1987年はTMネットワークの年だった。『Self Control』『humansystem』という2枚のアルバム。初の武道館公演。そしてなによりもあの「Get Wild」。「シティハンター」の主題歌ということもあって当時の小中学生を直撃した。たぶん今TMになんて興味がない顔をしているその世代のミュージシャンの耳元で ”アスファルトタイヤを切りつけながら” と囁けば反射的に ”暗闇走り抜ける” と応じるはずだ。
私は「Get Wild」には特に思い入れはない。あのPVは香港日帰りで撮影したもので、ウツが手に包帯を巻いているのはゲームのやりすぎで腱鞘炎を患っていたから、くらいは知っている。私がTMを好きだったのは86年が最高潮だった。どんなに好きだったかは恥ずかしいから書かない。『RAINBOW RAINBOW』『CHILDHOOD'S END』『GORILLA』の3枚のアルバムとミニアルバムの『TWINKLE NIGHT』がどこかで突然流れてきたら悶絶するかもしれない。ちなみにフェイバリットは「YOUR SONG」だ。
好きを表明するためにはいい原稿を書くことしかない。86年7月の中野サンプラザでのライプレポートを某誌に一生懸命書いた。すると事務所から電話がかかってきて、要約すると ”素晴らしい文章だった。これからもよろしく頼む” というようなことを言われた。実家住まいの24歳は舞い上がり、志を強くした。三重県合歓の郷までの日帰り強行インタビューを命じられても文句を言わなかった。
TMはどんどん売れて行った。『GORILLA』が出たとき ”これで売れるだろう” とほくそ笑んだのにそれほどでもなく悔しかった私は ”ざまあみろ” と思う一方、テンションが少しずつ落ちていった。ファンタジックなTMが好きだったのに、歌詞がどんどん自己啓発的になっていく気がして、原稿を書いていても楽しくない。事務所にとってあまり喜ばしくないことも書いたかもしれない(読者の方から ”そのジレンマすごくよくわかります” という手紙をもらった)。『CAROL』のメッセージ性もしっくりこなかった。
89年冬、ずっと仕事をさせてもらっていた音楽誌が廃刊になることになった。最後に誰でも好きな人にインタビューしていい、と編集長が言ってくれた。私は小室さんに決め、編集長から事務所にオファーしてもらった。しかし完全にスルー。業を煮やした私は小室さんのソロライブをNKホールに見に行き、終演後の楽屋で人がいなくなった隙をついて直談判した。小室さんは「いいですよ、やりましょう。僕からも事務所に言っておきます」と言ってくれたが、結局事態は変わらなかった。それ以来小室さんとは会えていない。
なんとまぁ怖いもの知らずだったことか。今なら事務所の対応も致し方ないと思えるが、27歳の私はそれしか方法を知らなかった。もう私の記憶の中にしかない可笑しさと悔しさが入り混じった一件。原稿チェックなどない、なんでも書きたいことを書けた時代のお話でした。
2017.02.24
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