5月5日

さとう宗幸と黄金の6年間、運命のミリオンセラー「青葉城恋唄」ヒットの軌跡

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歴史のインパクトと時間の長さ…


歴史のインパクトと時間の長さは、必ずしも比例しない。

合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディの在任期間はわずか2年10ヶ月。アメリカの黄金の60年代のアイコンとも呼ぶべき偉大な大統領なのに、その存在感の大きさに比して、彼がホワイトハウスで過ごした時間は驚くほど短い。

また、フジテレビの『夕やけニャンニャン』から生まれ、昭和のアイドルの時代をある意味終わらせた歴史的グループ、おニャン子クラブの活動期間はわずか2年半。グループ、ソロ、ユニット合わせて44曲ものオリコン1位曲を輩出しながら、今振り返ると、驚きの短命である。

そう、歴史のインパクトと時間の長さは別の話―― 今回、このコラムを書くにあたって、ある楽曲を調べていて、とみに感じたことである。僕の記憶では、その楽曲は、初期の『ザ・ベストテン』に何週間もランクインし、歌手の方も含めて、同番組の象徴のような存在だった―― そう、記憶していた。しかし、改めて調べると、実際にベストテンにランクインしたのはわずかに2週。「今週のスポットライト」も含めて、出場したのはたったの3回だった。

運命のミリオンセラー「青葉城恋唄」ヒットの軌跡


楽曲の名は「青葉城恋唄」、歌うはさとう宗幸。今日6月12日は、同曲が売れるキッカケの1つになった宮城県沖地震が、今から42年前に起きたその日にあたる――。

 広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず
 早瀬踊る光に 揺れていた君の瞳

「青葉城恋唄」は、宮城のご当地ソングと言われるミリオンセラーの楽曲である。『ザ・ベストテン』では、1978年の年間36位。同年の『NHK紅白歌合戦』にも出場している。これだけ見れば、ベストテンに2ヶ月くらいランクインを続けたと僕が記憶を混同させても無理もないだろう。でも、実際は2週。裏を返せば、それだけインパクトが強かったということだろう。

では、そのインパクトは何ゆえもたらされたのか。同曲のヒットの軌跡と併せて、さとう宗幸サンの「黄金の6年間」との奇妙な符合も紐解きたい。

伊達政宗の系譜? さとう宗幸のプロフィール


さとう宗幸―― 名前に “宗” が付くことから、てっきり仙台藩初代藩主・伊達政宗(伊達家の歴代藩主は名前に “宗” が付く)ゆかりの仙台市の御出身と思いきや、生まれは岐阜県可児市だとか。なんと、今を時めく明智光秀の生地だ。2歳の時に家族で宮城県古川市(現・大崎市)に移り住み、そこからはずっと宮城県民である。

中学の時にブラスバンドに入り、音楽の道へ。高校ではマンドリンクラブに所属し、仙台の東北学院大学時代には、うたごえ喫茶『若人』でリーダー(ギター片手に客の合唱を先導する役目)を務めるまでに――。さとうサンの青春時代は、常に音楽と共にあった。

しかし1972年、大学を卒業すると、上京して一般企業に就職。ところが―― 思うところがあったのか、1年で退職して仙台に戻る。そして、うたごえ喫茶を拠点に、いよいよセミプロのフォークソング歌手としての活動を始める。76年には自主制作アルバムを発表、そして77年4月には、地元のNHK-FM仙台で『FMリクエストアワー』のDJを任されるまでに――。

おっと、気が付けば、「青葉城恋唄」が大ヒットした1978年の前年である。ここからは少しペースを落として、その軌跡を辿ることにする。

NHK「FMリクエストアワー」のコーナーから生まれたヒット曲


『FMリクエストアワー』は、毎週土曜日の午後3時から6時までの3時間の番組だった。さとうサンが担当するのは、そのうちの2時間。だが、当時のFMはリスナーが少なく、送られてくる手紙は毎週10通ほど。オープンスタジオで呼び掛けても、見物客は4、5人という有様だった。聴取率もほとんど米印(測定不能)だったそう。

そこで5月から、話題作りとして「作詞・作曲コーナー」を始める。それは、リスナーから詞を募集して、さとうサンが曲をつけて歌うというもの。とはいえ、元よりリスナーが少ない番組。同コーナーに送られてくる詞も、せいぜい週に3、4通だった。さとうサンはその全てに曲をつけ、番組で歌った。

そんな状態が一ヶ月ほど続いた6月、後にさとうサンの運命を変える一通の手紙が送られてきた。差出人の名は星間船一。むろん、誰も知らない。ただの一リスナーでしかない。だが翌78年、その彼が『日本作詩大賞』で、阿久悠や阿木燿子、中島みゆきらを押しのけ、大賞に輝こうとは、一体誰が予想しただろうか。

運命を変えた一通の手紙、リスナーから寄せられた一篇の歌詞


 季節はめぐりまた夏が来て
 あの日と同じ流れの岸
 瀬音ゆかしき杜の都
 あの人はもういない

さとうサンは、星間サンの詞を一読して、その完成度の高さに唸ったという。直したのは一ヶ所のみ。オリジナルは「瀬音ゆかしき青葉城仙台」となっていたところを、音の乗せやすさから「瀬音ゆかしき杜の都」に。驚くべきことに、同曲はわずか5分ほどで完成したという。そして本番を迎え、初めて「青葉城恋唄」を歌った。これで、終わるはずだった。しかし翌週、また運命を変える1枚のハガキが届く。そこにはこう書かれていた―― 先週歌った『青葉城恋唄』を聴きたいです。

『FMリクエストアワー』はその名の通り、リスナーからリクエストを募り、さとうサンがお便りと合わせて紹介し、レコードをかける番組である。だが、「作詞・作曲コーナー」で作った楽曲にリクエストが来るのは初めてだった。来たものは仕方ない。レコードがないので、当然、さとうサンがギター片手に歌った。

すると翌週、また別のリスナーから1枚だけ「青葉城恋唄」にリクエストが来た。さとうサンは歌った。そして次の週も―― そんなことが続き、いつしか「青葉城恋唄」は、同番組の定番ソングになった。気が付けば、毎週4、5人しかいなかった観覧席が、秋口には20人ほどになり、年末には定員オーバーでスタジオに入り切れなくなった。

全国区のきっかけ、ダークダックスとの競作


「今、仙台のNHKのFMで、評判になっている歌があるらしい」

年も明けて、1978年初頭には、そんな噂がラジオ業界や音楽業界を駆け巡るようになった。ならばと、デモテープを作ってレコード各社に売り込みを掛けようとした矢先―― 偶然、キングレコードの赤間剛勝ディレクターの耳にも入る。彼は仙台の出身で、歌詞の「広瀬川流れる岸辺」や「青葉通り薫る葉緑」にピンと来たらしい。そして、間髪入れずにさとうサンに打診した。「ウチから出しません?」

そこからはトントン拍子だった。アレンジャーはアコースティックギタリストのカリスマ、石川鷹彦サンが起用され、叙情的で爽やかなサウンドに仕上がった。リリース日は同年5月5日。さとう宗幸サンは29歳にして、晴れてメジャーデビューとなった。宮城のミュージシャン仲間やNHK-FM仙台のディレクターたちが祝福し、目標を3万枚に掲げた。「宗さん、3万枚売れるとヒット賞だ」

だが、赤間ディレクターはその先を見据えていた。「青葉城恋唄はご当地ソングで終わる歌じゃない――」。彼は周到に策を練り、ポリドールに移籍した旧知のダークダックスに手を回し、「青葉城恋唄」の競作を持ちかける。知名度に勝るダークが歌えば、一時的にさとう版を上回るかもしれない。だが、全国区で楽曲が評価されれば、必ずやオリジナルのさとう版に再び注目が集まる――。

5月5日、さとう版の「青葉城恋唄」が発売されると、わずか1週間で5万枚が出荷された。地元・宮城のセールスが予想以上に伸びたのだ。だが、それも一巡すると、次第に売上げが鈍化する。そこへ、6月1日にダークダックス版が出ると、今度はセールスを全国区へ広げ、さとう版を上回った。

宮城県沖地震発生、復興ソングとしての脚光


その時だった。「青葉城恋唄」にとって運命の日が訪れる。1978年6月12日―― 宮城県沖地震である。マグニチュード7.4。仙台市を中心に7,000を超える建物が全半壊し、死傷者は1,300人を超える。ライフラインの復旧に一ヶ月近くを擁する大惨事となった。

そんな中、さとう宗幸サンが歌う「青葉城恋唄」は、一躍、被災地・宮城の復興ソングとして脚光を浴びる。既に同曲の知名度は全国へと広がり、被災地を背に歌うさとうサンの姿に、多くの人々が共感する。それと共に、再びさとう版に火が点いて、8月3日には『ザ・ベストテン』の「今週のスポットライト」に初登場。その2日後には、歌詞にも登場する「仙台七夕花火祭」に、満を持して出演。この頃になると、ダークダックス版の売上げを上回るようになっていた。

9月21日、『ザ・ベストテン』の20位から11位の楽曲紹介で18位に顔を出すと、そこから12週間、その順位帯に定着する。そして12月14日に9位で念願の初ランクインを果たし、翌週は8位へランクアップ。更にその翌週は「年間ベストテン」で、堂々の36位である。

コラムの冒頭で、僕は「青葉城恋唄」のインパクトが、ランクイン(2週)に比べて、なぜか長く感じたと述べているが―― 要は、“20位から11位” の順位帯に12週間もいたからである。さらに年が明けてから5週間も粘っている。

さとう宗幸のブレイクと黄金の6年間


思えば、1978年のさとう宗幸サンのブレイクは、「黄金の6年間」の最初の年に相応しい、クロスオーバーな現象が各所で見られたからに他ならない。そもそも楽曲からして、リスナーである素人作詞家とのクロスオーバーであり、リリースもダークダックスとのクロスオーバーだった。そして図らずも、楽曲の舞台である仙台が被災に見舞われるという、ドラマチックな展開――。

だが、「黄金の6年間」は、さとう宗幸サンを、これだけで開放することはしない。最大のサプライズは、3年後の1981年に再び訪れる。彼はミュージシャンながら、1年間も続く学園ドラマの主役教師を務めるのだ。もっとも、そのシリーズは、第1作目からして、髪の長い、足の短い男のミュージシャンが教師を務めるなど、意図的にクロスオーバーを狙ったものではあったが――。

おっと、そのシリーズの話は、また別の機会に語らせてもらおう。もちろん、「黄金の6年間」として――。


※ 指南役の連載「黄金の6年間」
1978年から1983年までの「東京が最も面白く、猥雑で、エキサイティングだった時代」に光を当て、個々の事例を掘り下げつつ、その理由を紐解いていく大好評シリーズ。

■ 黄金の6年間:映画「戦場のメリークリスマス」はクロスオーバーの象徴!
■ 究極のアップデート “1983年の松田聖子” を超えるアイドルは存在しない!
■ 黄金の6年間:映画「エーゲ海に捧ぐ」シルクロードブームの源流を辿る道…
etc…


2020.06.12
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カタリベ
1967年生まれ
指南役
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