「ヒデキー!!」遠く離れた令和から西城秀樹へ愛を叫ぶ
私は西城秀樹が大好きだ。好きすぎて、冷静なコラムを書ける自信がない…。
平成生まれの私は、ヒデキがテレビで「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」を歌うところも、伝説の球場コンサートも、リアルタイムで見ることは叶わなかった。当時の歌番組やコンサートの映像で見られる、我を忘れて「ヒデキー!!」と絶叫するファンの女の子達を見ると、とても羨ましくなる。
私もあの渦の中で、泣きそうになりながらステージの上の西城秀樹を見つめてみたかった。今、私も、負けじとヒデキへの愛を叫んでみたいと思う。遠く離れた令和から。
ただのアイドルではない! 卓越したボーカルとパフォーマンス
西城秀樹は “アイドル” という括りでデビューしたが、それまでのアイドルの誰にも似ていなかっただろうと思う。アイドルという言葉は、一般的に、人間的魅力が技術を上回っている存在、幼く可愛らしいことに価値がある存在… を指すのだろうが、ヒデキのボーカルとパフォーマンスは卓越している。もちろん人間的魅力も一級であるが。あの笑顔! 茶目っ気!
ヒデキの魅力は幼さではない。少年らしさが残るデビュー当時でさえ、大人の男に変貌する予感を、そこここに感じさせる。ヒデキは野生の生き物のように、そのままで完成されているのだ。敏捷なジャガーのような青年。デビュー当時の「ワイルドな17歳」というキャッチフレーズがぴったりだ。
そんなヒデキのワイルドな魅力に、23歳という年齢の落ち着きが加わった珠玉の一曲が、1978年に発表された「炎」だ。
ミュージカルを観ているような充実感、西城秀樹「炎」
作詞は阿久悠。作曲は馬飼野康二。物語の始まりを思わせる、管弦楽器のドラマチックなイントロの中で、ヒデキは片手で真っ直ぐに天を指差しながら、ゆっくりと腰を低く落としていく。歌が始まり、狂おしい恋に挑む歌詞の世界を体現するように、身をよじり、天を仰ぐヒデキは、ただただ美しい…。
ヒデキの動きから目をそらせない。アクションで魅せる、テレビ時代に最高にふさわしいスターであることを改めて思わせる。わずか4分半ほどの楽曲ながら、ミュージカルを観ているような充実感がある。
阿久悠による歌詞の世界は、まさに燃えている。美しくも冷たい人を愛してしまった苦しみ。しかし、その苦しみを、
あなたに出会った不幸を思えば
この先苦しむことなどないさ
… と不屈の心で跳ねとばす。
この恋は戦い。そして、後に続く「炎で氷を溶かしてみせる」というフレーズがいいのだ!
それにしても、「炎で氷を溶かしてみせる」とは、なんてヒデキにぴったりなのだろう。氷を溶かすのに、ヒデキは水をかけるなんてまだるっこしいことはしない。炎だ。真っ赤な炎の中で、大きな氷塊がきらめきながら溶けていく… そんな美しい絵を想像してしまう。
ときには自分の命を危険に晒してでも情熱を燃やすヒデキの仕事
西城秀樹は炎のようだ。その、燃える男ぶりをよく表すのが、野外コンサートにおけるエピソードだ。西城秀樹は、日本で初めて野球場でのコンサートを行ったソロアーティストでもある。ヒデキの球場コンサートの見せ場は、歌と演奏だけにとどまらない。これも日本初のレーザー光線や、電飾を仕込んだ衣装など誰もみたこともない演出でステージを作り上げた。中でも驚異的なのは、現在では許可されない巨大クレーンにより宙づりになったゴンドラの中での歌唱だ。
私はその模様を『ブロウアップ・ヒデキ』という、1975年のヒデキのコンサートツアーを記録した映画で見たが、本当に度肝を抜かれた。工事現場で使われるようなクレーンが、ヒデキが乗ったゴンドラ(柵は腰までの高さしかなく心許ない)を地上30mの高さまで吊り上げるのだ。ヒデキはゴンドラから身を乗り出すようにして踊り、クレーンはぐいぐい動く。くらくらした。ちなみにこの演出は、ヒデキ自身が工事現場のクレーンを見て「何か使い道ないかな」と閃いたのが切っ掛けだという。雨のコンサートでは、マイクから感電しながら歌を歌い続けた。後にヒデキは語る。
「本当に死んでもかまわないと思いながらやっていた」
ときには自分の命を危険に晒してでも情熱を燃やして表現するヒデキ。これこそ「炎で氷を溶かして見せる」ヒデキの仕事だと思う。
大きかった西城秀樹の影響力
ヒデキはまた、他者の仕事にも敬意を払う人物だったようだ。1979年に発表した「YOUNG MAN」のシングル盤制作が急遽決まり、神奈川県内のビクターレコード工場では生産が追いつかなくなったと知ると、ヒデキ自らが工場へ出向き、従業員を前に「残業させてしまいますが、お願い申し上げます」と呼びかけ、激励の意志を込めて「YOUNG MAN」を歌唱したという。なんて素晴らしいんだろう。
ヒデキの人生を追っていると、一人の人間が一生にこんなに沢山のことを成し遂げることができるものかと驚かされる。超人のような情熱で、燃えるように生きたヒデキは、大きな影響力を持つ存在でもあった。彼が与えた影響で、現在まで残っているものは多い。
とても全ては書ききれないが、例えば、コンサート会場にペンライトを持ち込むことを始めたのもヒデキである。サイモンとガーファンクルの海外のライブでファンがライターを灯す姿にヒントを得て、1974年の球場ライブで「なにか光るものを用意してきて!」と観客に呼びかけると、それ以降、ペンライトを観客が用意するようになったのだ。
また、ソニーの初代「ウォークマン」を流行らせたのもヒデキだと言われている。当初はあまり売れなかったが、ヒデキがウォークマンを聴きながらローラースケートをしている写真が『月刊明星』に掲載されたのをきっかけに、その後の大ヒットに繋がったのだ。
西城秀樹の功績、優れた仕事をする人とは?
彼がキャリアの半ばで病に冒され、2018年5月16日、63歳という若さでこの世を去ったのは、余りにも悲しいことである。60代、70代のヒデキが歌う「炎」や「ブルースカイブルー」も聴いてみたかった。しかし、ヒデキの功績を振り返ってみると、これから先も残り続けるだろうと思うことが本当に沢山ある。
優れた仕事をする人は、その人の肉体や名前が消えても、意思は残り続けるのではないかと思う。それは、寿命という、人間に定められた限界への挑戦だと思う。また、炎で氷をとかすヒデキを想起してしまう―― どこかのコンサート会場でペンライトが振られる時、誰かがウォークマンで音楽を聴く時、そこにヒデキがいる。
このコラムを、西城秀樹の曲を聴きながら書いている。
ヒデキ、あなたは本当に、激しく、ワイルドで、燃える炎のよう。「格好いい」という言葉を思うと、あなたの顔が浮かびます。
再び「ヒデキー!!」と叫びたい。
私は、西城秀樹が大好きだ。
2021.05.16