。その時には、この先のバンドのことも考えないといけないから少し待ってくれと制作側から言われて。で、いろいろ相談しながら前回のツアー最終日をもって卒業ということになりました。それにしても、こんなに長くひとりのアーティストをサポートしたのは初めてのことだったし、大変お世話になりました。えっと、33歳から62歳までかぁ。そう考えるとすごいね。会社なら定年退職、くらい。勤め上げたねぇ(笑)」
ツアーだけでなく、佐橋はもちろん山下達郎のレコーディングでも活躍した。
「レコーディングの時、達郎さんは自分でコツコツ組み立ててギターを弾くから、近年はギタリストが呼ばれることはあんまりなかったと思うんですけど。なのに、僕はちょこちょこ呼んでいただいて。ライブと同じく、レコーディングでも達郎さんの弾かないタイプのギターを弾く役、というか。そういうことだったのかな」
山下達郎から最大級のプレッシャー
レコーディングへの初参加は98年。『COZY』のオープニングを飾った「氷のマニキュア」のセッションだった。ある日、山下から緊急出動要請があってスタジオへ。ニューアルバムはほぼ完成しているのだが、1曲だけ、どうしてもイメージどおりのギターソロが録れずに困っている、と言われて聴かされたのが「氷のマニキュア」だった。数日後にはマスタリングをしないと発売に間に合わない、だから “今日、佐橋でやってみて、ダメだったらこの曲入れるのやめようと思ってるんだよね” とまで言われた。
あの山下達郎から最大級のプレッシャーをかけられたも同然。並のギタリストだったら震え上がって弾けるソロも弾けなくなってもおかしくない状況。ところが、そこは佐橋佳幸。なんとこれを一発で決めてみせた。アーニー・アイズレー的なアプローチで弾きまくった極上ソロは今でも佐橋の “プチ自慢” だ。山下も大喜び。バンドに加入して間もなかった佐橋も、山下作品に貢献できてとてもうれしかったという。それだけに、参加した山下達郎作品の中から1曲選ぶとしたら、今までは迷わず「氷のマニキュア」をあげていた。
佐橋のスライドギターをフィーチャーした「人力飛行機」
が、今回、佐橋は最後に参加したツアーでも演奏された、山下の最新アルバム『SOFTLY』収録の「人力飛行機」を選んだ。ドラムスにはシュガー・ベイブのメンバーでもあった山下の盟友、上原 “ユカリ” 裕が参加。山下にとっては「ドーナツ・ソング」以来、約25年ぶりの共演だった。往年のリトル・フィートを想起させる佐橋のスライドギターをフィーチャーしたニューオーリンズ・グルーヴのナンバーだ。
金も権力もない、だけど大きな夢を抱えた若者がプロペラ人力飛行機で大空をめざす…。まだ何者でもない、何も持っていない世代だからこそ、年齢を重ねたオトナがなくしてしまった情熱とパワーがあるんだ… という歌詞といい、1970年代的なサウンドといい、シュガー・ベイブ時代の盟友の参加といい、山下達郎の “原点回帰” を象徴するような1曲としてアルバムの中でも異彩を放っていた。
「かっこいい曲だよね。僕も弾きまくってます。この曲も録音は早かったな。達郎さんのレコーディングはいつもけっこう早く終わっちゃうんだけど、これもあっという間。“え? 今、録ってました?” みたいな感じで終わっちゃったんだよね」
それにしても印象的なのは、この曲のタイトルだ。この連載ではすっかりおなじみ、
佐橋が中学生時代に組んだいちばん最初のバンド名と同じ “人力飛行機” 。『SOFTLY』をひっさげたツアーでも大盛り上がりの場面で演奏された。佐橋のギターも大いに唸った。29年にわたってサポートを務めた佐橋の “卒業ソング” ともいえるパフォーマンスとなった。きっと “サハシ事情通” ならば “ああ、だから「人力飛行機」というタイトルが付けられたのか” と思ったに違いない。
ところがこれはまったくの偶然。インタビューで “佐橋さんのギターをフィーチャーした曲に、彼が最初に組んだバンド名をつけるなんて粋ですね” と尋ねられるまで、山下は佐橋のバンド “人力飛行機” の存在を知らず、 “えっ!? あいつ、そんなこと一言も言ってなかったぞ” と驚いた。
「だって、言うタイミングなかったもん(笑)。そんな話、誰にもしたことなかったし。UGUISSの前身が人力飛行機だって知ってるのは佐野(元春)さんくらいですよ。というかこの曲、僕がギター弾きに行った時にはタイトルも決まってなかったんです。だからアルバムが出来上がって、サンプル盤をもらって、初めて曲のタイトルを知って爆笑しちゃったよ(笑)。まさか “人力飛行機” とはね。まったくの偶然なんだけど」
「でも、僕にとって最後の参加となった『SOFTLY』のツアーでは、そこそこ新しい曲もやったじゃない? 達郎さんの場合、新作のツアーでも新作からの曲をあまりやらないこともあって。それこそ最初の『COZY』のツアーとか、新曲ほとんどやらなかった記憶がある。僕、「氷のマニキュア」が初レコーディングだったから “がんばって弾くぞ!” って楽しみにしていたのに、やらなかったし。でも、最後のツアーでは僕がレコーディングで弾いた曲もけっこう演奏することができて。その中に、本当に偶然とはいえ、“人力飛行機” というタイトルの曲があった。なんか不思議なご縁を感じますよね」
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2024.08.03