京急に乗って横須賀へ。堀ノ内駅で聞こえてきたメロディー
私は時々、ムショーに横須賀へ行きたくなる。サザンや TUBE の湘南もいいが、三浦半島の東側、横須賀じゃなきゃダメな時がある。18歳からの3年半という、人生でとても大切な時期に住んでいた街だからだ。
都内から赤い電車に乗り、ギュンギュン南下する。品川駅から横須賀中央駅まで最速で44分。そう、京浜急行だ。その日は快晴、なんとなく馬堀海岸の遊歩道を歩きたくなって電車に乗った。
横浜を過ぎる頃から、外の景色に胸がザワザワしてくる。大学時代に毎日バイト先まで往復した道のり。社会人になってからも、都内まで片道1時間半の通勤に使った電車。携帯もスマホもない時代、1日の終わりに、この下り電車の中でどれほどの想いを咀嚼したことか…。
私が住んでいた県立大学駅(旧:京急安浦駅)を過ぎて、乗り換えの堀ノ内駅に着く。ホームで浦賀行きを待っていたとき、聞こえてきたのがこのメロディー。
ハーバーライトが朝日に変る
その時一羽のかもめが翔んだ
“港の坂道” ってどこ? 横須賀を舞台に書かれた「かもめが翔んだ日」
渡辺真知子の「かもめが翔んだ日」だ。京浜急行では、地元にゆかりのある曲の中から公募で人気投票を行い、2008年からそれを駅メロ(列車接近案内音)として導入したらしい。横浜駅の「ブルー・ライト・ヨコハマ」(いしだあゆみ)、横須賀中央駅の「横須賀ストーリー」(山口百恵)は何度も耳にしていたが、これはこの日に初めて知った。
だけど、なぜ堀ノ内…?「かもめが翔んだ日」は横浜の歌じゃないのか?「ハーバーライト」とは、横浜銘菓「ありあけハーバー」と同じ横浜の波止場のことじゃないのか?
実際には、作詞家・伊藤アキラが横須賀市出身の渡辺真知子のために、横須賀の風景を想定して書いた歌詞であるという。となると、曲中の「港の坂道」とは、真知子が通った緑ヶ丘女子高校からドブ板通りへ降りる、あの急坂のことだろうか。いや、百恵が「横須賀ストーリー」で駆けのぼった「急な坂道」へのオマージュなのでは。まさか私が毎日歩いた「どうめき坂」かも…。
こうして、しばし「かもめが翔んだ日」を脳内ループさせ、歌詞と街並みを照らし合せる妄想を楽しんだ。子供の頃に大好きだったこの曲が、私の青春の街、横須賀を舞台にしていたなんて。しかも、隣駅に渡辺真知子の実家があっただなんて…。
現在・過去・未来… 京浜急行が育んだ音楽の素養
まだ小さかった頃の大晦日、台所で年越し蕎麦の支度をする母親の背中に向かって、あまりの嬉しさに叫んだことを、今も鮮明に覚えている。
「お母さん、カモメが取ったよー」
1978年、第20回日本レコード大賞で渡辺真知子は最優秀新人賞を受賞。それまで、3歳から山口百恵ファンだった私の前に、突如現れた新たなスター。その堂々とした歌いっぷりに、「本物が出てきた」ことを子供ながらに感じていた。
渡辺真知子は、前年の77年11月、自身の作詞・作曲による「迷い道」でデビューをする。翌78年末までの短期間で、シングル「かもめが翔んだ日」「ブルー」、アルバム『海につれていって』『フォグ・ランプ』を発表。全国6か所をまわるファーストコンサート・ツアーもやり遂げた。
しかもデビュー1年ほどまでは、都内まで京浜急行で通い続けたというから、なんというバイタリティーだろう。そのおかげもあってか、「迷い道」の名フレーズ、「現在・過去・未来」は、電車の揺れの中で浮かんだものらしい。これはきっと、真知子の毎日の頑張りを見ていた電車の神様からの贈り物だったに違いない。そもそもガードの近くに実家があり、電車の音に負けないように自然と声が大きくなったということ自体が、のちの声楽へとつながるお導きだったと考えると、渡辺真知子の音楽の素養は京浜急行がつくったと言っても過言ではない。
清濁併せ呑む渡辺真知子、デビュー前の興味深いエピソード
話を戻そう。デビュー前、真知子がCBSソニーのプロデューサーと面会した際の興味深いエピソードがある。
「今どきそんな汚らしい恰好は流行らないんだよ。歌だけじゃダメなんだよ。外見も美しく、どぎつくなく、その辺にいる当たり前の女の子じゃないと」と言われ、(真知子は)反発を感じながらも「すべて会社の方にお任せします」と頭を下げたそうだ。
すべてを変えられた。髪型はおとなしく、洋服は細身のシルエットのドレス。鏡に映る自分の姿に、<まるで私じゃないみたい>と驚いたという。マネージャーに「これは勝負なんだ。君のために多くのスタッフが賭けているんだ。2曲だしてみよう。それでダメなら、元の君の世界に帰してあげる」と言われたそうだ(1980年 週刊明星「スターのトルー・ストーリー」より)。
当時、真知子はロックに傾倒し、ウルフカットにジーンズ姿。ニューミュージックや歌謡曲は好きではなかったという。また、別の記事では、シンガーソングライターと言われる人たちがテレビに出ない事について、「私はテレビに出るのになんとも思ってないの。自分の曲を聴いてもらうのはどこでもいいと思っているわ」とアッサリ。
弱冠21、22歳の女の子が、夢へ向かってひた走りながらも、大人の事情を汲みとり清濁併せ呑む。この懐の深さこそが、渡辺真知子の魅力であり、歌に多面的な奥行きをもたせる表現力の源なのだろう…。
1978年の音楽賞を総ナメ! “勝負” に勝った新人歌手
こうして迎えた決戦の78年。真知子は数々の音楽賞を、文字通り “総ナメ” にし、テレビ画面でその圧倒的な歌唱力を見せつけた。それは、マネージャーが示した “勝負” に勝ったことを意味していた。
■ 東京音楽祭 シルバーカナリー賞
(財団法人東京音楽祭協会)
■ 新宿音楽祭 金賞
(文化放送)
■ 銀座音楽祭 グランプリ
(ニッポン放送)
■ 日本歌謡大賞 放送音楽新人賞
(放送音楽プロデューサー連盟)
■ 日本テレビ音楽祭 新人賞
(日本テレビ)
■ 全日本歌謡音楽祭 最優秀新人賞
(テレビ朝日)
■ 全日本有線放送大賞 新人賞
(讀賣テレビ放送)
■ 日本レコード大賞 最優秀新人賞
(公益社団法人日本作曲家協会)
■ 紅白歌合戦出場(白組対戦相手:原田真二)
(NHK)
ふたりのプロフェッショナル、羽田健太郎と伊藤アキラ
「かもめが翔んだ日」は、一見、失恋した男への未練を綴る歌である。しかし何故か、悲愴感を感じさせない。その理由はふたつあると考える。
まずひとつは、この曲のドライヴ感だ。敢えてタイムキープをせずに、バンドが録音にのぞんだという話は有名である。特に、ピアニスト・羽田健太郎によるクラシック仕込みのトリルや高速アルペジオの疾走感たるや、“赤い弾丸” の異名をとる京急のラスボス・快速特急のようではないか。そして、サビから間奏にかけての “走り” は、今にも営業最高速度120キロをマークしそうな、京急川崎から横浜にかけての直線を思わせる。
そしてもうひとつの理由は、作詞家・伊藤アキラの時代を読む眼にあったと思われる。1作目の「迷い道」で、渡辺真知子は1コーラスたった20小節しかない曲の中、痛快なフレーズをたたみ掛け、斬新なセンスを見せた。「まるで喜劇じゃないの」「いかさま占い」そして「迷い道くねくね」。音楽短大を卒業したばかりの新人歌手が書いた詞を前に、伊藤アキラは多少の焦りを覚えたのではないだろうか。ならば、15秒・30秒のCMの世界で闘ってきた「プロの技を見せなければ…」と。
ここからは私の空想だ。
プロの作詞家による初めての作品を、嬉々として待つ真知子を横目に、ほぼ完成していた詞を見直す伊藤アキラ。
ひと文字ひと文字を、ゆっくりと目で追っていく。そして一瞬、伊藤の瞳がキラリと光る。消しゴムを取り出し、或る1文字を消して書き直す。この瞬間に、この歌から悲愴感が消えた。
そして、未来ある新人歌手の2作目にふさわしい詞となった。伊藤は真知子にそっと笑顔を返す…。
80年代に向けて加速する時代、“翔” の字でイメージさせたかったこと
時代は80年代へ向けて加速していた。新しい女性像、新しい恋愛観、新しい生き方。アメリカの女流作家エリカ・ジョングが自身をモデルとして奔放な女性を描き問題作となった著書『飛ぶのが怖い』。日本で、この邦訳版が発売された76年、本来 “かける” と読ませる “翔” の字を、“とぶ” と読ませた司馬遼太郎の作品、『翔ぶが如く』がベストセラーとなる。ここから、自由を謳歌する新時代の女性像 “翔んでる女” という言葉が生まれ、流行語となった。
伊藤アキラは、この “翔” の字を使うことによって、失恋の歌でありながらも、ひとりの女性が次なる自由へと向かうイメージを与えたかったのではないだろうか。
【翔んでる】
俗に、世間の常識にとらわれず、思い通りに自由に行動するさまをいう(三省堂 大辞林より)
「かもめが飛んだ日」と「かもめが翔んだ日」では、まるで気分が違う1日だ。そもそも、かもめは渡り鳥であり、春になれば居なくなる。短い恋で終わることはわかっていたのだ。「あなたは一人で生きられるのね」が指す “あなた” とは、去っていった “恋人” であり、翔んでいった “かもめ” であり、そして、もうすぐ短い恋に決別できる「私」でもあるのだ。
なぜなら、横須賀の女は、清濁併せ呑むのだから…。
みんなが翔び始めた1978年、一番 “トンだ” のは誰?
渡辺真知子が大きな躍進を遂げた1978年。街には翔んでる女たち。ディスコで夜遊びも当たり前。着てはもらえぬセーターを涙こらえて編んでいた時代は終わり、恋人たちはクリスタルへ。翌年には寅さんまでもが「翔んでる寅次郎」と称し、お相手のマドンナは翔んでる代表、桃井かおりだ。
そして1978年、忘れてはならない人がもうひとりいる。「かもめが翔んだ日」はもちろんのこと、渡辺真知子の作品には欠かせない編曲家、船山基紀だ。この年、もっともトンだ1年を過ごしたのは、この人かもしれない――
庄野真代「飛んでイスタンブール」、円広志「夢想花」まで手がけたのだから。
※2018年10月23日に掲載された記事をアップデート
2020.04.21